映画『ラストナイト・イン・ソーホー』を見た

公開週の土曜日でも海外のホラー(スリラー?)映画のレイトショーだと客は10人かそこら。みなマナーよく、久々にストレスなく快適に鑑賞。気持ち前目のシートにしたら前に誰もおらず、上映中後ろの観客を意識することもなかったので体感的にはシアター内に一人だったのも同然。でも肝心の映画が面白かったかというと…。

 

これフェミニズム的なテーマの映画だったのかな。なんで60年代のロンドンなのか最初疑問に思ったが、女性たちが踏みつけにされた時代としての過去(ラストナイト)を描くための舞台設定か。顔のない男たちはまんま『ジェイコブズ・ラダー』だったので笑えた。彼らが図書館で大勢出てきたときは怖さより滑稽さの方が強かった。ああいう異形ははっきり映したり大量に登場させたりせず、遠くの方にでもぼんやりポツンと映した方が不気味さが増すように思うのだが…(似たようなことを『返校』でも思った)。でもサンディを食い物にした男どもが大量にいたのだから顔無しの数も多くていいのかも。何度も映し過ぎとは思ったが。映し過ぎといえばケバいルームメイトとその取り巻きもなんであんなに何度も映ったのだろう。田舎から都会に出てきた垢抜けないヒロインと対照的なイケてる女子というテンプレ的存在、終始ヒロインを見下して意地悪するしか能のない彼女(たち)が画面に映るたび白けた気持ちになった。何分か、あるいは何カットか映さないといけない契約上の縛りでもあったのかと邪推してしまう。強いていえば、「虐げられた女」であったサンディの人生を描くこの映画が、彼女の復讐によってどっちもどっちじゃねえかとなってしまうのに呼応するように、男女間のみならず女同士でも無条件に友好的な関係などありえないことを示唆していた…のかもしれない。そう、この映画がフェミニズム的テーマを扱っているのは間違いないのだろうが、それが虐げられた側の暴力的な復讐に反転してしまうため、単純に「女を食い物にする男はクソ」とはならないところにこの映画の複雑さがある。曖昧さも。男にも刑事やボーイフレンドのような善人がおり、女にもルームメイトのような嫌な奴がいる。サンディに群がった男どもはたしかにクソだが彼女のやったことも容認しがたい悪行なわけで。そういった設定が「考えさせる」映画であるなと思わせる一方で、でも娯楽作品としては終始退屈だったな、とも。意外性がない展開が続くせいか。交通事故とサンディの正体は読めなかったけれどあとは大体予想できてしまう展開。冒頭で意味ありげだった母親の幻影は結局何だったのだろう。ラストシーンは母親より他人であるサンディの方が存在感を持ってしまっていて妙だった。これと比較すると『ゴーストランドの惨劇』のラストで、主人公に「書き続けること」を示唆した母親の幻影は感動的だった。