荻原魚雷『中年の本棚』で紹介されていた二冊。『中年シングル生活 』には『歩くひとりもの』の引用が度々あり、二冊には響き合う部分がある。関川氏は言う。「いまだひとりでいるのも、やっぱりなりゆきというしかない。仕事以外には、いっさい意見と希望を持たないといった受動的な態度をつらぬくと、こういうことになる。結果、日々の人事雑事から相当程度解放されるかわりに、それらを積み重ねるわずかなあわいに見出す安堵や快感、いわゆる家庭の幸福からは見放される」。津野氏は言う。自分は「主義ではなく習慣としてのひとりもの」である。両者ともある意味受動的な態度をとり続けた結果としての独身ということで、その緩さが同じ中年の独身者として心地いい。
二冊とも中年独身者の身辺についてのみ述べた本ではない。文芸批評や回想や追悼文なども含まれている。ただ、二冊とも「中年の独身者である」ことが基調としてある。関川氏は、一人で老後を迎える者に必要なのは金と友情だという。『中年シングル生活』では著者には同性異性問わず独身の友人が数多くおり、独身者同士でつるみ、二人きりで旅行に行けるほど親しい異性までいる。関川氏は親しい独身者たちで金を出し合って自分たちだけの老人ホームを建て、老後不安から解放されることを夢見る。金と友情(もっと広く人間関係といってもいいと思う)が大事という主張は頷ける。が、それは独身者も既婚者も同じだとも思う。より必要、ということだろうか。
津野氏は独身である現状を、あくまで一時的なものと見ている。というか人間は生きている限り常に途上なのだ。死んで初めて不動になる。この先何が起きるかは分かったものではないのだから、生きている間はある意味仮初とも言えるだろう。津野氏は金の重要性については特に述べていないけれども、生涯独身だったアメリカの哲学者・沖仲仕のエリック・ホッファーを引き合いに出して、独身者といえど擬似家族(人間関係)を必要とすることをやはり示している。人は一人では生きられない。あるいは生きる張り合いがない。
『歩くひとりもの』。都市の散歩者としての独身者。このタイトルについて直接的な言及は津野氏のこの本の中にはなくて、可笑しなことに『中年シングル生活』の方に解説的な言及が出てくる。曰く、
目的を持たないぶらぶら歩き「散歩」は、日本では明治二十年代にはじまった。それまで、桜、花火、菊、雪など季節の見物はあっても散歩はなかった。田舎では現代でさえ散歩者はあやしまれる。
あるいは、
家族でするのは「お出掛け」である。散歩は、家族や家庭的なものから離れ、家長が束の間独身者に回帰するたのしみだった。
都市と独身者と散歩は相性がいいようだ。
二冊ともにもっとも印象的だったのは、独身者から見た家庭に関しての指摘の部分。
津野氏は、あらゆる家庭には黄金時代があり、しかしやがて必ずそれは崩壊に至ると述べる。両親は四十代くらいで現役バリバリ、子供たちは中学か高校に通っている頃が家庭の黄金時代ではないかと。悩みや問題も多く生じるかもしれないが、若い家族には勢いがある。しかしやがて子供は成長して独立し、老いた両親は亡くなり、かつて一家が団欒した家には住む人もいなくなり、売られるか取り壊されるかそれとも崩れるに任せて放置されるかという結末を迎える。人が皆いつかは必ず死ぬように、家庭もまた死ぬのである。中年こどおじとしては、自分の身の上が無理矢理にこの黄金時代を引き延ばしているもののようで、読んでいて感銘を受けると同時にきまり悪さも覚えた。
一方で関川氏は、家族にはアルバムがあるが独身者にはないという。
アルバムを持ち、それを増やしていく楽しみは家族がいる人だけのものだと思う。彼らには家族になる前の歴史がある。家族になって昇り坂の時代がある。全盛期と、それから黄昏とがあって、それらはみな記録に値するのである。
ひとりものには、生活者として昇り坂の時代がない。全盛期がなく、ゆえにはっきりした黄昏もない。家族になる以前の時代などもとより大切ではないから、記念写真にもスナップにも意味がなく、したがってアルバムは成立しない。
奥付を見ると『中年シングル生活』の刊行は1997年(『歩くひとりもの』の刊行は1993年)だから、カメラの付いたスマホを持つ人が大多数となった現代とはやや認識にズレがあるかもしれない。カメラがフィルムからデジタルになって撮影・現像のハードルは大幅に下がったけれども、カメラ付きケータイ、更には一昔前のコンデジより綺麗に写るスマホの登場により、独身者といえどアルバム(というか撮影写真のデータ)を保有するようになっているだろう。中年独身者である自分とて過去の写真はパソコン内にそれなりの量を保管している。ゆえに現代においては上記引用部分の「アルバム」とは「家族であること」の象徴と解釈するとしっくりくる。独身者とて友人や恋人とイベントや旅行の写真を残しているし、それらに「意味がない」とは自分は思わない。青春時代や大切な人たちと過ごした時間は、たとえそれが過去になったとしても「全盛期」であると思う。ただ、それらの写真データを「アルバム」というかいうと…どうだろう、たしかに違和感がある。もっともこれは昭和生まれの人間のアルバム観であって、卒業アルバムもCD-Rで配布されるとかされないとかいう現代においてはアルバム何それ美味しいの? 状態かもしれない。
二冊を著作で紹介した荻原魚雷氏は、二冊とも「何度読んでも飽きないし、発見がある」という。自分は『歩くひとりもの』の方はちょっと時代の懸隔を感じてしまいイマイチだったが(しかし「ひとりもの、年を越す」という章題の哀感と語感は素晴らしいと思った)、『中年シングル生活』は現代でも違和感なく楽しく読めた。荻原氏はまた、理由は述べないが二冊とも文庫版を読め、と勧めていた。その理由は読んでわかった。二冊とも文庫版は巻末に対談が載っており、おそらくはその部分について言っていたのだろう。津野氏の方は想定の範囲内だったが関川氏の方はちょっと驚いた(対談相手は阿川佐和子さん)。この記事の最初のあたりに自分は「同じ独身者」と書いたが、さて…。
好んでひとり暮らしをするのかと聞かれたら、違うという。家庭をつくりたいのにがまんしているのかと問われたら、それも違うと答える。ひとりで生きるのはさびしい。しかし誰かと長くいっしょにいるのは苦しい。そういうがまんとためらいに身をまかせてあいまいに時を費し、ただただ決断を先送りにしつづけてこうなった。つまり、ひとり暮らしは信念などではない。ひとり暮らしとは生活の癖にすぎない。
『中年シングル生活』
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