母の誕生日に

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少し前に母が73回目の誕生日を迎えた。プレゼントはもう何年も現金。仕事帰り、コージーコーナーに寄ってケーキを買った。ショーケースを覗くとどれも美味しそうで目移りしてしまいなかなか決められない。結局両親にはベタにショートケーキを選択。四人家族だが弟は家を出ているので3個買って帰宅。

 

母は(たしか)要介護2の身である。2011年の夏に脳梗塞で倒れた。夕方、散歩の途中でまっすぐ歩けなくなり、携帯でその旨を父に連絡したが、迎えに行こうかとの問いに大丈夫だと返事をし、自力で帰宅した。そのあとの夕食の際に箸がうまく使えず、父も変だとは思ったが、その日は日曜だったので、とりあえず今夜一晩様子を見て、明日月曜朝から病院に行ってみよう、ということになった。寝室は二階だが階段を昇るのが危険なので、その夜は一階リビングのソファに横になった。翌朝になると、ソファから起き上がれなかった。救急車を呼び病院に搬送され脳梗塞と判明した。前日の夕方に起きていたのだ。異変に気づいた時点で病院に行っていればもっと軽く済んだかも知れなかったが、親類に脳梗塞をやっている人間がいなかったため緊急を要する異変だとは気づけなかった。結果、右半身に麻痺が残った。今では右手はほとんど動かせないし、歩く時は足を引きずる。舌もうまく回らない。少ししてから脳梗塞の影響なのかわからないが、認知症を発症した。とはいえ軽度なのでコミュニケーションは問題なくとれる。トイレは一人で行けるが、半身が不自由なので風呂は一人で入れず父が補助をして体や頭を洗っている。食事は左手でスプーンを使って食べる。外出の際は杖をつく。その後十年間再発なく現在に至っている。

 

自分が子供だった頃から母はメンタルを患っていて、何かというとすぐ寝込んだ。鬱だったのだろうか。今でもよくわからないし今更聞くつもりもない。あちこちの病院へ行っては薬をもらって来て、それを飲んで、雨戸を締め切り電気も消した真っ暗な寝室で寝ていることが多かった。普通に会話していても突然豹変して、いきなり怒鳴ったり平手打ちしてくることがよくあった。小さい頃はよくビンタされた記憶がある。幼い自分にとって母は脅威だった。怖かった。食事や洗濯など家事の一切は父がやっていた。自営業だったから時間の融通がついたのだ。もし会社勤めだったら…どうなっていただろう。辞めざるを得なかったか、それとも自分たち兄弟がもっと早く自立しただろうか。自分はキッチンに立っている母を見た記憶がない。包丁を向けられたことはあったが。

 

母にまつわる一番暗い記憶は、小学校低学年くらいの頃、前後の経緯はもう忘れてしまったが、二人で居間にいたときに、お母さんと一緒に死のう、と首を絞められたことである。自分の首を絞めながら、母は、お前はお母さんの首を絞めるんだよと言ったが、子供がそんなことできるはずがなく、ただ母が自分の首を絞めている格好になった。様子に気づいた父が飛び込んできて母を張り倒して怒鳴りつけた。叩かれて母は泣き喚いた。自分は呆然としていた。母の手の力はどれほどの強さだったか、もう覚えていない。本気だったのか、それとも魔がさしたのか。今となっては真相はわからない。おそらく母自身にもわからないだろう。ただ、母親に首を絞められた、という事実だけが残った。とはいえ、世の中にはもっと悲惨な家庭がいくらもあるだろう。もっと大変な目に遭っている子供がいくらもいるだろう。だからこの出来事を大仰に書くつもりはない。ただ自分という個人にとって大きな出来事だった、と述べるに留める。虐待されていた、とも思っていない。自分は虐待されてはいなかった。メンタルを病んだ母親とともに暮らしていた子、というだけである。母の母(自分にとっての祖母)はまだ若い時分に自ら命を絶った人だと父から聞いたことがある。自分が物心ついたときにはすでにこの世にいなかった。「あれも可哀想な女なんだよ」とずっと昔に父は漏らした。

 

その後、こちらが成長して体が大きくなるにつれ母への恐怖は薄らいだ。あくまで薄らいだだけである。子供心に植え付けられたイメージを払拭するのは不可能で、だから恐れる気持ちはなくならなかった、と思う。しかし中学生になる頃には暴力を振われることはなくなったし、怒鳴られれば怒鳴り返した。その後の経緯は面倒なので省くが、結局就職して自分が家を出たのは母と一緒にいたくなかったからというのが大きい。母が脳梗塞で倒れたとき、自分は実家にいなかった。だから上の記述は家族からの伝聞になる。病院へ見舞いに行って久しぶりに再会した。

 

認知症になって母は幼児帰りした。大人の分別が一応はあるけれど(一人で買い物に行ったりする)言動は幼い子供と大差なくなった。基本的には週の半分程度を通いで施設へ行って過ごし、家にいるときはテレビを見ているか(全然集中して見ていないが)、寝ているか、塗り絵や間違い探しをしている。自分が帰宅すると、飲酒する自分と会話する。頭の回路が混線しているのか、時々なんでもないことで笑い出したり、突然不機嫌になって黙り込んだり怒鳴ったりすることもある。老いて体が不自由になった今の母は、自分にとって恐ろしい存在ではなくなった。庇護すべき存在になった。昔なら考えられないが、今では一緒に出かけることもある。出かける時は杖を握っていない方の手を握って一緒に歩く。母は老いたし、自分も歳をとった。時間の経過とともに何事も変化していく。人と人との関係もその例に漏れない。良い方にも悪い方にも。

 

母を見ていて思う。若い頃からどういうメンタルの病いを患っていたのか知らないが、本人もきっと辛かっただろう。けれども(軽度の、という保留はつくが)認知症を発症して幼児帰りした今の母は、その辛さから解放されたように見える。右手は動かない、足は引きずる、舌はうまく回らない、ドライブが好きだったがもう運転はできない(免許は返納した)、という不自由な身にはなってしまった。が、ふとしたとき、「今が一番幸せだ」と言う。不自由な体になってなおそう言う。アメリカの精神科医サリヴァンは「精神医学は対人関係の学である」と言った。生来の器質的な面もあったかもしれないが、母は昔から引っ込み思案で対人関係の苦手な人間だったので、そのストレスから精神の失調を起こしたのかもしれない。いや、逆にそういう人間だから人間関係のトラブルを起こしやすかったのか。とにかく、認知症はそうした他人への拘泥や執着を本人からだいぶ取り去っているように傍目には見える。完全にではない。今でも施設の人間関係について不平を口にし、乱れることはたびたびある。施設で面白くないことがあった日の夕方は大抵調子が悪い。昔から嫌なことがあるとそれを脳内で反芻して怒りや不快感を増幅させる傾向があった。そういうのも一種の自傷行為だと思う。精神的な。

 

身内の恥をこうして書く意味は何だろうか。気持ちの整理か。すでに述べたようにもはや中年となった自分にとって母は脅威ではなくなっており、過去の、特に子供の頃に受けた仕打ちの数々についての恨みや怒りは薄れている。気持ちの整理はとうについている。というか今更どうでもいいという気持ちが強い。憐れみと多少の好意、それが今自分が母に抱いている感情である。繰り返しになるが、時の経過とともに人と人との関係は良くも悪くも変わっていく。自分と母とて現在の関係がこのまま継続するかわからない。しかし73歳の母はもうあまり長くは生きないだろう。できれば自分は今のままの関係を最期まで続けていきたいと願っている。母が死んだら自分はきっと泣くだろう。