洗脳教育と労働について──鈴木大介『老人喰い』と新庄耕『狭小邸宅』を読んだ

 

 

 

『老人喰い』は特殊詐欺に関するノンフィクション…らしいが取材を元にフィクション化されている不思議な本。この本に登場する特殊詐欺グループのメンバーはほぼ20代の若者。詐欺グループに入るきっかけは様々だが、彼らは「新人研修」で古参メンバーからある洗脳教育を施される。いわく、若者は経済的弱者、詐欺の対象である高齢者は経済的強者。弱者が強者から奪うことに良心の呵責を覚える必要はない。「老人こそ日本のガンだ」云々。詐欺の対象となるのは資産がある、過去に詐欺被害に遭っている、単身である、親族と疎遠である等の属性の高齢者たち。詐欺メンバーは金を持っている高齢者からのみ奪っていることを免罪符にしているが、そもそも金を持っていない高齢者を詐欺にかけたところで支払えないのだからこの大義名分はおかしい。また若者が経済的に恵まれていないのは個々の高齢者のせいではなく政治による部分が大きいだろうに彼らはミクロな視点でしか物を見ていない。「新人研修」で新人たちは川崎の工業団地にあるコンビニへ連れて行かれる。そこの駐車場での人間観察が目的。バスが停まり、疲れた顔の工場勤務者たちが降りてくる。その姿を観察させ続け、あんな醜態を晒すくらいなら詐欺やって大金を手に入れろと上から暗示をかけられる。こんな洗脳を真に受けてしまうほど新人たちは純情なのだ。

 

特殊詐欺業界の歴史、内部の情報などは興味深い。けれど著者があまりにも詐欺グループ寄りの立場で書いているのでたびたび違和感を感じた。義のために盗みを働くロビン・フッドのごとき持ち上げよう。取材に応じてくれた相手を仮名だからとはいえ悪く書けないのだろうか。高齢者が若者たちに金をばら撒かなかったせいで特殊詐欺が生まれたみたいな書き方はどうかと思う。確信犯的にやっているなら悪趣味だし(対立を煽るだけ)、素で書いているなら…残念としか。著者は詐欺現場の若者たちをダークヒーロー的にカッコよく描いているが、彼らの能力というより詐欺対象の属性が網羅された名簿の存在が凄いんじゃないの、と思った。それにしてもどうしてルポ形式ではなくフィクション形式で書いたのだろう。

 

 

『狭小邸宅』は『文藝』の「精神と身体改造のための闇のブックガイド」に教えられた。不動産営業小説。いい大学出てるのに売れないという、『老人喰い』の若者たちの真逆のような営業マンが主人公。上司からのパワハラモラハラは日常茶飯事、殴る蹴るの暴力あり、サビ残当たり前、休日も返上で出社。なんでこんなブラック企業に執着しているのか判然としないので主人公が阿呆にしか思えない。しかし運よく一軒売れたのがきっかけで仕事のできる上司の目に留まり、指導を受けながら主人公は売れる営業マンへと成長していく。ただしそれが彼にとって幸福かどうかはまた別の話。この小説は細部が面白い。客に家を買わせることを「ぶっ殺す」との表現(例:「あの客ぶっ殺してこい!」)。案内するときは細い路地をあえて走って町に詳しいことを客にさりげなくアピールしろとか、案内する順番とかそういう業界のノウハウ。都内の住宅事情など(庶民はペンシルハウスを買うのがやっと)。売れるようになると仕事にのめり込んで他を顧みない。この主人公の社畜化プロセスを読んでいて『花束みたいな恋をした』の男を連想した(あっちほど悲壮ぶってないぶん本書の主人公の方がずっとマシ)。営業マンは売るのが仕事。だから社長はミーティングで怒鳴る。「お前らは営業なんだ、売る以外に存在する意味なんかねぇんだっ。売れ、売って数字で自己表現しろっ」。上司から教育され立派な営業マンへと成長した主人公。しかしどう見てもさっさとこんな会社辞めて他の仕事に就いた方がいいのに、周囲の人物たちもそう見ているのに本人だけがそれに気づかないという滑稽さ。読者は本書から社畜化の果てに人生の幸福などないことを教えられるだろう。

「おい、お前、今人生考えてたろ。何でこんなことしてんだろって思ってたろ、なぁ。何人生考えてんだよ。てめぇ、人生考えてる暇あったら客見つけてこい」

不動産営業の世界に『老人喰い』の若者たちが参入したらハマりそうに思った。