国立西洋美術館で「自然と人のダイアローグ」展を見てきた

一年半ほどリニューアルのため休館していた国立西洋美術館が再開されて初の企画展。あまり話題になっている感じはないが世間的にはどうなのだろう。自然と人の交流の歴史、その趣旨は自分好みだがラインナップを見たところメジャーな印象は受けず。ただカスパー・ダーヴィト・フリードリヒの「夕日の前に立つ女性」が来ると知り、フリードリヒはブリューゲルゴヤやジョン・マーティンやムンクらとともに自分の好きな画家なので行ってみるかと。正直、あまり気乗りしなかった。梅雨入りし、時々雨の予報が出ている中、混雑する山手線に乗って上野まで行くのがどうにも億劫で。結局行ったのだが。

 

女の人の用事とちょうど重なったので途中まで一緒に行動することに。山手線を上野ではなく西日暮里で降り、谷中の方から不忍池までだらだら散歩しながら、途中にある釜竹でランチしようかと。夕焼けだんだんだっけ? 谷中銀座の商店街は結構混雑していた。仲見世通りや小町通りに比べれば可愛いもんだったが。しかしあまりにだらだらしすぎたため釜竹に着く頃には昼の閉店時間に。諦めて上野まで出たが、午後二時近いのに大戸屋とかサイゼとかコメダとかそのへんのチェーン店全部待ち。ラーメン屋はどこもスペースが狭小でリラックスできない。ランチ難民になってさまよっているうち雨が降り出す。結局アメ横のかつやへ入る。かつやでさえほぼ満席という盛況ぶり。期間限定のスタミナ炒めとチキンソースカツ丼は美味しかったのでよかったが。日曜日の上野駅周辺、混雑すごすぎてげんなり。このまま帰りてえ…となったがすでにチケットをネットで購入してしまっていたためそれもできず。店を出ると雨は上がってピーカンになっていた。

 

美術館前で女の人と別れる。国立西洋美術館へ来たのは久しぶりでいつ以来かわからない。どこがリニューアルされたのかもわからない。途中雨降ったし、時間も15時を過ぎていたし、館内は空いているだろうと予想して入ったが…甘かった。中は思った以上に人が多かった。とくに若い男女連れが多かったような。時間予約制を謳っていたがずいぶん枠に余裕があるのではないか。SNSによる宣伝効果を期待してか、大部分の作品が撮影可になっていたのは意外だった。美術館といったらカメラ禁止、メモは鉛筆のみ可の印象が強い。これも時代の流れか。

 

人も多かったし、スマホで撮影したい人も多く、動線もいいとは言えず(東博でやった鳥獣戯画展は動線がスムーズだったような記憶がうっすらとあり)遅々として進まずイライラ。あの、列になってベルトコンベア式に絵を見て行くのがどうも性に合わない。興味ないのは流し見して目当てのフリードリヒまでショートカット。「夕日の前に立つ女性」、もっと大きいのかと思っていたら思いほか小さく、A4か、もう一回り大きいかくらいのサイズなので最初見落としてしまった。この絵は撮影可だった。よく見たいが横にも人がいっぱいいるし、絵自体も小さくて、実物なのはありがたいが…油絵って印刷されたのを見ると2Dだけど実物を見ると絵の具が塗り重ねてあって3Dみがあるものだが、うーん。小せえ、というのが第一印象。

ネットで検索すると「朝日の前に立つ女性」とも題されている。女性が向かっているのが夕日なのか朝日なのかはわかっていないそう。女性のモデルはフリードリヒの若き妻らしい。中年だった彼が若い妻から霊感を受けた作品であれば朝日である方が希望が表現されていて画家の心境としてふさわしいようにも思えるのだがどうだろうか。余談になるが海外文学ファンならばフリードリヒというとちくま文庫のイメージが強いだろう。ヘルダーリンノヴァーリスの表紙はこの人の絵。荘厳な景色に(こちらに背中を向けていることの多い)人物を配置する構図がザ・ドイツロマン主義という感じで(自分の勝手な印象)非常に好ましい。画面の明るい絵もあるけれど暗い絵の方がこの人のよさが出ているように思う。

 

目当ての絵は見られたのでリラックスしてあとはざっくりと流し見。興味ある画家だけ見ていった。他人がすぐ横や前や後ろにいても気にせず鑑賞できるほどの集中力も素養も自分にはない。ギュスターヴ・モロー、ルドン、ムンクがいたので彼らの方へ。

ギュスターヴ・モロー「聖なる象」

 

河出文庫ユイスマンス『さかしま』の表紙のルドン

 

ルドンのコーナー。油絵はなかった、と思う。たぶん。

 

ムンク「アルファとオメガ」 月光の表現がこれぞムンクという感じ


上に挙げた画家たちの作品から「自然と人のダイアローグ」というテーマを見るのはちょっと無理がある気もする。モローにその要素あるか? コローやピサロもいたけれど、自然をテーマとするならバルビゾン派の画家がもっといた方がいいだろうし、ミレーもいた方がいいだろうし、飼い慣らされた自然ばかりでなく人間に災害をもたらす脅威としての自然、ターナーや自分は知識がないから知らんがそういうのを描いた作品もあって然るべきだろうし、産業と自然という切り口もSDGsがなんちゃらな今のご時世にマッチしているだろうにそういうのはないし、全体的に物足りなかったというのが率直な感想。自然の中でも森に着目した「森と芸術」展というのがかつて巖谷國士さんの監修であったけれども、あっちの方が内容的に示唆に富んでいた(自分は図録で見ただけだが)。自前の収蔵品も多い中で2000円の料金は結構強気。45分ほどで見終えて外へ出た。

 

 

 

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「でも今日じゃない」──映画『トップガン マーヴェリック』感想

トップガン』はたぶん高校生の頃にレンタルで見ている。特別感銘を受けた記憶はなく、『マーヴェリック』も、『ノー・タイム・トゥ・ダイ』も、映画館で何度も予告を見せられたのでお腹いっぱいの感があり、当初はスルーするつもりでいた。今調べたら当初の予定より公開が2年遅れたとのこと。一転して見に行くきっかけになったのはルーツ氏の4コマをTwitterで見かけて。

すげー楽しそうな感じが伝わってきて見たくなった。自分は他人の影響を受けやすい人間である。IMAXがいいか…と思ったが4DXもあると知り興味がいく。これ4DXでやる意味あるの? みたいな映画もある中、『マーヴェリック』は戦闘機の映画だからまさに打ってつけだろうと。Twitterでちょろっと検索すると評判も上々の模様(もっとも、SNSは過剰・大袈裟な発言が多い場なので鵜呑みにはしないが)。ただし4DXは吹替しかない。映画館で吹替の洋画を見た経験がないのでどんなものか不安だったが声優陣が豪華なので間違いないだろうと。吹替の初体験も含めて4DXで見ることに決めた。すっかり内容を忘れていたのでアマプラで1を視聴して予習。こちらは字幕で。1986年の映画だがわりと退屈せずに見られた(ラブシーンは要らないと思った)。戦闘機のシーンは今見てもよく撮れてるなーと感心。マーヴェリックとアイスマンの友情についてはあっさりした描写でプロセスがいまいち伝わってこなかった。そして出演者皆若い!

 

映画館に行く前に逆噴射聡一郎先生のレビューを見つけて読んでしまった(目についたら読まずにいられようか)。ネタバレになっていないのはさすが。見に行く前、そして見終わってからもう一度読み直して、俺の言いたいことのほとんどがこのレビューに書かれてしまっている、あるいは逆噴射目線で映画を見てしまったのかもしれない、と思った次第。

diehardtales.com

 

Danger Zoneが流れるオープニングから1をなぞるような展開。やらかした翌日の教官の登場とか、なかなか進展しない恋愛とか、ビーチでスポーツとか、対立していた二人が訓練を通じて友情を深めていくとかはまんま。オープニングの離陸シーンなんて本筋とまったく関係ないシーンなのでわざわざそれを冒頭に持ってきたのはサービス精神の賜物だろう。1と違って今回は明確なミッションがある。ならず者国家の核施設を戦闘機で爆撃・破壊する。ただしその施設は山岳地帯の奥地に建設されており、GPSが使用できないため無人機による攻撃は不可能。戦闘機にパイロットが搭乗する必要がある。その戦闘機は(理由は忘れたが)今や旧世代機であるF18というやつしか使えない。敵の戦闘機が旧世代機では太刀打ちできない高性能な第五世代機であることが作中で幾度も言及されるので、主人公たちが旧世代機に搭乗するというのは本作の重要なテーマになっていると見る。

 

逆噴射先生が書いているように、この映画は絶滅危惧種であるエリートパイロットを、逆境にある映画(館)業界に重ねて描いた映画である、と思われる。マッハ10に到達するすげー戦闘機と超人的な搭乗スキルを持つすげーパイロットなんてもはや時代遅れ。これからの時代、パイロットは地上にいて、飯食って、排泄して、眠って、その間にドローンが攻撃する。GPSやAIを駆使すればパイロットを養成するよりはるかに効率的に、安全に、低コストに済ませることができる。映画(館)も同じ。上映スケジュールに合わせないといけないとか、一ヶ月程度で公開が終わるとか、入場料が毎回かかるとか、感染症の時代に不特定多数と同じ空間にいなくちゃいけないとか(映画館の換気能力は強力なので感染症のリスクは低いとされている)、もう時代遅れなんだよ、月額払ってネトフリやアマプラやらで見た方が安くて手軽で便利で安全だし、そもそも新作をすぐ見る必要なんてないし、現に制作スタッフや俳優たちは配信サイト制作の映画に名を連ねるようになっているし、そうして作られた映画が映画賞候補にも挙がるようになってるし、映画が娯楽の王様だったのは半世紀以上も前の話であり、趣味が多様化した現代では映画は無数にある娯楽の中の一つに過ぎない。それなのに映画館のビジネスモデルは半世紀前からほとんど進歩していない。アクションだってすげーショットだって今やCGを使えば自由自在に作れる。スターが体張ってアクションするとか、いい感じの雲が出るまで待機するとか危険だし効率悪いし何より時間と金の無駄。

 

…という時代にあって、トム・クルーズは愚直に映画スターであろうとする。動画配信サイト制作の映画には出演せず、あくまで映画館で公開される映画にこだわり続ける。その姿勢が、もはや時代遅れとなったすげー戦闘機乗りであるマーヴェリックと重なる。

courrier.jp

上官がマーヴェリックに言う。「お前たちはいずれ消える」と。それに対してマーヴェリックは、そうかもしれない、と同意したあとで、「でも今日じゃない」と言い放つ。まだできることはあると。トム・クルーズ、今年還暦だぜ? その人がこう言ってのける、そのカッコよさ。比類ない。

 

マーヴェリック。一匹狼。でも1と違って今回のミッションは一人では完遂できない。仲間が必要だ。すげーマーヴェリックがすげースキルを持っていたところで他のメンバーがうまくやれなければ無意味だ。この展開はうまいと思った。まー、若きエリートパイロットたちが誰も成功できなかった訓練飛行をマーヴェリックが一発で成功させてお偉方を黙らせるシーンとか、彼が編隊長として出撃する展開に関しては、トム・クルーズにはインポッシブルなことなど存在しないと言わんばかりで少々興醒めしたのは事実だが…。でも本番ではトムは成功して当たり前、むしろ第二撃をマニュアル操作で成功させたルースターの方が凄い。あの瞬間、彼はマーヴェリックを超えていたんじゃないか? そういうトム万歳、トム最高なだけじゃない、若者にもしっかり見せ場を作ってやれてるところがこの映画のいいところ。ヴァル・キルマーの大将や、ジェニファー・コネリーのシングルマザーもいい味を出していた。中年の友情、中年の恋愛。どちらも時間の重みを感じる、そして心温まる描き方。1の映像をそのまま流すシーンが何度かあったのは未見のファンへの配慮か、1を見ていなくても十分に楽しめると言われる所以だろう。

 

見どころは言うまでもなく終盤のミッションのシーン。4DXだと常に風が流れ、シートは揺れ動くしとても楽しい。まあ遊園地のアトラクションほどの激しさはないので過剰な期待は禁物だが。チームが次々戦艦? 空母? から離陸して、そのあと発射されたトマホークミサイルが彼らを追い抜いていくシーンの臨場感は凄かった。あれが本作のベストシーン。配備された敵のミサイルを意識しながら低空飛行で山岳地帯を抜け、目標へ向かって背面からダイブ、攻撃後、再上昇によって加わる意識を失うほどの10G…からのミサイル回避。ここがクライマックスで、そのあとはちょっと蛇足に感じた。トム走りとか、トムキャットとかはファンサービスっぽい印象(前者は違うか)。さすがにF14で第五世代機にドッグファイトで勝つ…なんて芸当はマーヴェリックでもできない。ヘリのシーンと第五世代機のシーンで2回味方が助けに来るからちょっとダレるんだよな。同じことの繰り返しで。どちらも若者の見せ場といえばそうだし、能力では劣る旧世代機でも力を合わせれば次世代機に勝てる、そのことに含蓄もあるのだろうが。

 

でも面白かった。とても。「夢のような面白さ」とまではいかないかもだがそれに近い満足。ちょっとサービスが過ぎるだろ、と俺は思ってしまったが、それを嬉しく感じる人も多いだろうし、あれはあれでいいのだろう。今回、劇場で初めて吹替で映画を見たがよかった。予告動画を見る限りだと字数に制限のある字幕よりむしろ吹替の方が正確に翻訳されているように思えたし(「カバン持ちのバッグマン」とか、「同じミスはしない」とか予告字幕だと意訳されている)、吹替だと字幕を追わなくて済むぶん画面に集中できる。映画館で吹替、声優陣にもよるだろうが全然アリだな、と思った。この日、映画館は珍しく盛況で、4DXもほぼ満席だった。初体験らしい観客もちらほらいたらしく最初のデモで劇場内がどよめいたのは面白かった。中年向け映画と思いきや結構な数の若い人たちがいたのは意外だった。ヒットするといい。都合がつけばもう一度、今度はIMAXで2回目を見たい。

 

 

以下、余談。「キャプテン・マーヴェリック」ってマーヴェリック大尉じゃねーの? 大佐はカーネルだろ?(北斗の拳知識)と思って検索したらこんなツイートが。勉強になった。

 

 

 

 

この映画も公開延期しまくった。

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今、映画館で映画を見る意味。

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人間は猫ほど賢くは生きられない──ジョン・グレイ『猫に学ぶ いかに良く生きるか』を読んだ

 

 

人間にとって世界は脅威に満ちた場であり生には不安がつきまとう。哲学も宗教も生きることに伴う不安とその苦しみから解放されることを目的にして生まれた。古代の哲学者たちは禁欲的な生き方や、執着しない生き方、理性によって感情をコントロールする生き方を提唱した。宗教は儀式によって人の意識を超越的な存在へと向けさせることで現実の苦しみから目を逸らせるようにした。しかしどちらも根本的な不安の解消にはならない。常に感情を理性でコントロールできたならその人はもう人間ではないだろうし、宗教は同志の連帯を強める効果はあっても結局は束の間の現実逃避でしかない。

 

猫は違う。猫は本性に従ってあるがままに生きる。彼らは哲学も宗教も必要としない。そんなものがなくても良き生を送っている。彼らには人間の特徴である意識がない(あるいはあっても希薄だ)。人間は意識を持ち、だから唯一自殺する生物だと言われる。

 意識はそれ自身に向けられると、良い生活の邪魔になる。これまでつねに自意識は人間の精神をふたつに引き裂き、辛い経験を、意識から隔離された部分へと押し込めようとしてきた。押し殺された痛みは、人生の意味をめぐる疑問を生む。

 

良く生きることは、できるだけ意識的になることではない。いかなる生物にとっても、良き生とはそれ自身でいることである。

 

 もし猫が自分の一生を振り返ることができたら、生まれてこなければよかったと思うだろうか。そうとは考えられない。猫は自分の一生を物語にはしないので、惨めな一生だったとか、生まれなければよかったなどとは考えることはありえない。彼らは生を贈り物として受け取るのだ。

 人間は違う。他のすべての動物と違って、人間は信念のために死ぬ覚悟ができている。一神教の信者も合理主義者も、それを人間の優越性の証とみなしている。それは人間が、本能を満足させるためだけではなく、観念のために生きていることを示している。だが、観念のために死ねるのは人間だけだとしても、観念のために人を殺せるのも人間だけだ。なんの意味もない観念のために殺したり死んだりすることを、どれだけ多くの人間が人生の意義だと考えてきたことか。

(略)

 捕食者である猫は、生きるために殺す。牝猫は子どものためには死を恐れないし、閉じ込められると命がけで逃げ出す。だが、不死を達成するために死んだり殺したりしないという点で、猫は人間とはちがう。猫の世界に自爆戦士はいない。猫が死にたくなるとしたら、それはもう生きていたくないからだ。

 

意識を持ち、抽象的な思考能力や想像力も持ってしまったことが人間の不幸の源なのだろう。猫をはじめ動物にはそれがない。そして猫は人間のそばで人間とともに何万年と暮らしながら犬のような「人間もどき」には遂にならず、人間にとって異質な他者であり続けた。猫も猫なりに人間と交流する。そばに寄り添い、一緒に戯れ、一つ屋根の下で暮らす。彼らがそうするのは彼らがそうしたいと思うからだ。寄り添っていても飽きればぷいとよそへ行ってしまうし、複数の家を自分のホームと考えている。馴染みの人間がある日突然いなくなっても、そういうものだと素直に受け入れて生きていく。彼らのその自由さに、猫好きの多くはたまらなく惹かれるらしい。したいようにして生きていく、という彼らの自由。

チンパンジーやゴリラとちがって、猫はボスやリーダーは生み出さない。必要に応じて、欲求を満足させるために協力し合うが、いかなる社会集団をも形成することはない。猫の群れとか、集団とか、組織とか、集合体といったものはない。

 リーダーをもたないことが、人間に服従しない理由のひとつかもしれない。現在、こんなにも多くの猫が人間と共生しているにもかかわらず、猫は人間に服従せず、人間を崇敬することもない。たとえ人間に依存していようと、人間から独立している。人間に愛情を示すとき、それは欲得ずくの愛情でない。いっしょにいるのが嫌になると、どこかへ行ってしまう。もし人間のそばにいるとしたら、いっしょにいたいのだ。このことも、人間の多くが猫を可愛がる理由のひとつだ。

 

 猫は哲学を必要としない。本性(自然)に従い、その本性が自分たちに与えてくれた生活に満足している。一方、人間のほうは、自分の本性に満足しないことが当たり前になっているようだ。人間という動物は、自分ではない何かになろうとすることをやめようとせず、そのせいで、当然ながら悲喜劇的な結末を招く。猫はそんな努力はしない。人間生活の大半は幸福の追求だが、猫の世界では、幸福とは、彼らの幸福を現実に脅かすものが取り除かれたときに、自動的に戻る状態のことだ。

 

現状に満足せず自身の可能性を追求しようとする向上心。自己啓発。それが今ここの自分とのギャップを生み、その人を苦しめる。理想とは常に届かない憧れであり、それを目指すなら人間は死ぬまで自己を啓発し続けなければならない。しかし努力が必ずしも報われるわけではなく、物事の大半は努力よりも偶然の運不運によって左右される。報われぬ努力を続けていくうちに人間は次第に心を病んで不幸になっていく。猫には理解できない。猫は他人と自分を比較して嘆くこともないし、より良い自分を目指して努力することもない。皮肉なことに、より良い生を求めないからこそ彼らは良い生を送ることができる。

 

 人生の目的は幸福になることだと言うことは、自分は惨めだと言っているに等しい。幸福を目標に掲げるのは、いつか将来に実現したいと考えているからだ。だが現在は過ぎ去り、不安が忍び寄る。人びとは明るい将来への道がさまざまな出来事によって妨害されているのではないかと不安になる。そこで不安を解消してくれそうな哲学に、現代ならば心理療法に、助けを求める。

 哲学は治療を標榜しているが、じつはそれが治すと称している病の症状にすぎない。人間以外の動物は、自分が置かれている状況から気を逸らす必要がない。人間にとっての幸福は人工的な状態だが、猫にとっては自然状態だ。猫は、彼らにとって不自然な環境に閉じ込められているとき以外、退屈することがない。退屈とは、自分以外に誰もいないという恐怖である。猫は自分しかいなくとも幸福だが、人間は自分から逃げ出すことで幸福になろうとする。

 

 もし猫に人間たちの意味の探究が理解できたなら、彼らはその馬鹿馬鹿しさに、うれしそうに喉を鳴らすだろう。いま生きている猫としての生活が彼らにはじゅうぶんな意味をもっている。それに対して人間は自分たちの生活を超えたところに意味を探すことをやめられない。

 

人間は抽象的思考能力に劣る猫や、その他の動物たちを自分たちよりも下位の存在だと考えてきた。そうだろうか。抽象的な思考能力や言語を持たない叡智、人間のとはまったく異質な叡智というものも自然界には存在するのではないだろうか。自分が触れ、嗅ぎ、見ることに頼っている猫は、言語には支配されない。今日の世界のあらゆる問題は人間たちがしでかしてきたことの結果でしかない。人間同士で苦しめ合っている。いい加減万物の霊長などという傲慢は捨てて、虚心坦懐に彼らの叡智に耳を傾けるべき時ではないか。

 

では人間は猫から何を学べるだろう。本書の終わりに、「いかに良く生きるかについて、猫がくれる十のヒント」なる章がある。ここを熟読すればいい。猫には人間に何かを教えることに興味はない。こちらから教えを乞わねば見えてこない。極言すれば、「本性に従い、あるがままを受け入れて生きろ」になるだろうか。自分がとくにいいなと思ったのは、

5 幸福を追求することを忘れれば、幸福が見つかるかもしれない

 

幸福は追いかければ見つかるというものではない。何が自分を幸福にしてくれるのか、わかっていないのだから。そうではなく、いちばん興味のあることをやれば、幸福のことなど何ひとつ知らなくても幸福になれるだろう。

 

6 人生は物語ではない

 

人生を物語だと考えると、最後まで書きたくなる。だが、人間は自分の人生がどんなふうに終わるのかを知らない。あるいは、終わるまでに何が起きるかを知らない。台本は捨ててしまったほうがいい。書かれない人生のほうが、自分で思いつくどんな物語よりもはるかに生きる価値がある。

 

8 眠る喜びのために眠れ

 

目が覚めたときにもっと働けるように眠るというのは、みじめな生き方だ。得をするためではなく、楽しみのために眠れ。

 

10 少しでも猫のように生きる術を学べなかったら、残念がらずに気晴らしという人間的な世界に戻れ

 

猫のように生きるということは、自分が生きている人生以上に何も求めないということだ。それは慰めのない人生を意味するから、あなたには耐えられないかもしれない。もしそうだったら、古風な宗教に帰依しなさい。できれば儀式がたくさんある宗教がいい。自分にぴったりの信仰が見つけられなかったら、日常生活に没頭すればいい。恋愛がもたらす興奮と失望、金銭や野心の追求、見え透いた政治ごっこや毎日騒ぎ立てるニュースなどが、じきに空虚感を吹き飛ばしてくれるだろう。

 

最後のヒントがいい。たぶん猫は、飢えや貧困や差別や迫害や暴力や病いに襲われても、あるがままに生を受け入れて死ぬまで生きるだろう。幻想も希望も抱かずに。そんな強靭な生き方は脆弱な人間には向いていない。一方で人間は抽象的思考能力や想像力や言語を駆使して上記のような問題を解決か、緩和させることができる。偉大な賢者たる猫に憧れて目指すのもいい。だが憧れて目指しても猫になれないのなら、愚かな人間は愚かな人間として、その領分で、なすべきことを正しくなす、そんなありようもいいのではないかな、と読み終えて思った次第。

 

 

犬の話。

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映画館とは他者のいる場所──『そして映画館はつづく』を読んだ

 

 

日本各地のミニシアター支配人や関係者、また映画制作に携わる人たちへのインタビュー集。奥付を見ると2020年11月初版発行とある。最初の緊急事態宣言および外出自粛要請が発出された2020年5月過ぎに行われたと思しきインタビューが多い。当時、自治体からの要請に応じて映画館をはじめ飲食店や販売店などの多くが休業した。関係者が、コロナ禍における映画館のあり方を模索している様子が話から窺える。ただし映画館といっても大手シネコンの話はほぼ出ない。小規模なミニシアターに限定した話のみである。

 

日本でミニシアター・ブームが起こったのはバブル期と重なる1980年代。その後シネコンがミニシアターのいわば専売だったアート系作品も上映するようになってブームは下火になる。2000年以降、都内でも多くのミニシアターが閉館している。ミニシアターの凋落の原因は何だったのだろう。情報の中心がネットになった2000年頃からミニシアターはダメになった、という見解がある。『ぴあ』などの批評的な雑誌が消え、それに伴い上映作品の紹介がされなくなり、若い人たちが何を見たらいいのかわからなくなったのでは、と。「ミニシアターはある意味で紙の文化だった」。ミニシアターと聞くと感度の高い大学生や若い勤め人が通う場所というイメージを持っていたが、意外にもメイン客層はシニア層だという。ただしヒットする映画は若い人が中心になることで広がっていくらしい。一方で上映と社会状況のマッチングもある。『いのちの食べかた』がヒットしたのは精肉の産地偽装事件がちょうど同時期にあったから、みたいな。格差社会ケン・ローチ、是枝、ポン・ジュノ作品の関係もあるだろう。本書の定義によると『万引き家族』もアート系に属する映画だという。でも大手のシネコンで上映されてヒットしたはず。自分も近所のシネコンで見た。『ミッドサマー』も『由宇子の天秤』も『英雄の証明』もシネコンで見た。インタビュイーの一人が言っているとおり、ミニシアターというのは今や概念でしかないのかもしれない。ミニシアター的なブランディングというのはあるかもしれないが。コロナ以前、イオンシネマ板橋がとくにホラー映画を積極的に上映していて、ここの支配人は相当なシネフィルなんだろうなーと思いながら通っていたのだが最近はそうでもない。あそこで『アースクエイクバード』『37セカンズ』『キュアード』などを見たものだが。今度『ブラックフォン』はやってくれるよう。『ニューオーダー』や『女神の継承』もやってくれたらいい。

 

巻末の日本全国ミニシアターガイドからも明らかなようにミニシアターの数は東京が頭抜けている。横浜や大阪のような大都市とすら比較にならない、それほどの充実っぷり。なので関係者インタビューも12件のうち3件を都内のミニシアターが占める。ユーロスペース、シアター・イメージフォーラム早稲田松竹早稲田松竹の支配人がもと警視庁勤務なのは意外。他の映画館でも映画を見るのは好きだが映画館の経営に関しては素人のまま引き継いだ、みたいな話が出てくるので驚く。上越の高田世界館や横浜のシネマ・ジャック&ベティなど。地方であればあるほどより地域に密着することの重要性が説かれる。映画は見に来ないのに月に一度の映画館の清掃ボランティアには参加する人の話なんかはその最たる例というか、映画館という箱が地元の大事な風景として周知されている証なのだろう。

 

自分のミニシアター体験といったら何だろう。川越スカラ座には学生の頃何度か行ったのでそれが原点ではあるだろうが当時ミニシアターとか名画座という括りは知らなかったと思う。それまで年に一度か二度しか映画館へ行かなかった自分が映画館で映画を見るのを趣味にしだしたのは2019年から。映画を見ることに加えて映画館という箱自体への関心もあったのであちこち行くようにした。強く印象に残っているミニシアター体験としては新宿武蔵野館での『ギルティ』『ブラック・クランズマン』鑑賞。初めてのハシゴでもあった。前者を見たあと一回外へ出て「やんばる」でソーキそばを食べて紀伊国屋書店で時間を潰して、再度戻って後者を鑑賞。後半寝てしまったが。武蔵野館はディスプレイが充実していてお洒落な映画館だな〜と感心した覚えがある。『アナと世界の終わり』もここで他の観客と一緒になって声出して笑いながら見た。もうしばらく行っていないが。ここと系列のシネマカリテはちょっとよそより料金が高いんだよな。

 

経営に関しては、

映画館って年間でおよそ三一〜三六%くらいの稼働率であれば運営できるものなのですが、つねにその数字を保っているわけではありません。ある作品がヒットしたときに徹底的に儲けて、人が入らないときはひたすら耐えるという体質の商売なんです。それで平均して年に三〇%を超えていればOK。

「人の入る映画でいかに儲けて閑散期を耐えるのかが映画館の基本的な戦術」であるという。

人が入る映画の破壊力はやっぱりすごいですよ、どこから人が湧いてくるんだという感じで(笑)。そういう環境があってこそ、採算の取りづらいアート映画の上映環境を維持できるし、映画のアート性に対する情熱のようなものが映画界を支えている部分もあるし、そうやってエコシステムが成り立っている気がします。

 

シネコンになくてミニシアター独自の特色としてイベントの開催がある。トークイベントの客の入りが思ったほどよくない理由として、ある関係者が、「映画を見終えた後に監督なり俳優という生身の人と対面して話を聞くことって、一般のお客さんにとってはちょっとハードルが高い経験でもあったようなんです。これは意外な発見でした」と述べる。これは頷ける。自分もトークイベントの回は避けてしまう。俺みたいなド素人が行っていい場じゃない、みたいな思いがあって気後れしてしまうのだ。一度だけ、川越スカラ座の『つつんで、ひらいて』の広瀬監督のティーチイン上映に行ったくらいしか経験がない。行ってみれば貴重な体験ができていいものだったが。

 

コロナ禍によるステイホームの推奨が映像配信を一気に一般に広めた印象がある。過去の名作はもとより、新作とて半年と待たずに配信で見られる現在、それでもあえて、上映スケジュールを確認し、それに合わせて電車を乗り継いで映画館へ赴き、身体を拘束され、素性も知らぬ大勢の他者と共に、スクリーンを見つめることしかできない暗闇に身を置く、その理由は何だろう。自分に限っていえば、やはり映画は、映画館の暗闇と、スクリーンと、音響設備でなければ「体験としての強度」が落ちる、との思いがある。ショックを受けたいのだ。覚めたまま夢を見たいのだ。現実を忘れて束の間の仮想に没入したいのだ。自分は劇場内の他者を鬱陶しく感じるタイプである。咀嚼音やら、ビニール袋ガサゴソかき回す音やら、背後から蹴られるやら、他者による行動の大半は鑑賞の妨げでしかない。それらにムカついた回数なら数えきれないほどある(『ノマドランド』を見に行ったとき後ろから女に5回くらい蹴られた)。でも、他者がいるからこそ映画館で映画を見ることは尊いとする価値観もまたあるようだ。本書では複数のインタビュイーがそう話している。

 

黒沢清監督。

 どうやら自分の隣の客は映画を見る気などなく寝ている。それも良いだろう。しかし僕はこの映画を見ている。映画と自分が面と向き合っていると同時に、どうもそうではない自分以外の他の人たちがいる。そのことによって、社会の中で自分は何者であるのかというのが嫌でも認識される場所が映画館なのだと思うわけです。もちろんそんなことを認識するために行っているわけじゃないんですが、嫌でも認識しちゃいますよね。「なんでこんなことで笑うの?」とか、「なんでこれ誰も笑わないの? めっちゃ面白いんですけど?」というように、家で一人でテレビ画面を見ているときには味わえない、社会の姿を肌身で知る瞬間、自分ってこういう人間なのかと考える瞬間がある。そういう感覚は僕にとって映画館で映画を見る経験と直結しているものです。

 

別のインタビュイー。

 たとえば映画を観ながら知らない他の観客と同じ場面で笑っちゃうってことはもちろんあるわけですが、その共感を共有する場所ではないってことを忘れてしまうと、大事な部分を取りこぼしてしまうと思う。映画館はライブハウスではない、本当に孤独な場所なんです。ちょっと古びた映画館に行って、幕間のがらんとしたロビーでひとりぼーっとを(ママ)待っているとき、そういう時間も強烈な映画体験の一部なんですよ。そういった環境をわざわざ選ぶことにも、僕にとっての映画館で映画を「観る」という感覚は関わっているのかもしれません。

 

さらに別の人物。

 コロナ禍を経た今、振り返ってみてその時映画館に求められたのは、一本の映画の情報だけではなく、共にスクリーンを見つめる匿名の他者の存在だったとの(ママ)ではないかと思う。映画館で映画を見た場合、他のお客さんの空気を感じることになる。深く共感している人もいれば、そうでない人もいる、そんな気がするという微妙なあわいを、映画を見ながら感じる。いや、そんな肌感覚は得ないよと云う人も、少なくとも、一緒に見た人がいたと云う事実は残る。他社(ママ)の存在が、映画を見る体験を少しだけ立体的にしてくれる。

 

引用していて気づいたのだが誤植多いな。それはともかく、多数の匿名の他者が同じ映画を見ることで一体化するような瞬間というのはたしかにある。なんというか…贔屓のスポーツチームを皆で応援するのに近いといえばいえるのか…、自分は一度だけそういう空気を体験したことがある。日比谷のシャンテで『グレタ』というサスペンスを見たときのこと。緊迫したシーンで皆が息を潜めて次の展開を見守っているのが肌に伝わってくる。劇場内から一切の物音が消え、横の客は前のめりになり、自分は気づけば拳を握ってスクリーンを見つめている。

上映後、後ろの席の女性二人組が面白かったね、と漏らし、出口の階段では女性四人組が内容について語り合っている、その感じが、シャンテのオールドチックな箱と相まって、懐かしさの混じった余韻を覚えた。映画そのものも自分好みだったし、さらに上映後の雰囲気がよくて、忘れられない鑑賞になった。本当、あの映画館のあの回で見られてよかった。

 

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あんなことは滅多にない。奇跡みたいなものだったのだろう。でもあの体験があったからこそ、時間と空間を大勢の他者と共有することの尊さ、みたいなものを説かれても「何言ってんだ」とはならない。それとは正反対に『ダンケルク』のIMAX上映をたった一人で見た経験もある。あれはあれで素晴らしい贅沢だったが、もし毎回映画館へ行くたび一人きりだったら味気ないかもしれない。

 

 

 

で、これは余談だが、本書だと日本最初のシネコンは1983年オープンのワーナー・マイカル・シネマズ海老名になっている。キネカ大森は1984年オープン。自分はてっきりキネカ大森が日本最初のシネコンだと思っていた。海老名のは今はイオンシネマになっているから現存するシネコンとしてはキネカ大森が最古となるのだろうか。しかし巻末のガイドではテアトルシネマ系列はミニシアターとして扱われている…なのに新所沢のレッツシネパークが除外されているのはなぜだ。

 

 

キネカ大森で寝てきた記録。

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国立映画アーカイブの企画展「日本の映画館」に行った記録。

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倉橋由美子『反悲劇』を読んだ

 

 

ギリシア悲劇をモチーフにした短篇集。

「向日葵の家」はオレステスエレクトラの物語。メタ的というのか、登場人物が芝居を演じていることに自覚的だったり、デウス・エクス・マキナを神ではなく人間にやらせているところがユニーク。冒頭の老婆たちは運命を予告するマクベスの魔女たちのよう。エレクトラに対応する姉のLの魅力が乏しいのが残念。展開はほぼ原作どおり(読んだことはないが)。この短篇はさらに「神神がいたころの話」につながる。復讐を遂げたものの悪霊に取り憑かれてパニックに陥った青年はヒッピーとなって各地を放浪する。彼が犯した殺人は法廷で裁かれる。アポロンは弁護士、アテナは裁判官。「向日葵の家」はリアリズム小説として読めるが、「神神がいたころの話」になるとだいぶリアリズムからの逸脱が見られ(野外法廷のシーンなど)、ギリシア悲劇を現代(といっても書かれたのは半世紀も以前の昭和40年代だが)でやることの滑稽さ、難しさが窺える。

 

ヘラクレスとその息子ヒュロス、ヘラクレスの愛人で彼の死後は息子の妻となったイオレーの物語をモチーフにした「酔郷にて」が本書収録作の白眉と思う。飛行機の墜落するところを見た、そしてのその飛行機には妻が乗っていたはず、という魅力的な導入。しかしどうやら墜落事故などはなかったようで、語り手がそう述べるのは彼の願望か、妄想か、それとも酩酊による幻のためであるよう。権力者だった父親から「譲られた」妻、語り手は彼女が父親と関係していたのではないかと疑っている。しかし父親はすでに死に、勘繰っても妻は「ご想像にお任せしますわ」としか答えないので真実は隠されたまま。死後も自分に影響を及ぼす巨大な父親への、そして不気味な他者であり続ける妻への意趣返しをするかのように、語り手はある娘と懇意になる。ほんの遊びのつもりだったのに向こうはこのまま彼の「お世話」になると言い出す。この娘もまた妻と同じように語り手には計りかねる部分があり、「女性という他者」が強調される。墜落事故といい、神話と現実との二重写しの対話といい、酔うと体が大きくなるだの、幻覚小説とでも呼びたくなる奇妙な味わいが楽しい。この短篇だけ文体が妙に吉田健一っぽく感じた。

 

メディア伝説をモチーフにして能だかの要素も取り入れたという「白い髪の童女」は読んでいて既視感がある話で印象に残らず。「コロノスのオイディプス」をモチーフにした「河口に死す」はモチーフがどう対応しているのか分かりづらく、ストーリーも魅力に乏しくいまいち。

 

倉橋由美子の小説は文章がいいので読んでいてストレスがない。ただ、連発される「〜ですわ」という女性のセリフには時代の懸隔を感じた。こんな喋り方する女、昔も今もいないだろ。いや、昭和40年代のいいとこのお嬢さんはそんな喋り方を実際にしていたのか? 19歳で嫁ぐのは早過ぎるわけでもない、みたいな台詞も出てくるし、そういう時代の小説。

 

この本は「酔郷にて」に尽きる。これは自分好みの、何回読んでも楽しめる短篇だと思う。

以上、そんなところ。

 

 

ソポクレスの感想。

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映画館で寝たのはひさびさ。映画『メモリア』感想(というほど覚えていない)

 

週末は大森にいた。初めて来る土地だった。水曜日から金曜までは県内ながら出張的なあれをしていてホテルに三泊。慣れないベッドと知らない人たちに囲まれて緊張があったのか、三日間とも寝付けず日中は睡眠不足気味。辛かった。しかし無事に金曜日に終えることができ、三日振りにアルコールをまだ世の中の皆様が働いているうちから満喫。結局金曜の夜もちょっと寝た後は深夜から目が冴えて眠れずそのまま朝を迎えた。

 

で、土曜日に大森である。安いホテルがあったので女の人と二人で。何かしようというあてはない。ただ知らない土地にぶらっと行きたかっただけ。出張的なあれを無事終えた自分へのご褒美的な意味もあったかもしれない。大森といえば日本初のシネコン、キネカ大森がある土地である。自分は映画を見るのも好きだが映画館という箱自体も好きである。映画見るついでにあちこちの映画館へ行ってみたい気持ちがある。何か目的があって大森に来たわけではない。時間はある。なら行ってみるか、となった。プログラム的に『メモリア』が都合よかったのでこれにした。アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の映画はこれが初めて。予告だとアート系映画と思えた。こういう映画、同行の女性はまず見ないし、見ても寝る。なので自分一人で。

 

キネカ大森は西友の5階で、エレベーターでないと行けないっぽい。エレベーターを降りたらすぐロビー。フロアの印象は渋谷や有楽町のヒュートラと似ている。フロアの広さの割に椅子が多くて座れるようになっているのが前二者との違いかな。吉祥寺のアップリンクも座るところ多かったような記憶がある。パワハラ騒動以降、コロナ禍もあり足が遠のいてしまっているが…。今後ウィズ・コロナな感じになるにつれまた2019年のように都内のテアトルグループ劇場へ行く機会もあると思うのでTCGメンバーズカードを作った。有効期間一年で入会金1000円。特典の1100円鑑賞券は早速使用。時間になってシアターに入ろうとしたら、いることがあるらしいとは知っていたが本当に片桐はいりさんがスタッフと一緒にもぎりのところに立っていたのでびっくりした。でも他の観客はいるのが普通、みたいな落ち着いた様子。「いらっしゃいませ」と頭を下げられたのでこちらも頭を下げる。観客は30人くらいだったか。

 

で、『メモリア』である。頭の中で謎の爆発音を聞く女性がその謎を解明しようとする物語。なのだが筋自体がよくわからんのに加えて途中で何度も寝てしまったので内容はまったく理解できていない。元々寝不足だったところにこの映画じゃあ、そりゃあ寝るわ。自分がこれまで映画館で見てきた映画の中でもトップクラスに退屈で、とくに最後の方は苦痛を覚えるほどだった。サタンタンゴは7時間寝ずに見た自分なのだが。動きが少ない。音楽がほとんどない。絵が単調。仄めかす台詞による説明されないストーリー。中でも絵の力なさ。日の出や日没といった光が変化するショットが少なく、日中の街や室内や森でのシーンが多くて飽きる。『ノマドランド』もストーリーはつまらなかった。が、絵が美しかったから飽きずに見られた。本作は絵もイマイチ。音は記憶であり、主人公は特殊な能力によってそれを感知しているらしいことが徐々に明らかになる。でも仄めかしばかりだからそう解釈できる、というくらいか。爆発音の原因がSFになったのは笑った。あれは超古代の出来事か、それとも未来の出来事か。途中から男が入れ替わったのも意味がわからん。最後どうなったんだっけ? 覚えていない。予告で流れるシーン、頭蓋骨に穴が空いているとか、美術館で照明が消えるシーンとか、見た覚えがない。俺どれくらい寝てたんだろう? 飛び飛びながら合計したら30分か、あるいはもっと寝たかもしれない。いやー、途中で席立って帰ろうかとも考えたが(インベスターZであった映画の損切り)、途中で出ていくのって勇気が要る。初めて来た映画館、真っ暗で足元もルートも覚束ないし。だから結局ラストまで我慢した。いいところを見つけようとも思って見ていたのだが…見つからないまま終劇。登場人物が少なくロケも大掛かりに見えないからエンドロールはすぐ終わるだろうと思っていたらこれがまた長くて閉口。劇場内が明るくなったときはようやく帰れるとの喜びが。倉橋由美子だか四方田犬彦だかがつまらないと思う本を我慢して読み続けていると人間の頭は狂ってしまう、みたいなことをエッセイで書いていたが、映画に対してもいえると思う。終わったのは夜9時過ぎ。即エレベーターに乗り、西友の食品売り場で夜食用に値下げ品を適当に買ってホテルへ戻った。雨の降った痕跡があったが帰り道では止んでいた。

 

俺向きの映画ではなかった…『シン・ウルトラマン』感想

IMAXのレイトショーで。観客は思ったほどいなくて50人いたかどうか。レイトショーなので子供はゼロ、パッと見た感じ女性は数人しかいなかったような。おっさん一人客が多そうだったが若そうな人もいた。といってもジロジロ観察したわけじゃないから適当な見立て。無論自分もおっさん一人客。

 

ウルトラマンについてはほとんど知らない。それでも初代がどういう話なのか大体は知っているのだからウルトラマンってすげーなと思う。ゴジラ仮面ライダーガンダムもそうか。熱心に見た覚えはなくてもあらすじや設定はぼんやりと知っている。これらの作品が後世に与えた影響は甚大なものがあるのだろう。マクロスエヴァはそれらと比べると少し違う印象。自分は最近はアニメを全然見なくなってしまったし(鬼滅の遊郭編もラスト二話まで見たのに何ヶ月も放置してしまっている)、特撮は元から知らないジャンルだし、サブカルオタクって感じではない人間なのだが、それでもわざわざ公開週にIMAXで見に行くのは『シン・ゴジラ』の感動再来を期待してか(この映画が4DX初体験だった)、それとも総監督ではないとはいえ庵野秀明という名前に惹かれてか。

 

ウルトラマンを知らない人間のしょうもない感想。文章にまとめるのは億劫なので箇条書きで。ネタバレ含む。

 

・冒頭のマーブル模様みたいなのがウルトラQオマージュなのはわかった。

・現在までの状況を説明するカットが早すぎて文字が読めなかった。

・針の落ちる小さな音まで聞こえるはずのIMAXなのに登場人物(とくに斎藤工)のセリフが聞き取りづらかった(俺の耳が悪いだけか?)。この映画に限らず邦画はもっと音声に金と労力費やすべきだと常々思ってる。

・この映画は斎藤工長澤まさみのW主演だと思う。二人ともいい俳優だがウルトラマンの主演をやるには歳をとりすぎに感じた。政界と同じく芸能界も高齢化しているような。

ウルトラマンの登場が早いのはテンポ的にいい。怪獣とプロレスするんだからもっと腕が太い方がよかった。あと推定2900tの割にはどっしりした重量感がなく軽そうに見えた。一切発声しなかったのは不満。「ダァ」とか「シュワッチ」とかやって欲しかった。

・アクションに関してはスペシウム光線で山を吹っ飛ばすシーンがピーク。以後も怪獣とバトるけどあのシーンのかっこよさを越えるものはなかった。スペシウム光線を撃ってるときのウルトラマンの腰が引けすぎに感じたのだが、あんなだったっけ?

山本耕史が素晴らしかった。あの胡散臭さ(観客全員、「この星のために働く」という彼の言葉を信じなかっただろう)、この映画で一番存在感あったんじゃないか? 総理大臣との会合の際、先方より先に来て、ずっと頭を下げてるのも人間…というか日本人を理解していることを示していてよかった。

長澤まさみの巨大化は画としては面白かった。でも必要ないお色気要素とも思え(エヴァ破のアスカの尻のアップみたいな)若干不快感を抱いた。ウルトラマンでやることじゃなくね? という。そういうの求めて見に来てねーし。

・しかしIMAXのスクリーンのアップに耐えるどころか見惚れてしまう長澤まさみの顔面偏差値すげーな。女優だからすげーに決まってるんだけどそれにしてもすげー。

・本作のベストシーンを選ぶなら斎藤と山本の二人が居酒屋で飲むシーン。日本酒、つまみは玉子焼きと枝豆だったかな。「浅草一文」と提灯だか暖簾だかに書いてあった。今後はファンの聖地だろう。

・偽ウルトラマンが遠くでちっちゃく暴れてるシーンはシュールで笑えた。

・対メフィラス戦の格闘がエヴァっぽかった。

・「ドン、ドン」みたいのとコーラスの音楽が流れると途端にエヴァっぽくなってしまうのは意図してやってるのかな。自分としてはそういう内輪な感じは閉じててつまらなく思うのでできれば全然違う音楽を使ってほしい。だから主題歌は米津でよかったと思う。

・「暴力より対話による平和的解決が一番」みたいな上司のセリフは今のご時世に聞くと含蓄があった。

ゼットン登場、しかもゾフィーが連れてくる展開はアツい。ここで初めて、あ、初代を踏襲してるんだ…と気づいた。

・有岡大貴、定時後とはいえ職場で酒飲んだり、VR会議をオフィスでやったり(普通会議室みたいなところ押さえるよね? 超大事な国際会議なんだから)、せっかくの対ゼットン兵器を発明したのにブツが描写されなかったり、いまいち残念なキャラだった。オフィスが狭かったのは予算の都合か。

・つーか主演二人を除いて禍特対のメンバーが魅力に乏しい。スーツでパソコンいじってるだけ。そういえば今回は『シン・ゴジラ』と違って博士が出てこなかった。なんでもいいから博士出てきて欲しかったな。

・「そんなに人間が好きになったのか、ウルトラマン」。このゾフィーのセリフを聞いたときなんでか知らないが目頭が熱くなった。でもよく考えるとウルトラマンが人間に肩入れする決定的な理由はこれといって描かれていなかったような。融合は元々は人間を死なせてしまった罪悪感が発端だろうし。バディを強調していたのが伏線だったとか?

・本作で一番冷めたのはラストバトル。ウルトラマンでも倒せなかったゼットンを人類の力で退治する、という展開が初代最終回の胸熱ポイントだったと思うが、本作にはせっかく人類が発明した兵器(六次元とかなんとかよくわからんかったが)が一切描かれないので画的にはウルトラマンが殴ってゼットンを倒したように見えてしまう。だったらプラズマとかなんとかエネルギーとか、知らんけど何かすげーエネルギーを人類の力でウルトラマンへチャージして、超ウルトラマンになって、それで殴って倒すでもよかったのでは。

・バルタン星人出して欲しかったな。

 

 

総評。

まずIMAXでなくてもよかった。画が弱いんだよなー。色々初代オマージュなシーンがあったのだろうけど、また、それっぽいなーと感じたシーンもあったけど、初代をほとんど知らないので語れない。ゴジラ仮面ライダーならシリアスにできるかもしれないがウルトラマンでは難しいだろう。だからこそユーモラスなシーンの数々があったのだろうが、そういう荒唐無稽な「空想特撮映画」としての面と、『シン・ゴジラ』にあった大人向けな組織の描写(「ミサイルの経費はよその省庁付にしてくれ」みたいなやつ)が混ざっていて映画のトーンのバランスが悪く感じた。アクションに関しては『シン・ゴジラ』と比較するのはあれだろうが、画に力がなかった。ゴジラが熱線で都心を焼き尽くすシーンの鳥肌立つような迫力は本作にはなかった。スペシウム光線にせよ、爆撃機からのミサイル投下にせよ、スクリーンは大きいのに遠くの方で爆発してるようだった。

なんだか不満ばかり書いてしまったが、映画館へ行く前は眠かったのに始まったら眠気はなくなり最後まで見られたのでつまらない映画ではなかった。ただ俺向きではなかったなと。この映画を見てウルトラマンを履修しようという気にもならなかったがそれは『シン・ゴジラ』のときも同じ。