野崎歓『異邦の香り ネルヴァル『東方紀行』論』を読んだ

 

 

持ってはいるが未読の、ネルヴァルの旅行記『東方紀行』の評論。ウィーン、カイロ、シリア、コンスタンチノープルへの旅を記したこの書物には、ネルヴァル自身の旅の体験を活かしながら、同時に脚色・加工が加えられている。語り手すなわち作者ではない。サイードは西洋が、自分たちに都合よく解釈した東洋観をオリエンタリズムとして厳しく批判したが、ネルヴァルに対しては好意的だという。彼の旅行記には、西洋知識人がいわば上から目線で批評するような部分はほとんどなく、異邦人として訪れた土地の外部に身を置いて観察するというより、土地の人々と同化しようとする好意的かつ積極的な傾向が見られる。これは本書が書かれた19世紀半ばの西洋知識人の立場としては特異と言っていい。語り手である旅人が実際に東方を訪れてみれば、西洋における通念が逆転している現実に直面する。

つまりフランス人としてこれまで当然と考えてきた、オリエントやイスラム、あるいはエジプトに対する通念が、それとは逆さまの現実によって裏切られ、覆されていく。それが真のオリエントに接近するための階梯をなす。 

 

カイロで、男の一人暮らしは近所の人々が不安がるから結婚しろ、と土地の長老に勧められて花嫁探しをするも煮えきらずうやむやになるのは現代でも通じる面白さがある。結婚は諦めて女奴隷を買って一緒に住むと、彼女は、自分は奥様であって下女じゃないと言い張って家事の一切をやろうとしない。のみならず、美しい着物や靴を買ってくれとせがんでくる。語り手は、こんな女を買ったのは失敗だったと頭を抱える。あげく、カイロ滞在が終わり、相手を自由の身にしてやると言えば、自由になどなりたくない、行くあてがないと行って旅人についてくるという逆説のユーモア。しかし笑わせると同時に、読者のステレオタイプな東洋観に揺さぶりをかける戦略的な意図も透けて見えはしないか。

「行きずりのヨーロッパ人を心から歓待してくれた実在の人々について、旅行記の中で語らなければならないときには、どうしても困惑を覚えてしまう。しかし外国の風習について、あるいはいたるところでわれわれの社会に対し共感を示してくれるさまざまな社会について、何か本当の事柄を祖国に伝えたいのだ」

実際に「東方紀行」を読んでいないのに本書を読んだのはよかったのかどうか。本書を読んで『東方紀行』を読む気が出てきたかというとそうでもなく、もう読んだような気がしてきた。500頁に及ぶボリュームで話題は多岐にわたる。比較文化論的なところは楽しく読めたが神秘思想に接近していく後半は飛ばし読みになった。最終章では『東方紀行』を越えてネルヴァルの諸作について解説されるのでよかった。自分はネルヴァルの短篇「シルヴィ」をとりわけ好む(著者による新訳が岩波文庫で先頃出た)。しかし本書でもっとも印象に残ったのは、それを最後に読んだからというわけでもないだろうが、著者の東大最終講義「ネルヴァルと夢の書物」の、遺作『オーレリア』(これも読んだことはない)の一部(断片?)、「雪の夜の猫たち」について述べた部分で、この短い一節を読んだだけで本書を買った価値があったとまで思えた。

 

「雪の夜の猫たち」は『オーレリア』に収録された短いテキストでネルヴァルの見た夢だという。オランダのある町の雪の夜、高貴な家の出とおぼしい少女がピョートル大帝の家へと、凍った路面に足を滑らせながら歩いている。ようやく到着して緑のドアをノックすると、中から猫が出てきて足元にまとわりつき少女は転倒する。「なんだ、猫じゃないの」と言うと、「猫だってばかにはできないよ」と優しい声が応える。離れたところからその様子を見ていた語り手は子猫を腕に抱いていたが、その猫がみゃあみゃあ鳴き出す。少女は「あの年取った仙女の子供だわ」と呟くとドアの中へと入っていく——というもの。書いてあるそのままにも読めるこの短いテキストを、著者は当時の社会情勢やネルヴァルの生い立ちなどを絡めて感動的に読み解いていく。ここを読んだとき、これが文学研究か、と感嘆した。

 

というわけで自分には本書の良さは最後の講義のその最後の部分に集約されている。『東方紀行』より『オーレリア』を読みたくなった。