人間は猫ほど賢くは生きられない──ジョン・グレイ『猫に学ぶ いかに良く生きるか』を読んだ

 

 

人間にとって世界は脅威に満ちた場であり生には不安がつきまとう。哲学も宗教も生きることに伴う不安とその苦しみから解放されることを目的にして生まれた。古代の哲学者たちは禁欲的な生き方や、執着しない生き方、理性によって感情をコントロールする生き方を提唱した。宗教は儀式によって人の意識を超越的な存在へと向けさせることで現実の苦しみから目を逸らせるようにした。しかしどちらも根本的な不安の解消にはならない。常に感情を理性でコントロールできたならその人はもう人間ではないだろうし、宗教は同志の連帯を強める効果はあっても結局は束の間の現実逃避でしかない。

 

猫は違う。猫は本性に従ってあるがままに生きる。彼らは哲学も宗教も必要としない。そんなものがなくても良き生を送っている。彼らには人間の特徴である意識がない(あるいはあっても希薄だ)。人間は意識を持ち、だから唯一自殺する生物だと言われる。

 意識はそれ自身に向けられると、良い生活の邪魔になる。これまでつねに自意識は人間の精神をふたつに引き裂き、辛い経験を、意識から隔離された部分へと押し込めようとしてきた。押し殺された痛みは、人生の意味をめぐる疑問を生む。

 

良く生きることは、できるだけ意識的になることではない。いかなる生物にとっても、良き生とはそれ自身でいることである。

 

 もし猫が自分の一生を振り返ることができたら、生まれてこなければよかったと思うだろうか。そうとは考えられない。猫は自分の一生を物語にはしないので、惨めな一生だったとか、生まれなければよかったなどとは考えることはありえない。彼らは生を贈り物として受け取るのだ。

 人間は違う。他のすべての動物と違って、人間は信念のために死ぬ覚悟ができている。一神教の信者も合理主義者も、それを人間の優越性の証とみなしている。それは人間が、本能を満足させるためだけではなく、観念のために生きていることを示している。だが、観念のために死ねるのは人間だけだとしても、観念のために人を殺せるのも人間だけだ。なんの意味もない観念のために殺したり死んだりすることを、どれだけ多くの人間が人生の意義だと考えてきたことか。

(略)

 捕食者である猫は、生きるために殺す。牝猫は子どものためには死を恐れないし、閉じ込められると命がけで逃げ出す。だが、不死を達成するために死んだり殺したりしないという点で、猫は人間とはちがう。猫の世界に自爆戦士はいない。猫が死にたくなるとしたら、それはもう生きていたくないからだ。

 

意識を持ち、抽象的な思考能力や想像力も持ってしまったことが人間の不幸の源なのだろう。猫をはじめ動物にはそれがない。そして猫は人間のそばで人間とともに何万年と暮らしながら犬のような「人間もどき」には遂にならず、人間にとって異質な他者であり続けた。猫も猫なりに人間と交流する。そばに寄り添い、一緒に戯れ、一つ屋根の下で暮らす。彼らがそうするのは彼らがそうしたいと思うからだ。寄り添っていても飽きればぷいとよそへ行ってしまうし、複数の家を自分のホームと考えている。馴染みの人間がある日突然いなくなっても、そういうものだと素直に受け入れて生きていく。彼らのその自由さに、猫好きの多くはたまらなく惹かれるらしい。したいようにして生きていく、という彼らの自由。

チンパンジーやゴリラとちがって、猫はボスやリーダーは生み出さない。必要に応じて、欲求を満足させるために協力し合うが、いかなる社会集団をも形成することはない。猫の群れとか、集団とか、組織とか、集合体といったものはない。

 リーダーをもたないことが、人間に服従しない理由のひとつかもしれない。現在、こんなにも多くの猫が人間と共生しているにもかかわらず、猫は人間に服従せず、人間を崇敬することもない。たとえ人間に依存していようと、人間から独立している。人間に愛情を示すとき、それは欲得ずくの愛情でない。いっしょにいるのが嫌になると、どこかへ行ってしまう。もし人間のそばにいるとしたら、いっしょにいたいのだ。このことも、人間の多くが猫を可愛がる理由のひとつだ。

 

 猫は哲学を必要としない。本性(自然)に従い、その本性が自分たちに与えてくれた生活に満足している。一方、人間のほうは、自分の本性に満足しないことが当たり前になっているようだ。人間という動物は、自分ではない何かになろうとすることをやめようとせず、そのせいで、当然ながら悲喜劇的な結末を招く。猫はそんな努力はしない。人間生活の大半は幸福の追求だが、猫の世界では、幸福とは、彼らの幸福を現実に脅かすものが取り除かれたときに、自動的に戻る状態のことだ。

 

現状に満足せず自身の可能性を追求しようとする向上心。自己啓発。それが今ここの自分とのギャップを生み、その人を苦しめる。理想とは常に届かない憧れであり、それを目指すなら人間は死ぬまで自己を啓発し続けなければならない。しかし努力が必ずしも報われるわけではなく、物事の大半は努力よりも偶然の運不運によって左右される。報われぬ努力を続けていくうちに人間は次第に心を病んで不幸になっていく。猫には理解できない。猫は他人と自分を比較して嘆くこともないし、より良い自分を目指して努力することもない。皮肉なことに、より良い生を求めないからこそ彼らは良い生を送ることができる。

 

 人生の目的は幸福になることだと言うことは、自分は惨めだと言っているに等しい。幸福を目標に掲げるのは、いつか将来に実現したいと考えているからだ。だが現在は過ぎ去り、不安が忍び寄る。人びとは明るい将来への道がさまざまな出来事によって妨害されているのではないかと不安になる。そこで不安を解消してくれそうな哲学に、現代ならば心理療法に、助けを求める。

 哲学は治療を標榜しているが、じつはそれが治すと称している病の症状にすぎない。人間以外の動物は、自分が置かれている状況から気を逸らす必要がない。人間にとっての幸福は人工的な状態だが、猫にとっては自然状態だ。猫は、彼らにとって不自然な環境に閉じ込められているとき以外、退屈することがない。退屈とは、自分以外に誰もいないという恐怖である。猫は自分しかいなくとも幸福だが、人間は自分から逃げ出すことで幸福になろうとする。

 

 もし猫に人間たちの意味の探究が理解できたなら、彼らはその馬鹿馬鹿しさに、うれしそうに喉を鳴らすだろう。いま生きている猫としての生活が彼らにはじゅうぶんな意味をもっている。それに対して人間は自分たちの生活を超えたところに意味を探すことをやめられない。

 

人間は抽象的思考能力に劣る猫や、その他の動物たちを自分たちよりも下位の存在だと考えてきた。そうだろうか。抽象的な思考能力や言語を持たない叡智、人間のとはまったく異質な叡智というものも自然界には存在するのではないだろうか。自分が触れ、嗅ぎ、見ることに頼っている猫は、言語には支配されない。今日の世界のあらゆる問題は人間たちがしでかしてきたことの結果でしかない。人間同士で苦しめ合っている。いい加減万物の霊長などという傲慢は捨てて、虚心坦懐に彼らの叡智に耳を傾けるべき時ではないか。

 

では人間は猫から何を学べるだろう。本書の終わりに、「いかに良く生きるかについて、猫がくれる十のヒント」なる章がある。ここを熟読すればいい。猫には人間に何かを教えることに興味はない。こちらから教えを乞わねば見えてこない。極言すれば、「本性に従い、あるがままを受け入れて生きろ」になるだろうか。自分がとくにいいなと思ったのは、

5 幸福を追求することを忘れれば、幸福が見つかるかもしれない

 

幸福は追いかければ見つかるというものではない。何が自分を幸福にしてくれるのか、わかっていないのだから。そうではなく、いちばん興味のあることをやれば、幸福のことなど何ひとつ知らなくても幸福になれるだろう。

 

6 人生は物語ではない

 

人生を物語だと考えると、最後まで書きたくなる。だが、人間は自分の人生がどんなふうに終わるのかを知らない。あるいは、終わるまでに何が起きるかを知らない。台本は捨ててしまったほうがいい。書かれない人生のほうが、自分で思いつくどんな物語よりもはるかに生きる価値がある。

 

8 眠る喜びのために眠れ

 

目が覚めたときにもっと働けるように眠るというのは、みじめな生き方だ。得をするためではなく、楽しみのために眠れ。

 

10 少しでも猫のように生きる術を学べなかったら、残念がらずに気晴らしという人間的な世界に戻れ

 

猫のように生きるということは、自分が生きている人生以上に何も求めないということだ。それは慰めのない人生を意味するから、あなたには耐えられないかもしれない。もしそうだったら、古風な宗教に帰依しなさい。できれば儀式がたくさんある宗教がいい。自分にぴったりの信仰が見つけられなかったら、日常生活に没頭すればいい。恋愛がもたらす興奮と失望、金銭や野心の追求、見え透いた政治ごっこや毎日騒ぎ立てるニュースなどが、じきに空虚感を吹き飛ばしてくれるだろう。

 

最後のヒントがいい。たぶん猫は、飢えや貧困や差別や迫害や暴力や病いに襲われても、あるがままに生を受け入れて死ぬまで生きるだろう。幻想も希望も抱かずに。そんな強靭な生き方は脆弱な人間には向いていない。一方で人間は抽象的思考能力や想像力や言語を駆使して上記のような問題を解決か、緩和させることができる。偉大な賢者たる猫に憧れて目指すのもいい。だが憧れて目指しても猫になれないのなら、愚かな人間は愚かな人間として、その領分で、なすべきことを正しくなす、そんなありようもいいのではないかな、と読み終えて思った次第。

 

 

犬の話。

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