町山智浩『それでも映画は「格差」を描く』を読んだ

 

近年、世界各国で経済格差や貧困をテーマにした映画が増えてきているという。カンヌ映画祭パルム・ドール受賞作品だけでも、16年『わたしは、ダニエル・ブレイク』、17年『ザ・スクエア 思いやりの聖域』、18年『万引き家族』、19年『パラサイト 半地下の家族』。2020年のアカデミー作品賞は『ノマドランド』。受賞こそしなかったが19年の『ジョーカー』もこの系譜に連なる。本書はこれらの映画に反映された現実やテーマを横断的に論じている。なぜ各国で同じテーマの映画が作られるのか。それは今や世界中の人々が「ひとつのグローバル経済のなかに生きているから」である。

 

町山さんの映画評論は読みやすく面白いのでわりと読むのだけれど、本書のような新書のシリーズで多数の映画を取り上げたものっていい内容の章とあらすじや監督の過去作品について紹介しているだけの章が混在していてムラがある。本書もそうで、作品理解の助けになる背景について説明してくれる『パラサイト』(90年代の韓国に存在したバラックのような住居サンドンネや、主人公一家が住む半地下はかつての地下シェルターである等)や『ノマドランド』(アマゾンの倉庫での労働の描写は嘘で、実際にはもっと過酷で低賃金であり、監督は撮影させてくれた企業へ配慮している)や『バーニング』(主人公やヒロインは金融危機後の韓国の格差社会で「負け組」となり、貧困のために恋愛も結婚も出産も諦めた「三放世代」)や『わたしは、ダニエル・ブレイク』(中国の工場では昼間はブランド品のスニーカーを製造し、夜になると材料の品質を落とした偽物を同じ工程で製造して売っている)の章は面白い。が、『ザ・ホワイトタイガー』の章はあらすじがだらだら書いてあるばかりでテーマの分析はほとんどされておらずつまらない。

 

本書で別格の扱いをされているのがケン・ローチ監督である。『キャシー・カム・ホーム』『わたしは、ダニエル・ブレイク』『家族を想うとき』と三作も選ばれてそれぞれ語られている。これらの作品に通底するのがいわゆる「貧困問題は自己責任」論への反論である。結婚・出産してすぐに夫が大怪我で働けなくなってしまい幼児を抱えて住む家を転々とするキャシーも、パソコンが使えないから生活保護申請ができないダニエルも、家族団欒のために買ったマイホームのローンを払うために必死で働くがために団欒の時間を失ってバラバラになっていく『家族を想うとき』の一家も、みな彼ら自身のせいで失業や貧困に苦しめられているわけではない。ひとつボタンの掛け違い、歯車が狂えば一瞬で奈落へと突き落とされる、それが現代社会である。セーフティネットが弱く人間関係も希薄な先進国においては誰もがいつ彼らと同じ境遇に陥ってもおかしくない。それが恐怖となって、今は人並みに生活できている人間たちからも心の余裕を奪い(いつ転落してもおかしくない)、困窮し助けを求める人たちに知らんぷりしたり下に見て叩いたりといった行動につながっているのではないかという気もする。自分自身が、余裕がないときは他人がどうだろうが知ったことじゃねえという気持ちになるクズ人間だからそう思う。不思議というかおかしいというか、弱い者たちこそ団結して格差社会を倒そうと団結すればいいのにできずに互いの足を引っ張り合うんだよな。強い連中こそ目的のために団結している(ように見える偏見)。

 

少し前に『アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した』という2010年代後半のイギリスの低賃金労働体験ルポを読んで感銘を受けたのだが、今回改めて『家族を想うとき』の町山さんによる評論を読んで、両者が重なる部分が多いのに驚いた。ケン・ローチ監督はかなり取材したのだろう。こういう厳しい現実をしっかり描いて観客に訴えるケン・ローチ監督は偉大だ。厳しくおぞましい現実をユーモアを交えつつ描くポン・ジュノ監督も偉大だ。日本でも昨年は『あのこは貴族』や『東京自転車節』など格差社会をテーマにしたいい映画が公開された。新型コロナウイルスによって格差はますます明確になっている。上級ホワイトカラーはテレワークができるのに下流ブルーカラーは感染リスクに怯えながら出勤して現場仕事をしなくてはならない。むろん自分も後者。なんとかならんかな。選挙には毎回行ってるんだがな。

 

 

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