近年で一番の怪作『茜色に焼かれる』を見た

約1ヶ月半ぶりの映画館ですごいものを見てしまった。予告編を見た限りでは昨今のコロナ禍における社会問題諸々を描いたドラマと思えたのだが、実際に見ると、なんというのか、そうはそうだがその枠に収まりきらない怪作としか言いようのない映画だった。これだけ突っ込みどころが多い映画はあまり見た記憶がない。思ったことのすべてを文章にまとめるのが難儀なので箇条書きする。

 

・冒頭の交通事故。明らかに池袋の事故をモデルにしている。加害者の弁護士が被害者の遺族(尾野真千子演じる主人公)に対してあんなに見下したような態度を取るだろうか。これは以降登場するほぼすべての男性キャラクターについても言えるのだが、露悪的に彼らをクズとして描く傾向がある。

・主人公の「まあがんばりましょう」という口癖には何か意味があるのかと思ったが特に何もなく。なぜあんなに思わせぶりに繰り返すのだろうとイライラした。

・息子役の俳優の棒読みが気になった。あと、なぜ終始はあはあ息切れしてるのか。

・風俗店の客。キャストに面と向かって「歳食ってる」とか「責任とって死ね」とか言うかね。ウシジマ君的な露悪趣味。ふつう風俗行って尾野真千子が出て来たらガッツポーズだろ。そういう店行ったことないから知らんけど。サービス受けてる男の顔きもいから映すな。

・息子をいじめる不良グループみたいなのが出てくるが、今時「売春婦」とか言うかね。「風俗」とかって言うんじゃないの。あえて貶めるような言葉を選んで使っていないか。税金のあるべき使い道とか、中学生がそんなこと考えるかね。

・花屋の店長、店の前で注意した後、さらに追いかけてくるのは不自然。注意はその場でまとめてするだろう。この店長とその上司らしきマネージャーもクズっぽい描写。

・施設のスクリーンで童謡を流すシーン、不気味だった。

・息子が自転車に乗る練習をしていたのは、彼が6歳くらいの頃に父親が亡くなってしまって自転車の乗り方を教えてくれる人がいなかったからなのか。自転車で事故に遭ったから自転車禁止の家庭だったのかもしれない。彼がはあはあ言いながら自転車に乗る練習をしていると遠くからそれを指差して笑っている不良グループの登場が、テンプレ過ぎて滑稽だった。

・なぜ職場で家計簿をつけるのか。

永瀬正敏演じる風俗店の店長が、主人公たちの会話を客に丸聞こえだと注意したくせに自分も普通に生きることの無意味について語り始めて笑った。

・風俗店の同僚と二人で酒を飲むシーンの尾野真千子のセリフの寒さ。「叫んだらごめんね。今必死で抑えてる」。すげー共感性羞恥を覚えた。「風俗嬢とかシングルマザーならすぐにやれると思っている男がムカつく」ってなんじゃそれ。映画で言うことか。

・息子のオナニーシーンの必要性。ないだろ。風俗の客の顔を映すのと同じで、監督はリアリズムを勘違いしていないか。露悪的にやって、これってリアルだろ、とか思ってそう。自然主義はリアルの極地か、ただの露悪趣味か。それとも観客を舐めてるのか。

・今時風俗ビラが貼られた電話ボックスなんてない。ケータイが普及する以前ならいざ知らず。やっぱリアル追求しているんじゃないのか。

・なぜ息子が自転車でアパートに到着したタイミングで相手が部屋から出てくるのか。都合良すぎ。肩から水筒掛けてたのはいいと思った。

・堕胎シーンも変にリアルっぽくしていて腹が立った。

・8歳で実の父親から性暴力→糖尿病でインシュリンが必要な体→風俗嬢→堕胎→子宮頸がん発覚。て、盛りすぎだろ。少し抑えろ。笑ってしまった。病気で死なせれば客が感動するとでも思ってるのか。やっぱ舐められてる。

・中学の同級生の唐突な登場。「全て任せろ」とかカッコつけておいてこいつもクズ。離婚したと言うのは嘘だったのか。「客とやって感じるの?」とか「じゃあ上手いんでしょ」とか、実際ああいう空気でそういう発言するかね。なんか漫画とかだと不自然じゃなくても実写でやると不自然になる描写ってある気がする。

・息子は塾に行かず自宅学習もせず本を読んでいるだけで全国模試トップクラスになれるチートキャラ。

・不良グループが息子に執拗に構う必然性がない。

自転車泥棒のシーンなくていいと思う。盗まれた方も気付くだろ。

・主人公がキレるのはいい。しかしなぜ家で塗らず神社のトイレで口紅を塗るのか。「おい!」は迫力があって素晴らしかった。包丁を取り出した時は「刺せ! 殺せ!」と声出しそうになった。この神社のシーンがこの映画の白眉。男が橋の上で蹴られているとき、後ろで店長が「落とせ、落とせ」言ってるところで声だして笑った。

・というかキレるなら自宅に放火した不良グループにキレるのが筋だと思う。相手を好きになった自分にも一端の非はあろう。男にキレるのはお門違い。

・タイトルにもつながる、一番大事な夕暮れの母子二ケツシーンがバレバレの合成で興醒め。そこはちゃんと撮ってほしい。

・ミュージシャンで、本を大量に持っていて、有り金全て新興宗教に巻き上げられて、愛人とその子供がいて…と死んだ夫の設定盛り過ぎ。

・死んだ夫の愛人の娘は今年高校生だという。主人公の息子は少なくとも中学二年だろう(不良グループが自分たちは年上だと言っている)。ということは愛人の子供の方が年上で、というとそれは本当に愛人なのだろうか。むしろ主人公の方が愛人だったのでは…? ということはこの映画は彼女の妄想なのか? と戸惑った。多分設定ミスだろうが。

・この愛人と夫のバンド仲間のやりとり(無駄な性欲描写)は展開上不要。

・花屋の店長が、大事な取引先の娘にボディタッチしまくっているのはなんだあれ。

・最後まで、主人公が事故の加害者から慰謝料を受け取らなかったこと、愛人に養育費を払っていることの説明がないのでスッキリしない。「母ちゃんは難しい人だ」という息子のナレーションで済ませてしまうのは雑。

・ラストの芝居のシーンがやばすぎる。見てはいけないものを見てしまったような気まずさが笑いより先にきた。周りからは笑い声が結構起きてた。連れも笑ってた。永瀬正敏が真顔でカメラ回してるのがシュール。「神様」ってなんだ。

 

覚えている限りではこんなところか。この映画はとにかくラストがやばすぎる。意味が全然わからない。あと、作中で頻繁に「ルール」という言葉が出てくるのだが、コロナによって明らかになった日本の同調圧力のことを言っているのだろうか。貧困、格差、母子家庭、虐待、いじめ、女性差別、女性蔑視、セクハラ、そしてコロナ。描写は陳腐なのに、監督は大真面目に、「今の日本のリアルを描き切った」とかドヤ顔で思ってそう…と自分は感じて、見終わってげんなりしたのだが、Twitterで軽く検索すると結構評判いいようで驚いた。ただ、駄作とまでは思わない。自分に撮って駄作とは、紋切り型の設定やセリフ、予定調和な展開に終始し、見ても何一つ得るもののない作品のこと。この映画は少し違う。陳腐さに満ち満ちていながらどこかズレていて、お約束をはみ出していくところがある。露悪趣味もいいスパイスといえなくもない。もしかしたら監督はじめスタッフが一所懸命に作ったのかもしれない。一所懸命なものって滑稽さと紙一重な部分があって、シリアスは容易に笑いに転じうる。観賞後、連れはあれこれ突っ込みながら感想を述べ、結構満足した様子だった。自分も突っ込み部分を挙げながら、見終わってからこんなに内容について二人で語った(突っ込んだ)映画を見たのも久しぶりな気がした。

 

稀有な怪作。もし、終盤から一転して尾野真千子が自分を舐めた相手を一人一人殺していく展開になったら(包丁を持ち出した時、そうなったらいいなと思いながら見ていた)、自分にとってはすごい映画になっていた。

『ベルセルク』と私。あるいは「祈るな、祈れば手が塞がる」

三浦建太郎の突然の訃報。こんなにもショックを受けるとは実際にその報に接するまで自分でも想像だにしなかった。今年一番の衝撃かもしれない。一昨日は田村正和の訃報。昨日は星野源新垣結衣の結婚。そして今日は三浦建太郎の訃報と物凄い三日間となった。

 

といって三浦建太郎のファンというわけではない。『ベルセルク』しか読んだことはない。『ベルセルク』のファンである。自分の人生で特別な漫画を三つ挙げるとしたら、『ドラえもん』『寄生獣』『ベルセルク』になると思う。掲載誌は追っていない。単行本を買っていた。初めてこの漫画を知ったのはたしか20年近く前で、友人に面白い漫画があると教えてもらったのがきっかけだった。その頃自分は世田谷で一人暮らしをしていた。すすめられて三巻くらいまでまとめて買った記憶がある。あまり好みの絵ではなかった(初期のタッチは今読み返しても微妙だと思う)。主人公ガッツの性格もあまり好きになれなかった。しかし伯爵との戦いは復讐者としての容赦なさを面白く思った。この時点では意味不明なゴッドハンドの出現、そして黄金時代編。続きが気になり当時の既刊を全て買った。おそらく自分が『ベルセルク』にハマったのは黄金時代編のゾッド登場から。強くなりすぎたガッツとグリフィスですら太刀打ちできない化物。なぜ人間が牛の怪物に変身するのか。このあたりから作品世界に興味を持ち、いくつかの謎を考察する楽しみに気付いたように思う。

 

現時点で刊行されている40巻までで最大の山場は蝕だろう。あの美しかったグリフィスが再起不能なまでに蹂躙され、それでも夢を諦めきれず、仲間たちを犠牲にして己の願望を成就させる。「…げる」。直後の死の嵐。人外どもによって仲間たちは嬲り殺され、キャスカはガッツの見ている前で凌辱される。この蝕のシーンを初めて読んだ時は本当にショックだった。強者揃いの鷹の団がなす術もなく一方的に虐殺されていく。一縷の希望もない絶対的絶望。このシーンを予備知識なしで読めたことは今振り返ると幸運だったと言っていい(すすめてくれた友人は内容について一切触れなかったし、2000年前後、自分はインターネットと無縁だった)。

 

断罪編のモズクズとの戦いまではいかにもダークファンタジーといった感じで楽しく読めた。領主や貴族ら上級国民にとって庶民の命など虫けらと大差ない、そういう中世の雰囲気が見事に描出されていた。異端審問の拷問シーンにはゾクゾクした。上級国民はクズ、しかし庶民もまたクズ。そういう徹底したリアリズムがこの漫画の魅力だったように思う。

 

しかしグリフィスが受肉して以降はそれまでの勢いが衰えたように感じた。ゴッドハンドの強大さに対抗するための魔法の登場だったのか。仲間が増え、武具も新調でき戦力が以前よりかなり増強されたのはいいが、ガニシュカとの戦いはただ長いばかりでつまらなかった。このペースでやってたら終わらないんじゃないか、と不安を抱いた記憶がある。ガッツをはじめ新たな仲間たちは魔法の武具で強化されはしたものの、グリフィス率いる新鷹の団との戦力差は明白。先の展開は一切読めなかった。そして、あんなにも長かったキャスカの心がついに戻った、というところで最新40巻は終わっている。

 

このあとの展開はどうなったのだろう。ゴッドハンド全員を倒すのは不可能だろうし、倒す理由もない。あくまでガッツの標的はグリフィス=フェムトのみ。黙示録に記された予言では、グリフィスは闇の鷹、世界に暗黒の時代を呼ぶ者らしいが、受肉したグリフィスのいるミッドランドはまるで理想郷で、ガッツの復讐の必要性が疑わしく思えてくる。伯爵がゴッドハンドを召喚した時、あるいは剣の丘で再会した時、ガッツはグリフィスを本気で殺そうとした。しかしキャスカの記憶が戻った今、そして新しい仲間たちとほっこりな道中を来た今、かつて抱いた復讐心は変わらず滾っているのだろうか。下火になってはいないか。グリフィスが受肉した肉体は、卵の使徒が飲み込んだガッツとキャスカの赤子だとしたら事態はより複雑になる。

 

仮にグリフィスと戦うとしたら。あの強大な軍勢とガッツが互角以上にわたり合うには、旅のメンバーに加えて強力な軍勢が必要になる。候補として考えられるのは妖精島の魔法使いたち。人魚たち。クシャーンたち。妖獣たち。リッケルトの開発する近代兵器。そして髑髏の騎士。このあたりだろうか。それでもぜんぜん敵わないかもしれない。数では圧倒的に劣っている。グリフィスには新鷹の団とミッドランド軍がついている。となるとさらに新たな仲間候補が出てくる予定だったのか。ファルネーゼ繋がりで何かか。それとも少数で陽動を行いグリフィスとサシでガッツが戦うのか。確かに仲間たちにはグリフィスたちと戦う理由はないわけで、このあたりどう展開していくつもりでいたのか。自分はリッケルトがキーパーソンになるのではないかと予想していた。中世の世界をリッケルトの発明が近代化させる。ファンタジアの終焉。神や精霊を信じる人々が減り、神話世界の住人たちは居場所を失って消滅する。教会の土地は元々土着の精霊信仰の土地だった、みたいな描写がどこかにあったが(ハイネの『精霊物語』のような)、いわば同じことが再び形を変えて繰り返される。しかし、グリフィスを倒すことはあの世界にとってはむしろ損失としか思えないので、ガッツとグリフィスの因縁がどう決着するのかはちょっと予想できない。

 

謎も多い。自分が一番知りたいのは髑髏の騎士の正体。伝説の通り、彼が覇王ガイゼリックで、ボイドが古の賢者なのか。狂戦士の甲冑のかつての所有者でもあるんだったか。強キャラ感凄かったのに、ベヘリット剣でやらかしたせいでなんか微妙な存在になってしまったのが惜しい。彼の正体は、ゴッドハンドとは何か、ベヘリットとは何か、という作品世界の根幹に関わっている…ように思われる。

もう一つ気になるのはガッツが持っているベヘリットベヘリットはゴッドハンドに転生できる覇王の卵と使徒に転生できるそれ以外があるんだったか(うろ覚え)。ガッツのは覇王の卵ではないだろう。以前ネットで、ガッツがベヘリットを使いシールケら旅の仲間を贄として捧げて使徒転生してグリフィスと戦うのでは…的な予想を見たが、使徒はゴッドハンドの下僕的存在(ガニシュカのような例外はあるにせよ)だから、その展開はないだろう。それはグリフィスのやったことの反復にもなるわけで、だからこそ余計にガッツは仲間を捧げることはしないと思う。でもそうするとあのベヘリットの存在理由がよくわからない。

 

ベルセルク』で一番印象に残っているのは蝕のシーンだとはすでに述べた。変わり果てたグリフィスの救出→「…げる」→蝕の流れ。漫画史に残る名シーンだろう。

他に印象的なのは黒犬騎士団との戦い(エンジョイ&エキサイティング)、ロストチルドレンの章の本気の戦争ごっこ。前者はエキサイティング、後者はおぞましい。実際、昆虫それも蜂ってビジュアル的に結構クるものがある。ロストチルドレンの章は終わり方が切なくてなあ…。今ふと思い出したのだが、伯爵の娘の「いつか必ず殺してやる」は伏線だったのだろうか。あの娘の再登場は…多分ないか。

 

以上つらつらと書いてきた。やっぱり、まだまだ、あと十年、二十年、読みたかったという思いが強い。かえすがえすも作者の死が残念である。でも十分に楽しませてもらったという思いもある。ガッツ一行は妖精島でくつろぎ(キャスカのPTSDの問題がありそうだが)、グリフィスは理想郷を築き…と両者まあまあ平和な感じで終わっているところが救いといえば救い…だろうか。

 

三浦建太郎先生、お疲れ様でした。こんなにも素晴らしい漫画を本当にありがとうございました。

 

 

ベルセルク 1 (ヤングアニマルコミックス)
 

 

永江朗『51歳からの読書術』を読んだ

 

51歳からの読書術―ほんとうの読書は中年を過ぎてから

51歳からの読書術―ほんとうの読書は中年を過ぎてから

  • 作者:永江 朗
  • 発売日: 2016/02/01
  • メディア: 単行本
 

中年に関する本として選択。著者個人の読書の方法論。扱われるのはほぼ文芸作品のみ。しかし読書のスタイルとして本書の内容は文芸以外の読書にも適用できると思う。以下、自分が参考にしたくなった箇所をメモ。

 

何を読むか迷ったら文学賞受賞作を読め

賞なんて政治だろうという気もしなくもないが見識のある評者が選ぶのだから優れた作品なのだろう。芥川賞直木賞は読まなくていい。野間文芸賞谷崎潤一郎賞泉鏡花文学賞大佛次郎賞受賞作がおすすめだという。その理由はとくに書いていないのだが。以上の賞を意識して読んできたことはなかったが、試しに自分がこれまで読んできたのがどのくらい入っているかWikipediaで確認してみた。野間文芸賞は『山の音』『金閣寺』『まぼろしの記』『黒い雨』『枯木灘』、谷崎賞は『抱擁家族』『沈黙』『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『雪沼とその周辺』、泉鏡花文学賞は『シングル・セル』『グロテスク』、大佛賞はなし。挙げたタイトルの半分以上に感心した・面白かった記憶があるので著者の主張は妥当かもしれない。大佛賞受賞作に面白そうなタイトルが多々ある。

 

一年間のテーマを決める

年間これというテーマを決めて読む。特定の作家だったり、ジャンルだったり。自分も何度か同ジャンルをまとめ読みしようとしたことがあるが三冊目くらいで飽きてしまう。もう今年も半分が経とうとしているが、自分は今年一年のテーマとして「中年」に取り組もうか。特定の作家を選ぶとしたら今年は山田太一を読みたい。

 

新書は優れた入門書である

新書は専門家が一般読者向けにわかりやすくコンパクトにまとめたものが多い。具体的な理由は書いていないが、岩波新書(岩波ジュニア新書)、中公新書講談社現代新書が外れの少ない御三家。あまり新書は読まないが、確かに岩波と中公には信頼感がある。著者はこれら三レーベルを挙げたあとでさらにあれもいいこれもいいと足していくのだが、それだと多すぎる。忖度したのだろうか。

 

山川の教科書とちくま評論選

著者は読書のお供として山川出版社の日本史と世界史の教科書を机のそばに置いておき、気になる箇所があると引くという。素晴らしい読書スタイルだと思うけれど、自分は(四方田犬彦『人間を守る読書』のように)読書の大半をベッドでしているので真似するのは難しい。四方田氏は楽しみの読書を「読む」、勉強のための読書を「調べる」とカテゴライズした。自分はもっぱら「読む」のみ。ちくま評論選は受験参考書としても評論のアンソロジーとしても優れているとのこと。読んでみたくなった。

 

老眼なら電子書籍おすすめ

毎日新聞社が行っている読書調査によると普段本を読むと回答する人の比率は1960年代から殆ど変化していないという。そして若者より中高年の方が読んでいない。中高年の「読書離れ」の原因として考えられるのが老眼・飛蚊症白内障。自分も、元々の近視に最近では老眼が加わり二時間続けて本を読んでいると目がだいぶ疲れる。2段組の本を長時間読むのは結構辛い。電子書籍なら文字のサイズを好みに変更できるので中高年に向いている。Kindle Paperwhiteならバックライト搭載で目への負担も少ない。自分も買う本の三割くらい(漫画はほぼ全て)電子書籍で買っているが、大半が1000円以内の本ばかりで、かたちのない電子書籍に3000円とか出す勇気はまだ出ない。3000円出すならばリアル本を買う。あと、中年になって気づいたのだがフォントや文字サイズによって読書のしやすさが違ってくる。読みやすい本とそうでない本がある。岩波文庫の最近のバージョンはとても読みやすい。みすず書房白水社早川書房も読みやすい印象がある。文庫本の小さい文字を大きく改版した最初はたぶん新潮文庫だったと記憶している。確かに文字は小さいより大きい方が読みやすいのだが、ページとのバランスも重要。講談社文芸文庫で復刊した『死の島』は読みにくかった。

nlab.itmedia.co.jp

これと関連してそうだがデザイン大事。 

 

悲しい本は読まなくていい

現実が辛いのに本(映画でもなんでも)でさらに辛い世界に浸るのは精神的に自分を追い詰めることになるのではないか、という指摘。賃労働でその日その日を食い繋ぐ毎日はそれだけで辛い。ましてやコロナ・パンデミックの昨今、連日ニュース番組はウィルス感染者数から報じる。今日は何人感染、何人重症、何人死亡、と。こんな毎日がもう一年以上も続いているのだから気分は滅入る一方である。カミュの『ペスト』新訳とかサラマーゴの『白の闇』とか、平時なら楽しく読めるのに今は現実と重なってさらにしんどくなるから読めない。フィクションは辛い現実からの避難所であるべきと自分は思っている。

ハッピーエンドって「浅い」よな、そう思っていた時期が俺にもありました。実際、圧倒されるような小説の大半はハッピーな内容ではない。

 『カラマーゾフの兄弟』とか『世界終末戦争』とか『シルトの岸辺』とかもそう。カフカだったか、自分を脳天から叩き割る斧みたいな本だけが読書するに値するとかなんとか言ったのは。でもそういう意見は若い人のそれ、という感じが、中年になった今はする(カフカは40歳で亡くなった)。若い頃は体力も気力もあるから重い内容を読んでも平気だが、年食ってくると体に堪えるようになる。また、ある程度現実生活が充実していて精神的余裕がないと重厚な内容のはきつい。ホラー映画がバブル期を頂点に日本で衰退していっているのも似たような理由からではないだろうか。自分も若い頃はホラー好きだったけど最近きつくなってきた。『スペイン一家監禁事件』、見たかったのにいざ見たらしんどかった。

nikkan-spa.jp

ハッピーではないかもしれないが読んでいてうっとりした小説は何だったか。ラルボー『幼なごころ』、ラディゲ『ドルジェル伯の舞踏会』、コレット青い麦』、ル・クレジオ『地上の見知らぬ少年』、シュティフター『晩夏』、ヴァルザー『タンナー兄弟姉妹』、あとは小山清庄野潤三は読み終えていいものを読んだという恍惚と充実があったような気がする。『ウォーターシップダウンのウサギたち』はめちゃくちゃ面白かったが、再読して初読時の感動が薄れるのを恐れて再読できずにいる。ナボコフなら、読書は再読しかありえないというだろうが。

 

他にもいろいろ書いてあったがとくに自分が参考にしたいと思った箇所は以上。

 

 

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

桐野夏生『夜の谷を行く』を読んだ

 

夜の谷を行く (文春文庫)

夜の谷を行く (文春文庫)

 

 主人公の西村啓子は60代の年金生活者。かつては連合赤軍の末端メンバーの一人だった。山岳ベース事件の最中、もう一人の女性とともに下山して逮捕、起訴された過去を持つ。有罪判決を受け刑期を務めたあとは個人学習塾を経営していたが、数年前に閉鎖し、今は年金と貯金を頼りに一人アパートで暮らしている。事件を起こしたために両親は心労で早くに亡くなり、親類とは絶縁になり、妹とその娘だけが西村にとって唯一心許せる相手だった。40年もの月日、西村は事件のことをひた隠しにして暮らしてきた。出所後はかつての同志たちと一切の連絡を絶った。しかし2011年の永田洋子の獄死が契機となって、彼女は自身の過去と対峙することになる。

 

桐野夏生作品は15年くらい前に『グロテスク』を読んで圧倒されて以来。本作も読ませる小説だった。先が気になって、普段は23時には寝る人間が深夜1時過ぎまで読み耽った。中盤の、主人公が姪に自身の過去を打ち明けるシーンが白眉と見る。自分たちは崇高な理想を掲げて戦っていたつもりなのに、後世に育った姪にはテロリストとしか思われない。「テロリストって犯罪なの?」と主人公が訊くと、「そりゃそうでしょう」と姪は迷いなく答える。姪の反応は現代において常識的な反応だろう。ここのやりとりを読んでいて、ふとミラン・クンデラの『冗談』を思い出した。『冗談』では(もうほとんど内容を忘れてしまったが)それぞれまったく主張の異なる二人の活動家が、何十年も経った後では若者たちに一緒くたにされてしまう。若い人たちはそんな過去の思想に関心がない。だから二人の人物は、昔政治運動をやってた年寄り連中、と右も左もまとめてカテゴライズされて終わり。それが歴史の残酷さだ、歴史の中では人の営みなど冗談のようなものだ、とクンデラはシニカルに書いていた…ような気がする…が記憶違いかもしれない。桐野氏によるこの小説では過去は今もなお亡霊のように主人公に付き纏っている。

 

読んでいる最中はとても面白かったのだが、読み終えると物足りなさが残った。それは、二つある主題が解決されないまま終わってしまうから。一つは、犯した罪は、裁かれ、刑期を終えさえすれば精算されるのか、という問題。精算されないとしたら罪はどうすれば許されるのか、あるいは犯したが最後罪は決して許されることはないのか。もう一つは、主人公の罪が周囲の人間に及ぼした影響の問題。かつて家族や親類に迷惑をかけ、今度は姪の結婚が破談になるかもしれない。姉の犯した事件のせいで妹は離婚する羽目になり、一人で娘を育てねばならなかった。そのことを妹はまだ許していない。この二つの問題が、小説内で提起されているにも関わらず最後まで解答が得られなかったので、それで読み終えてもやもやしたのだと思う。余談だが、かつて国家権力と闘争した主人公が、今では年金を受給しているという設定は皮肉が効いていてよかった。

 

本作の重要な背景である山岳ベース事件(あさま山荘事件は主人公が関わっていないため触れられない)について、自分は断片的な知識しかない。若松孝二監督の『実録 連合赤軍』は見た。すごい映画だと思ったけれど気分が悪くなるので二度と見たくないとも思った。総括の場面はおぞましかった。イデオロギーに関心がない人間としてはなぜメンバーがあんなに熱くなっているのか理解できなかった。連合赤軍の事件はイデオロギーというよりカルトに通じるものを感じる。

 

2021年ゴールデンウィークまとめ

昨年に引き続き新型コロナウィルス感染拡大を受けステイホームが推奨されたゴールデンウィーク。埼玉県は一部地域がまん延防止等重点措置の対象区域となり、県境を越える移動の自粛が要請された。毎度違和感を感じるのだが「自粛の要請」って日本語として変じゃないか。というわけで二年連続で旅行に行けなくなった。例年、GWは家のDIYに取り組むのだが今年はそういう気分にもなれず、やろうと予定していたことはあったのに、結局手をつけないまま今日最終日を迎えた。今年のGWは4/29からの一週間。が、特別なことは一切せず過ごした。十年前に今の会社に入社して社会人として初めて、GWをはじめとする大型連休を過ごせる身になったのだが、この十年でもっとも何もしなかった、したがって全く充実感のない、だらけきった一週間を過ごした。かといって、例年なら感じる、連休初日に戻りたいという願望もなく、むしろ早く会社に行きたいとすら思っている(行けば早く帰りてえ、夏季休暇が恋しい、となるのだろうが)。とにかく毎日退屈すぎる。さっさと働いて金を稼いだ方がマシ(金が欲しい)。

 

連休中したことは、読書、ゲーム(サガフロとスレイザスパイア)、動画視聴(U-NEXT)、散歩、自炊、部屋掃除。読書は、荻原魚雷『中年の本棚』を読み、そこで紹介されている本をいくらか読んだ・読んでいる。

hayasinonakanozou.hatenablog.com 読書は基本ベッドに寝転がってする。が、何冊も続けて読んでいるとだんだんモヤモヤ、イライラしてくる。インプットが続くとしょぼい脳に過負荷がかかるのだろう。スレイザスパイアやっていていいカードが揃っているのに、ボス戦で引きが悪くて死ぬとストレスはさらに増大。で、鬱屈を晴らすには運動、歩くのがいいと考え、一時間から二時間ほど近所を散歩するようにした。距離にして5000歩から8000歩ほど。しかし今年のGWは天気が不安定で(雹が降った日もあった)雨が降りそうだからと歩けない日もあった。今日も朝から曇りで時々雨がぱらついている。今年はまったく盛り上がらないGWだった。

 

動画はU-NEXTでまどマギ『叛逆の物語』と『なぜ君は総理大臣になれないのか』を見た。前者は映画館で二回観た。もう八年も前の映画なのに今見ても全然古くない。紛うことなき名作。序盤の変身シーンがアートしてて好き。斎藤千和さんを筆頭に皆演技が素晴らしい。終盤の杏子とさやかのやりとりは何度見ても泣きそうになる。先日告知された新作『ワルプルギスの廻天』、もちろん早く観たいけれど、見られる日が来るのが生きる支えにもなるのでまだまだ先でもいい。

後者は、あまり期待しないで見たらめちゃくちゃ面白くて二時間あっという間、どころか見終わってもっと見ていたいと思ったほど。普段見られない選挙の舞台裏が見られるのが自分のツボだった。組織に翻弄される悲哀や、家族の絆も見応えがある。ただ小川さんの政策や公約などがあまり説明されないので、人間としての熱さ・真面目さは伝わっても代議士としての特徴がいまいち伝わって来なかった。まあ気になったら公式サイトやTwitterYouTubeチャンネルで調べればいいので、結果的に映画はいい誘導になっているとも思った。なぜ総理大臣になれないのか、というタイトルの問いは、なぜ彼のような人物を総理大臣にならせてやれないのか、という有権者側への問いにもなっている、と見る。面白かったのでYouTubeで対談や劇場挨拶も見たらこちらもかなり面白かった。で、見ていて思うのは、小川さんの言葉を駆使する力というのか、喋る能力の高さ。政治家にとって大事なのは何よりも言葉だとよく言われるけれど、的確に、淀みなく、ユーモアを交えつつ情感込めて喋る姿を見ると、純粋に、すげえなあ、という感想しか出てこない。この映画については色々思うことがあるので気が向いたら後で書くかもしれない。

 

自炊はパスタと、シリコンスチーマーを買ったので蒸し野菜を作った。フライパンを使っていたときよりも便利で楽になった。連休前日に買ったアードベッグを飲みきり、金銭および体調および減量のためしばらく酒を控えることにした。肝臓がアルコール分解をしていると痩せにくくなるとかなんとかいう文章を見たので、本当にそうなのか確認を兼ねて。減量に影響ないのならまた飲むかもしれない。

 

どこへも出かけないから金を使わないGWだった。大きい出費は『つげ義春大全』の別巻三冊を買ったくらい。 

浮いた金はemaxis slimオールカントリーの購入に充てる。今年のGWは定年後の予行演習のようだった。読書、散歩、ゲーム、動画視聴…。退職後、こんな毎日を続けることになったら…どうだろう、気楽でいいとは思うけれども、張り合いがなくてつまらねえ、という思いもある。退屈すると凡人はろくなことをしない・考えないから、なにか打ち込める趣味、それも消費ではなく生産的な趣味があった方がいい。あと、あまり密じゃない程度で人との繋がりもあったほうがいい。いやなことは自分の外から来る、しかし楽しいことも自分の外からしか来ないから。44歳独身、そろそろ老後も視野に入れつつ生きねば。

 

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

関川夏央『中年シングル生活』と津野海太郎『歩くひとりもの』を読んだ

 

中年シングル生活 (講談社文庫)

中年シングル生活 (講談社文庫)

 

 荻原魚雷『中年の本棚』で紹介されていた二冊。『中年シングル生活 』には『歩くひとりもの』の引用が度々あり、二冊には響き合う部分がある。関川氏は言う。「いまだひとりでいるのも、やっぱりなりゆきというしかない。仕事以外には、いっさい意見と希望を持たないといった受動的な態度をつらぬくと、こういうことになる。結果、日々の人事雑事から相当程度解放されるかわりに、それらを積み重ねるわずかなあわいに見出す安堵や快感、いわゆる家庭の幸福からは見放される」。津野氏は言う。自分は「主義ではなく習慣としてのひとりもの」である。両者ともある意味受動的な態度をとり続けた結果としての独身ということで、その緩さが同じ中年の独身者として心地いい。

 

二冊とも中年独身者の身辺についてのみ述べた本ではない。文芸批評や回想や追悼文なども含まれている。ただ、二冊とも「中年の独身者である」ことが基調としてある。関川氏は、一人で老後を迎える者に必要なのは金と友情だという。『中年シングル生活』では著者には同性異性問わず独身の友人が数多くおり、独身者同士でつるみ、二人きりで旅行に行けるほど親しい異性までいる。関川氏は親しい独身者たちで金を出し合って自分たちだけの老人ホームを建て、老後不安から解放されることを夢見る。金と友情(もっと広く人間関係といってもいいと思う)が大事という主張は頷ける。が、それは独身者も既婚者も同じだとも思う。より必要、ということだろうか。

 

津野氏は独身である現状を、あくまで一時的なものと見ている。というか人間は生きている限り常に途上なのだ。死んで初めて不動になる。この先何が起きるかは分かったものではないのだから、生きている間はある意味仮初とも言えるだろう。津野氏は金の重要性については特に述べていないけれども、生涯独身だったアメリカの哲学者・沖仲仕エリック・ホッファーを引き合いに出して、独身者といえど擬似家族(人間関係)を必要とすることをやはり示している。人は一人では生きられない。あるいは生きる張り合いがない。

 

『歩くひとりもの』。都市の散歩者としての独身者。このタイトルについて直接的な言及は津野氏のこの本の中にはなくて、可笑しなことに『中年シングル生活』の方に解説的な言及が出てくる。曰く、

 目的を持たないぶらぶら歩き「散歩」は、日本では明治二十年代にはじまった。それまで、桜、花火、菊、雪など季節の見物はあっても散歩はなかった。田舎では現代でさえ散歩者はあやしまれる。

 あるいは、

 家族でするのは「お出掛け」である。散歩は、家族や家庭的なものから離れ、家長が束の間独身者に回帰するたのしみだった。

都市と独身者と散歩は相性がいいようだ。

 

二冊ともにもっとも印象的だったのは、独身者から見た家庭に関しての指摘の部分。

津野氏は、あらゆる家庭には黄金時代があり、しかしやがて必ずそれは崩壊に至ると述べる。両親は四十代くらいで現役バリバリ、子供たちは中学か高校に通っている頃が家庭の黄金時代ではないかと。悩みや問題も多く生じるかもしれないが、若い家族には勢いがある。しかしやがて子供は成長して独立し、老いた両親は亡くなり、かつて一家が団欒した家には住む人もいなくなり、売られるか取り壊されるかそれとも崩れるに任せて放置されるかという結末を迎える。人が皆いつかは必ず死ぬように、家庭もまた死ぬのである。中年こどおじとしては、自分の身の上が無理矢理にこの黄金時代を引き延ばしているもののようで、読んでいて感銘を受けると同時にきまり悪さも覚えた。 

一方で関川氏は、家族にはアルバムがあるが独身者にはないという。

 アルバムを持ち、それを増やしていく楽しみは家族がいる人だけのものだと思う。彼らには家族になる前の歴史がある。家族になって昇り坂の時代がある。全盛期と、それから黄昏とがあって、それらはみな記録に値するのである。

 ひとりものには、生活者として昇り坂の時代がない。全盛期がなく、ゆえにはっきりした黄昏もない。家族になる以前の時代などもとより大切ではないから、記念写真にもスナップにも意味がなく、したがってアルバムは成立しない。

 奥付を見ると『中年シングル生活』の刊行は1997年(『歩くひとりもの』の刊行は1993年)だから、カメラの付いたスマホを持つ人が大多数となった現代とはやや認識にズレがあるかもしれない。カメラがフィルムからデジタルになって撮影・現像のハードルは大幅に下がったけれども、カメラ付きケータイ、更には一昔前のコンデジより綺麗に写るスマホの登場により、独身者といえどアルバム(というか撮影写真のデータ)を保有するようになっているだろう。中年独身者である自分とて過去の写真はパソコン内にそれなりの量を保管している。ゆえに現代においては上記引用部分の「アルバム」とは「家族であること」の象徴と解釈するとしっくりくる。独身者とて友人や恋人とイベントや旅行の写真を残しているし、それらに「意味がない」とは自分は思わない。青春時代や大切な人たちと過ごした時間は、たとえそれが過去になったとしても「全盛期」であると思う。ただ、それらの写真データを「アルバム」というかいうと…どうだろう、たしかに違和感がある。もっともこれは昭和生まれの人間のアルバム観であって、卒業アルバムもCD-Rで配布されるとかされないとかいう現代においてはアルバム何それ美味しいの? 状態かもしれない。

 

二冊を著作で紹介した荻原魚雷氏は、二冊とも「何度読んでも飽きないし、発見がある」という。自分は『歩くひとりもの』の方はちょっと時代の懸隔を感じてしまいイマイチだったが(しかし「ひとりもの、年を越す」という章題の哀感と語感は素晴らしいと思った)、『中年シングル生活』は現代でも違和感なく楽しく読めた。荻原氏はまた、理由は述べないが二冊とも文庫版を読め、と勧めていた。その理由は読んでわかった。二冊とも文庫版は巻末に対談が載っており、おそらくはその部分について言っていたのだろう。津野氏の方は想定の範囲内だったが関川氏の方はちょっと驚いた(対談相手は阿川佐和子さん)。この記事の最初のあたりに自分は「同じ独身者」と書いたが、さて…。

 

好んでひとり暮らしをするのかと聞かれたら、違うという。家庭をつくりたいのにがまんしているのかと問われたら、それも違うと答える。ひとりで生きるのはさびしい。しかし誰かと長くいっしょにいるのは苦しい。そういうがまんとためらいに身をまかせてあいまいに時を費し、ただただ決断を先送りにしつづけてこうなった。つまり、ひとり暮らしは信念などではない。ひとり暮らしとは生活の癖にすぎない。

 

『中年シングル生活』 

 

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

荻原魚雷『中年の本棚』を読み、中年の自分について考える

 

中年の本棚

中年の本棚

  • 作者:荻原魚雷
  • 発売日: 2020/07/31
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

所謂ミドルエイジ・クライシスをサバイブする助けを書物から探る、ブックガイド的なエッセイ。冒頭、野村克也の著作にふれて「四十初惑」という言葉が出てくる。昔の賢人は「四十にして惑わず」と言ったが、今は人生八十年あるいは百年の時代。人生が長くなった分だけ惑いの時期も後ろ倒しになった。ゆえに四十にして初めて惑いに直面する、という話から始まり、今流行の異世界転生ものに通じる人生のやり直し願望や、サブカル中年が陥りがちな心身の不調などについて、書物を引用しつつ考察する。このサブカル中年についての章の、

中年になるにつれ、見るもの聞くものすべて新鮮で、興奮する時期が過ぎ去り、コレクションを充実させる喜びや新しい作品に触れたときの感激も薄れ、何をやっても徒労感をおぼえることが増えてくる。

 という一節はまさに現在の自分の状況と同じである。サブカル中年が心を病みやすいのは、「(日に当たらない)不規則な生活と(部屋にこもりがちで)運動不足になるのも原因のひとつではないか」という推測は、サブカル中年をインドア趣味中年と置き換えても首肯できる。対策として、大槻ケンヂは「アスリート化」を提唱する。サブカルを満喫するための体力を培うための運動の推奨。適度な運動、栄養バランスのいい食事、7時間(8時間?)以上の睡眠、禁酒禁煙なども「アスリート化」と言えるだろう。文芸評論家の中村光夫は、健康の土台がないと精神の活動が衰えると考え、60代になってから運動を始めた。著者は「半隠居」を提唱する。「休み休み働き、休み休み遊ぶ」。種田山頭火は、無理をしない、後悔をしない、自分におもねらないを誓いとしたという(本人は守れなかったらしい)。

 

体が不調になるから心も不調になる。目や耳や鼻が鈍くなり、これまで親しんできた世界が遠くおぼろげなものになっていくような不安を覚える。今までできていたことができなくなって戸惑う。これらも中年期の特徴だろう。水木しげるは睡眠にこだわった人だった。睡眠にこだわり93歳まで生きた。中年になると高齢の親の介護や看取りにも直面する。死を意識せざるを得なくなる。これからの時代ますます増加するであろう中年独身者(「二〇三〇年には男性の生涯未婚率が二八%になるという予想もある」)は身近に指摘してくれる他者が不在のため、「健康だけでなく、髪型や服装にも無頓着になりやすい」。若い人なら許される非常識な振る舞いも、中年になったら誰も注意してくれなくなる。

 

金があればまだいい。だがバブル期以降の年月が失われ続けている(10年? 20年?)現代日本では生きていくのがやっとの「下流中年」が今後ますます増える可能性がある。今はなんとか暮らせていても、いつ「下流」に転落するかわからない。その恐怖が社会から余裕を奪っていく。他人など知ったことか、大切なのは自分(とその家族)だけという不寛容な空気が社会全体に広がっていく。

 

…と、だんだん社会問題の方へと話がスライドしてしまったが、本書の基調は「ミドルエイジ・クライシスをいかに乗り越えるか」である。そのために個人ができる有効な対策は、前述したが「適度な運動、適度な休養、栄養バランスのとれた食事、十分な睡眠、他者との交流」などだろうか。不思議だったのは、頭髪が薄くなるか薄くなる兆候を見せはじめることと、恋愛及び性に関する章がなかった点。この二点も中年期の衰えあるいは変化として身近なものだと感じているのだが著者にとっては切実ではないのかもしれない。

 

本書では多くの書物が紹介される。その紹介が巧みなので読みたい本が一気に増えてしまった。吉田豪サブカル・スーパースター鬱伝』、杉作J太郎杉作J太郎が考えたこと』、水木しげる津野海太郎『歩くひとりもの』、関川夏央『中年シングル生活』、伊藤比呂美『父の生きる』、石牟礼道子伊藤比呂美『死を想う』、「下流中年」に関する本、尾崎一雄竹熊健太郎『私とハルマゲドン』、ジェーン・スー酒井順子星野博美橋本治など。ぼちぼち読んでいきたい。

 

 

以下は本書を読んで考えた、中年である自身についての話。

自分は今年で44歳になる。独身中年のこどおじである。30代までは心身とも20代の頃とさほど変わった感じはなく、20代の延長として30代を生きた(ように思う)。しかし40代に入ると状況は一変した。メンタル的にも体調的にも変化が起きた。以下にいくつか自覚している変化を挙げる。まずはメンタル関連。

・フィクションへの興味が薄れた

・フィクションよりもノンフィクションの方がとっつきやすくなった

・映画や本に対する集中力がなくなってきた

・映画や本に感動することが減った

・新しいものへの関心が薄れて興味が持てなくなった

・感情の変化が乏しくなった

・会話していて咄嗟にうまく言葉が出てこなくなった

・遊びを含め何をするにも億劫になった

30代半ばまでは、途中で多少退屈を感じることはあったとしても映画や小説を最後まで見たり読んだりできたが、今はちょっと飽きると、我慢してまで見(読み)続けてもしょうがないな、という気持ちになって途中で止してしまう。映画でも読書でも途中で止める、ということが40代になってからかなり増えた。なんなら最後まで見る、読む方が少ないかもしれない。堪えることができなくなっている。経験が増えた分比較対象も増えて好みの選別ができるようになった…といえば多少聞こえがいいかもしれないが、粗がすぐ気になるというのは頭が固くなった証でもあるような気がする。集中力が続かないのは後述する視力の衰えと関係している部分もあるだろう。でも40代でも『ゲーム・オブ・スローンズ』のような長大なドラマを最後まで楽しく見られたので、面白ければ集中力は続くのだ。プルーストを読破したのだって40代になってからである(途中からは楽しみというより義務的な読書となり半ば意地で読了したようなものだが)。漫画は今でもわりと読める。買い続けている漫画も多い。テレビアニメは全くと言っていいほど見なくなった。最後にシーズン通して見たのは『ケムリクサ』。これはとても面白かった。しかしだんだんフィクションより現実へ関心がシフトしてきた。感情の変化が乏しくなったというのは、動じなくなったというか、出来事に感情が追いつくのが遅くなったというか。女性と接してドキドキすることも減った…ような気がする。でもホテルのフロントで笑顔で対応されるとつられて笑ってしまう。我ながらきもい。自動車を運転していて苛々することが増えたのは加齢による前頭葉の劣化か。自動車の運転は絶対に若い頃より下手になっている。一瞬の判断ができなくなって待ったり譲ったりすることが増えた…が、これは安全面でいいことだと思っている。

 

次に身体関連。

・四十肩が一年以上続いている

・目がすぐ疲れる

・いくらでも寝られる、というか夜遅くまで起きていられない

・無理が怖くなった

・多少運動をしても間食を減らしても30代までのように簡単には痩せられない

口内炎が全然治らない

2019年末になった四十肩は、治療のため未だ整形外科に通院している。なった当初に比べたら今はだいぶよくなったが、腕を上げてぐるぐる回す動きにはまだ違和感と少しの痛みがある。これは完全に元通りにはならない気がする。目がすぐ疲れるようになったのはここ何年かのこと。パソコン画面を見ていたり読書をしているとしょぼしょぼしてくる。元々かなりの近視で、眼鏡がないと生活できないほどだが(初めて行くスパ銭では眼鏡かコンタクトがないと怖くて入れない)、これに老眼も加わってきた模様。酒を飲んでいなくても0時まで起きていられなくなったのも40代になってから。平日は22時頃には寝てしまい、2時頃に目が覚め、スマホをいじったりしているうちにまた眠くなり4時頃から再度寝る、ということが多い。何事も無理をしない、というか無理するのが怖くなって慎重になった。若い頃、勢いに任せてやったことを不意に思い出してヒヤリとする。食事を減らしても運動しても全然体重が減らないのはショックだった。30代なら2ヶ月もあれば3kgくらいすぐ減らせたが今はもう不可能。口内炎も30代までは一晩寝れば治ったが(夜勤していた時は一週間くらいかかった)今は一週間以上治らない。口内環境が汚いのかと思って先日一年ぶりに歯医者へ行き、歯石を取ってもらった。医師に相談するとビタミンBを取れとのことだったので、チョコラBBを買って飲んでいる。若ければ不要な出費だと思いつつ。

 

ありがたいことに頭髪はまだ一応ある。若い頃と比べたら一本一本がだいぶ細くなってしまったが。肩は痛いが、首、腰、膝はまだ大丈夫なので大事にしたい。夜、たまに死について考える。

 

 

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

 

hayasinonakanozou.hatenablog.com