二度目の映画『パラサイト 半地下の家族』

1/28、大雨の中、レイトショー で二度目の鑑賞。悪天候の夜という状況が、映画中盤の豪雨の夜と重なって面白かった。

 

貧しい家族と富める家族を対置させて、現代の格差社会をユーモラスに描き出す。この映画における金持ちは善人として描かれている点が特異と見る。ステレオタイプな金持ちのイメージなら、強欲、偽善、利己的、などだろうが、この映画の金持ち一家は、みな人を疑うことを知らない純真な心の持ち主。彼らと比較して、貧しい家族は自分たちが社会的に劣っているだけでなく、人間としても劣っているのを自覚させられる。「金があれば私はもっと優しくなれる」あるいは「金はシワを伸ばすアイロン」。その通りだろう。自分とて銀行口座に億の金があれば、並んでいる列に割り込まれても、歩いていて足を蹴られても、職場で挨拶を無視されても、笑い飛ばせる自信がある。金こそ心の安定剤。金があればきっと他人に寛容になれる。社会を恨んで拗ねることもない。何よりも、金だ。

 

前半はコメディ調で、貧乏人が金持ちの家に寄生するまで。中盤の、雇い主の不在をいいことに貧しい一家が開いた酒宴のシーンがこの映画の転換点だろう。豪雨の中、インターホンに映る元・家政婦の顔は、不鮮明なモニタ越しのせいもあって怖い。要領を得ない返答は緊迫感を煽る。そして地下室の秘密。この後の北朝鮮アナウンサーの物真似、愛撫、脱出の展開は、重苦しくなった映画の調子を再び軽く明るくしようとするかのよう。しかしすでに地下室の秘密を知ってしまった観客は、序盤のように無邪気には笑えない。蹴落とされた女は頭から血を流して死に瀕している。脱出した三人とて、豪雨のために自宅は水没してしまっている。坂の上の金持ちの家。坂の下の貧乏人の家。『ジョーカー』が長い階段の昇降によって主人公の正常と異常を表現していたように、この映画では坂の上と下で階級が暗示される。妹が、雨のせいで下水が逆流する便器の上で喫煙するシーンは、この映画で最も好きなシーン。ユーモアを湛えつつ、災害に屈しない人間のしたたかさ、図太さが表れていたと見る。そして圧巻は終盤のパーティ。中盤の、コソ泥めいた酒宴と比較にならない華やかなパーティ。兄の、「自分はここにいていいのか」「ここに似合っているか」という問いは、金持ちたちとの間に横たわる埋めようのない断絶を自覚してのものだろう。地下室から出てきた男による復讐。貧しい者が同じ貧しい者を餌食にする。貧しい者同士がいがみ合い、殺し合う。クライマックス、父親はなぜ、自分の家族が三人とも犠牲になったのに、雇い主へナイフを向けたのか。地下室の男の悪臭に鼻をつまんだ仕草が、彼の尊厳を傷つけたから? 虐げられた者の怒り。報復。『ジョーカー』もまた、社会から爪弾きにされた男が怒りを爆発させる映画だった。ただし『ジョーカー』はゴッサムシティの物語、いわばフィクションとして、冷静に距離を置いて見られる。『パラサイト』は違う。舞台は韓国でも自分の今の生活環境と地続きに見えるリアリティがある。最後の、父親が見せる怒りこそがこの映画の肝。俺たち貧乏人を侮辱しやがって、という怒り。父親は終始穏和な人物として描かれていたが、本当は、自覚せぬまま、金持ち一家のナチュラルな傲慢さに憎悪を抱いていたのだろう。宿主に寄生して依存しておきながら、依存しているがゆえに彼らを憎む、という心理的カニズムが人間にはありはしないだろうか。われわれもまた、会社の優秀な上司やら、うまくいっている友人やら、なんでもいい、「自分より上」の人間に対して、知らず知らずのうちに、嫉妬や怒りや憎しみを抱いていはしないか。その抑圧された感情が、混沌のさなかに露呈したのがあのクライマックスだったと見る。少なくとも自分は、自分より上にいる(と思っている)人たちに、彼らに助けられたり支えられたりしているにもかかわらず、いやだからこそ、彼らに対する憎しみがあることを、この映画を見たことで自覚できた。そうだ。俺は本当はあいつらのことを憎んでいたんだ、と。うまくいっている彼ら、能力の高い彼ら。嫉妬心から彼らの不幸を望んでいる自分がいる。いや、もし本当に彼らが不幸になれば自分は同情するだろう。心から気の毒に思うだろう。しかし同情しながら、同時に溜飲を下げる卑しさが、自分にはある。この映画はそのことを気づかせてくれた。同時に、そういう卑しさを持っているから自分は底辺なんだ、とも。

 

半地下の男は殺人を犯し地下へ潜る。半地下から上昇も下降も出来た。一時は上昇しかけた。しかし結局下降した。父親が地下へ降りた理由を解釈するのは難しい。なぜ降りていったのか。そして計画はあらかじめ頓挫を予告されている、という彼の人生観を反映するならば、息子の計画は挫折することを匂わせているのだろうか。ラストあたりの判然としない展開。この部分のモヤモヤ感が、本作を傑作たらしめていると見る。明瞭さの中にある不明瞭な部分が、見た人間の心に引っかかり、強く記憶に残る。