『押井守の映画50年50本』を読んだ

 

 

まず、自分は押井守監督の熱心なファンではない。『イノセンス』と『スカイ・クロラ』を劇場で見、配信で『GHOST IN THE SHELL』と『パトレイバー』2作を見たことがある程度である。そんな人間だがこの本は面白かった。押井監督が1968年から2017年までの50年間の各年から一本を選んでひたすら語る。邦画も何作かあるが大半は洋画。

 

選ばれた50本は押井監督にとってのベスト50ではない。前書きで監督は他人が選択したベスト作品なんて見たところで無意味だと言い切っている。映画がもつ様々な側面を明らかにするのに適していること、本書の50本はその基準で選ばれている。特筆すべきは紹介される映画のほぼすべてがDVDや配信で現在でも容易に見られるということ。マニアック過ぎる自主制作映画や廃盤で見る手段のない映画は選ばれていない。本書を読んで興味を持ったらすぐにでも見られる作品ばかりである。

 

前書きにこうある。

「映画を見ること」と「見た映画について語ること」は別の経験に見えて、その実は全く同一の経験である──いや、より正確に言うなら「映画を見ること」は「見た映画について語ること」によってしか成就しない、「映画は語られることによってしか存在し得ない」のだとして、しかし振り返ってみればその「語られた映画」と「見られた映画」は、実は依然として全く別に存在するものなのだ、という不可思議さこそが「映画を見る」という行為の真相なのです。ややこしい言い方をして恐縮ですが、 50 本の映画を語った後で思うことは、実はそのことだけでした。

 

紹介される50本のうち明らかに語りに熱がこもっている回もあれば、作品周辺についてのみ語って肝心の作品自体には殆ど触れない回もある。著者の偏愛する映画監督は、リドリー・スコットセルジオ・レオーネサム・ペキンパーデヴィッド・リンチコーエン兄弟ギレルモ・デル・トロドゥニ・ヴィルヌーヴなど。三池崇史にも好意あり。スコセッシやタランティーノには厳しめの評価。

 

とくに最初のあたりが面白い。セルジオ・レオーネの映画は映像と音楽による快感原則に忠実に作られているから何度でも見たくなるとか、映画の半分は音楽だとか、アクションシーンに意味なんてないとか、映画監督ならではの視点から映画を語る。学生時代には年間1000本見ていたといい、その経験から傑作や名作だけを見るのではなく愚作駄作も回避せず見よ、それによって映画が分かってくるようになると語る。

データベースというのは、最近の流行りでいえばビッグデータだけど、ほとんどがクズなんだよ。情報としては使えない情報。でも、クズがあって初めて検索するという行為が成立する。いい物だけ残して、あと全部消してしまったらデータにはならない。データというものは母数が絶対だから。それは映画の体験も同じ。クズを山ほど見ること以外に、映画の本質に近づく方法なんかないんだよ。だから映画の教養主義ってのは、まあ、読書だろうが映画だろうがあらゆる分野でそうなんだけど、僕に言わせればたわごとだよ。数をこなし、パターンを尽くさないことには本質に近づけない。

 「ファスト映画」の時代にこれである。ヴェンダースの回では「映画の本質は時間を映すことなんだ」と述べている。ここで言う時間とはテンポではなく、映画でしか実現できない、監督が意識的に作り出していく時間のこと。押井監督にとってヴェンダースの『パリ、テキサス』はその作られた時間が快感なのだが、それは万人向きの快感ではないので人によって退屈かもしれないとある。自分も『パリ、テキサス』を見たときは序盤でだるくなってナスターシャ・キンスキーが出てくる終盤のシーンまで早送りしてしまった。ナスターシャ・キンスキーは『パリ、テキサス』より『時の翼にのって』の方が好きである、どうでもいい話だが。押井監督のいう映画の時間は長回しがあると如実に体感できる。タル・ベーラ監督の『サタンタンゴ』のゆったりすぎる時間の流れはこの映画にしかないものだった。ゆったりしているけれども停滞はしない。画がいいからだろう。退屈せずに7時間超を見られた。タルコフスキーの時間、アンゲロプロスの時間、ビクトル・エリセの時間はどうか。『ノスタルジア』は見られるけれど『鏡』『ソラリス』は途中で飽きてしまう。『永遠と一日』は眠くなる、『旅芸人の記録』はもっと眠くなる。『ミツバチのささやき』をDVDで初めて見たときはその抒情に感動したが早稲田松竹で見たらえらく退屈で寝てしまった。自分にとって画はかなり大事。ベルイマンの『ある結婚の風景』は人物の顔のアップばかりの単調な画で見ていて苦痛しかなかった。『第七の封印』や『叫びとささやき』には感動したものだが。

 

「監督が本当にやりたいことを無制限の金を使ってやると誇大妄想になって破綻してしまう」だの「映画の現場を何本やっていようが監督になった途端経験はゼロになる、それくらい監督という職業は特別なんだ」だの「肯定的な映画を撮るのは難しい」だの「映画は真面目にやればやるほどツボを外すととんでもないことになる」だの自身の経験から出た発言は読んでいて本当に楽しい。押井監督はどういうジャンルの映画が好きなんだろう。本書を読んだ限りでは、SF、ミリタリー、吸血鬼、そのあたりだろうか。銃器や戦車やヘリに造詣が深く、それらの話題になるとかなりマニアックな蘊蓄が披露される。

 

自分がこれまで読んできた映画評論はストーリー(脚本)が中心になっているケースが多く、しかし自分は映画は多少展開に不自然さやご都合主義的な部分があったとしても画面の方が大事と考えているので、演出や構成の面から映画について語られる本書はまさに求めていた映画本だった。自分はレオーネの直系だとか、ステルスヘリ映画『ブルーサンダー』の正当な後継者だとか、武装蜂起を映画でやっているのは自分だけだとか、そういうかなり強い自負が、他の人だったら鼻持ちならなく聞こえるかもしれないのに押井監督だとそうは聞こえないのは人柄か。今、ちょっと気分的に落ちているのだけれど、そういうメンタルの時に押井監督の個性に触れると不思議と元気が出てくる。癒される。読み終わってもまだまだ読んでいたかった。ぜひとも続編を出してほしい。そして監督自身が「これ以前の作品はすべて習作」とまで言い切る『スカイ・クロラ』をもう一度見たくなった。