100分de名著 ブルデュー『ディスタンクシオン』を読んだ

 

 

NHK「100分de名著」のテキスト。ブルデューの『ディスタンクシオン』は以前に二度ほど図書館で借りたが二度ともほとんど読めなかった。難しい。訳者による解説書『差異と欲望』は読めた。こちらは結構面白かった記憶があるが何年も前の話なので今となっては内容をほとんど忘れている。ちょうど普及板が出たので三たびトライするために購入した。

 

ディスタンクシオン』を拾い読みし、そして解説書に教えられて自分が特に惹かれたのは、各人の趣味が、その人の出身階級によって規定されている、ということを膨大なデータに基づいて立証した点だった。素晴らしいと感動した音楽も映画も小説も漫画も、楽しいと思ってやっている趣味も、すべて自分が選びとったのではなく出身によってあらかじめ定められているとしたら。出会いも選択も偶然ではなく予定されていたことだったとしたら。自分の趣味嗜好は所詮決定論の産物でしかないのか。

 

ブルデューが提唱する概念は三つある。「ハビトゥス」「界」「文化資本」。

ハビトゥス」とは人の行為や価値判断における傾向性のこと。ある人が演歌ではなくジャズを、フットサルではなく散歩を好むのは、その人にそういうハビトゥスが備わっているから。ハビトゥスは主に家庭と学校で構築され、階級ごとに異なっている。上流階級は努力して何かを身につける「泥臭さ」を嫌い享楽的な音楽を好む傾向があり、努力して出世した中流階級は禁欲的な音楽を好む傾向があるという。

 

「界」とは「象徴闘争のアリーナ」。たとえばある人が数ある音楽の中でグレン・グールドのピアノが良いと(ハビトゥスによって)判断することは、他者に対する差異化・卓越化の意図を含んでいる。「自分はグールドのピアノが好きだ」と公言することは音楽鑑賞という趣味の中でその人の立場を示す指標になる。それはまた他のピアニストが好き、あるいは他の音楽ジャンルが好き…という人と衝突し、価値観の押しつけあい(象徴闘争)に発展する。要するに仲間内で趣味の良さを競い合うマウンティング合戦が繰り広げられる。その戦場が界だという。映画で言えば、「フェリーニが…」「ベルイマンが…」「アンゲロプロスが…」「小津が…」みたいな感じだろうか。誰かに自分の好きな映画を貶されて腹が立った時とは象徴闘争をしている時なのだ。

 

文化資本」は経済と同じように資本として機能する文化のこと。絵や音楽を見て聴いてその美しさがわかる。外国語を習得する。上流階級のマナーを身につける。よい大学へ行く。美味い食事の味がわかる。「これらはすべて、投資され、蓄積され、そして利得をもたらす資本の一種なのです」。教養や「よい趣味」。裕福であればあるほど、階級が高ければ高いほど、人は経済のみならず文化をも資本化して身につけることが可能になる。プレーヤーやCDがある家に育ち音楽に関する素養がなければグールドのピアノを聴いても好きになりようがない。学歴と美術館へ行く頻度には相関があるという。本が多い家庭の子供ほど学校の成績がいいというのもそうだろうか。

 

出身階級の文化資本の多寡によってハビトゥスが形成され、ハビトゥスに基づいた象徴闘争を界で展開する…。こう考えるとブルデュー理論の根幹にある最重要概念は文化資本だろう。

 一流のピアニストは、単にピアノを猛練習しただけではない。学歴の高い人は、単に学校の勉強をがんばっただけではない。そこには、幼い頃からピアノが身近にあったり、クラシック音楽は「聴く」ものではなく「弾く」ことが当たり前であったりする文化資本があり、彼らには机に向かってこつこつ努力するようなハビトゥスがあるのです。そのような構造が彼らを卓越化させているとも言えます。

 私たちは、自分で意図するかどうかに関係なく、卓越化を目指して闘争をしています。むしろ、自分たちが「闘争なんてしていないよ」と思えるぐらい自然なかたちで文化資本を身につけることができる階級出身の人々こそが、社会空間の象徴闘争でもっとも利得を得ることができる人々でしょう。彼らは、自分がいまのポジションにいること、他人が自分とは違うあのポジションにいることは「自然なことだ」と考えています。ブルデューは、支配層のこうした見方は「現実の差異を自然化する」と言っています。

 映画『ミッドナイトスワン』でクラシックバレエを習おうとする姪に対して主人公が言う「バレエなんて金持ちの子がやるもんじゃないの」という台詞。ピアノが弾ける家庭に育つとは要するにピアノが買えて、ピアノが置けて、ピアノの音が出せて、ピアノを習える、そういう家庭に育つということ。ピアノなんて学校の音楽室でしか見たことがない、触ったこともない、ピアノはあくまで先生か習った子が弾くもの…という認識で育った子とどれほど人生の豊さが異なるだろう。持たざる者の一人としてはブルデュー決定論的な見方には少し気が滅入る。

 

「100分de名著」テレビ放映の方は岸先生の解説に対する伊集院さんの体験談やたとえなどが適切で、分かりやすくてよかった。しかし尺の都合上駆け足気味だったので物足りないところもあり。テキストを読んでテレビを見れば補完し合っていいと思った。

 

肝心の『ディスタンクシオン』自体を読んでいないから知らないのだが、ブルデューはフランスの地域格差みたいなものには触れているのだろうか。文化資本の形成には出身または居住地域による有利不利が絶対あると思ったので。日本で言えば東京在住者と地方在住者の文化資本格差。自分が初めて池袋のジュンク堂書店に行った時はその大きさに驚いたものだった。ビル一棟丸ごと本屋! という驚き。都会の人はいいなあ、という羨望。インターネットによる動画配信や通販は地域格差を均してくれているのだろうが、大型書店であれこれ立ち読みして選ぶのとAmazonで決め打ちして選ぶのとでは、同じ本を買うのでも体験として随分違うと思う。

 

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