アーサー・マッケン『恐怖』『夢の丘』を読んだ

 

 

 

『夢の丘』以外のマッケン作品は読んだことがなかった。『夢の丘』が文庫で復刊されたので短篇集『恐怖』と併せて購入、作家の本領である怪奇小説も読んでみた。『恐怖』には「パンの大神」「内奥の光」「輝く金字塔」「赤い手」「白魔」「生活の欠片」「恐怖」のほか、『アーサー・マッケン作品集成』全6巻の解説が収録されている。640ページとかなり分厚い。

 

マッケン作品の特徴について訳者の平井呈一は端的にこう述べている。

マッケン文学には、作者の抱懐する一つの思想の主張があります。「パンの大神」以下の作品を読まれればおわかりになるでしょうが、そこに扱われているものは、すべて人間の「善」に悖るもの、すなわち「悪」、もしくは「罪」と称されるもの、それの根源についての追求であります。そしてそれにかかずらうものに、古代の邪神や前史人の生きのこりが出てきます。つまり、人間の「悪」を司るものはそういうものであって、それは現代の日常生活の上にも、昼となく夜となく、都会と地方を問わず、四六時中跳梁している。そうマッケンは主張しているのであります。神に叛いた人智による学問・科学の実験施行は地獄への直通道路で、その案内人は悪魔であり、邪神である。(略)もう一つ蛇足をつけ加えると、マッケンのこの哲理は物質文明に対する、かれの一つのレジスタンスにも通うものであると言えましょう。

進歩やら文明やらによって追放されたはずの古代の闇や魔なるもの。しかし実際には今も闇や魔は存在して人間を操って遊ぼうと隙を窺っている。代表作「パンの大神」には上記引用の要素が悉く表出している。外科手術によってキリスト教到来以前の古代の神を召喚する。召喚された神は人間に害をなす魔的な存在となる。「内奥の光」も似たような筋。科学技術が人間の傲慢さのシンボルとして扱われる。本書の解説や自伝的小説『夢の丘』を読むと、マッケンが故郷ウェールズのカーレオン・オン・アスクの風物から強く影響を受けて自身の思想やビジョンを得た・育んだらしいことがわかる。カーレオン・オン・アスクは現在のニューポートで、検索すると巨石の画像が出てきて、その景観はマッケンの小説世界と符合する。

 

マッケン作品のもう一つの特徴として暗示的な文章がある。これは平井呈一訳のためなのかもしれないが、明示的に出来事を叙述しない。そのために話が謎めいてくる。文章自体は難しくないのだが謎自体を直接語らずその周縁を「匂わせる」ような書き方をしている。たとえば「パンの大神」では、これは古代の神が人間に取り憑いて悪さをする話なのだが、その由来や過程は最後まで明確にされない。最重要人物である謎の女性は一言の台詞も与えられていないため彼女は自身の正体について語らず、複数の視点人物が憶測や推理で彼女の正体に迫っていく。古代の神に取り憑かれたと書いたが、それとも雑婚の子だったのかもしれない。二度読んだが自分には彼女の正体が結局わからなかった(俺の頭が悪いだけか?)「生活の欠片」の書き方もそう。現実主義的な銀行員が次第に神秘主義あるいはオカルト的世界に絡め取られて最後には現実世界から離脱してしまう話だが、彼の変化について明確な説明はされない。ただ展開するにつれ次第に怪談めいた気味悪さが増していくので話の内容に妙な納得を覚えてしまう。マッケンのこの暗示的な文章が作品の怖さに繋がっている、と自分は見る。恐怖とは正体がわからないからこそ恐怖なのであり、正体が判明してしまえば怖さは薄れる。マッケンのこの不親切さは、アニメ『鬼滅の刃』のなんでも全部セリフで説明してしまう親切な作風とは真逆にある。読者の想像力を刺激する作風。

 

『恐怖』収録作でいいと思ったのは「パンの大神」「白魔」「恐怖」。「白魔」はそうとは知らず魔道に魅入られていく少女の手記。彼女を先導する乳母が魔女だったのか否かもやはりはっきりしない。少女の一人称で「へんな人形を使ってへんなことを色々しました」と曖昧に儀式? について述べられるのが気色悪い。「恐怖」は人間の悪意が世界全体に悪影響を及ぼして自然界から反逆されるという話で、今読むと環境破壊による新型コロナウイルスの出現を連想してしまう。平井呈一はマッケンには文明の自然破壊に対する批判として読める部分があるとしている。

「一度起こったことは、二度起こるかもしれない」──これは「恐怖」の最後のことばでありますが、戦争とは別の形の人間の愚かさから、これほどまでに地球を汚してしまった今日、この次に来るものは地球そのものの反逆であるのかもしれません。

ウイルスからすれば環境の変化に伴い生存戦略を変えたというだけの話であり、新型コロナウイルス流行を自然界からの反逆やら災厄やらと見るのは人間中心主義的な見方に過ぎないのだろうが。

 

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

 

『夢の丘』は10年以上ぶりの再読。挫折した青春の物語。以前はいいなあと思ったが今回再読したら感傷的かつ陰気くさくて最後の方は流し読みになった。小説家志望の青年が周囲の俗物どもを見下したり、現実の女性を空想上でミューズにしたり、中年の今読むにはちょっときついものがある。作者の故郷がモデルらしい自然と古代遺跡の残る土地で、貧しいながらも自分の好きなことを楽しみながらやっている前半は明るくていいんだけれどロンドンに上京して以降は暗くて退屈。でも庶民の集う繁華街での大騒ぎに巻き込まれるシーンは悪夢的でよかった。ただの酔っ払いたちの騒ぐ様子が、衰弱した主人公にはサバトのように見えただけとも読める。文筆が錬金術に喩えられているのがらしくて可笑しい。労多いばかりで益少ない試み、ということか。少年時代に好きだった女子が別の男と結婚する、自分は彼女との思い出を支えに孤独に創作に打ち込む…みたいなナルシスっぽいところは昔の新海誠作品っぽさがあると思った。

 

 

マッケンを読んでいてハイネの『流刑の神々・精霊物語』を思い出した。ヨーロッパにおけるキリスト教到来以前の豊かな世界についてのエッセイ。

民間信仰は今ではギリシア・ローマの神々を、たしかに実在するが呪われた存在にしてしまっている。(略)教会は古代の神々を、哲学者たちのように、けっして妄想だとか欺瞞と錯覚のおとし子だとは説明せず、キリストの勝利によってその権力の絶頂からたたきおとされ、今や地上の古い神殿の廃墟や魔法の森の暗闇のなかで暮らしをたてている悪霊たちであると考えている。そしてその悪霊たちはか弱いキリスト教徒が廃墟や森へ迷いこんでくると、その誘惑的な魔法、すなわち肉欲や美しいもの、特にダンスと歌で持って背教へと誘いこむというのである。

キリスト教は布教時に土着の神々の神殿や祠を破壊してその上から教会を建てたんだっけか。