シネマート新宿で。コロナ禍が本格化する前の2020年の2月にポン・ジュノ監督『殺人の追憶』を見に来て以来。ロビーはポスターとかラッピングとか賑やかで楽しいし、シアター1は箱が大きくて見やすく、居心地のいい映画館。
土曜日20:35からの回、15分前くらいにエレベーターで6階に着いたらロビーは大勢の人で溢れていた。100人前後か、もっといたのか、よくわからないがとにかく多かった。ぱっと見たところ男性が9割近かったように思う。
鬼畜映画の金字塔的に評されることもある本作。ポスターには「人でなしの映画」とある。しかし意外(?)にもストーリーはしっかりしていた。今は引退した伝説的なポルノ男優が破格のギャラ目当てにカムバックするもそれはスナッフフィルムの撮影だった…という筋。前半、主人公ミロシュは監督から台本を渡されないので撮影のたびに戸惑う。中盤以降は失った記憶を取り戻そうと行動する。全編にわたって「何が起きているのか」「何が起きたのか」という謎とその解明が映画を展開させる駆動力になっている。この映画、まず見る機会はないだろうと思っていたのですでにネットで梗概を読んでいたのだが、今回映画館で見ながらそれを後悔した。ストーリーを知らずに見たかった。終盤、ショッキングな残虐シーンが連続する。しかし直接的な描写は控えめで、視覚的に耐え難いレベルではない。描写よりアンモラルっぷりが精神的にくる。いやー、わかっていたとはいえいざ目にするとキツかった。そこまで抑えてきた暴力性があのシーンで一気に爆発した感もあり、この映画のヤバさはあのクライマックスシーンに凝縮されていると思う(新生児のシーンも相当いかれてたが)。勃起したペニスで人を殺すなんて普通思いつかねーだろ。あまりにも異常過ぎて笑ってしまった。あれは笑うところだと思う。この映画でやってることはサドの小説──たとえば『美徳の不幸』のようでもある。でもサドの小説に犠牲者の声はほとんど描かれないのに対して、この映画は犠牲者たちの表情や声がこれでもかと描かれる。スナッフフィルムの監督も、自分が撮っているのは映画ではなく犠牲者だと言っている。よく知らないし調べもしていないが、この映画で描かれる金のため生活のために搾取される犠牲者とはすなわちセルビアという国そのものである、この映画はセルビアの歴史をメタファー的に描いている、みたいな評もあるようで、じゃあそういう話なのかも知れない。戦争の英雄の妻の不倫を咎める描写もあったし。中盤で監督は自身の哲学みたいなものを開陳するのだがこれは意味不明だった。彼の経歴的に日本でHENTAIに目覚めたんじゃねーかという気もしたが。
やべー映画と思っていたが思ったよりずっとちゃんと映画していたので感心した(大イビキかいて寝ている人が後ろの方にいたようだが)。好みもあるだろうが『ハイテンション』や『屋敷女』よりもずっと映画としての結構をしていると思えた。こっちの二作は過激な描写ありきのように思えて、見ている最中退屈と、なんなら苦痛さえ覚えてしまった。が、『セルビアン・フィルム』は違う。最初から最後まで飽きずに見られた。この映画で描かれるポルノとは芸術の謂でもあったのではないか。主人公のミロシュは性の天才。その天才をドラッグ漬けで操作しようとする監督を女優が厳しく批判するのは人間性の抑圧・支配に対する糾弾であり、このシーンはこの映画の勘所だったように思う。一方で言論も自由も暴力の前では無力だと描いているのがこの映画の怖さで、しかもそれが警官らしき人々によって、公権力によって行われているところにディストピアっぽさを感じさせる。権力者によって搾取されるだけの小市民の話を徹底的にグロテスクに悪趣味に描いた映画、それが本作なのだろう。ラストシーンには胸糞悪さよりも死してなお搾取される姿に滅入った。見る人を選ぶ相当な変態映画であることは間違いない。が、思えば『チタン』も大概な変態映画だったし、胸糞悪さでいえば『オールドボーイ』や『コクソン』もかなりのものだし、絵の不快さでいえば『マーターズ』を超えるものはそうそうないだろうし、『セルビアン・フィルム』はそれらよりむしろおとなしいと自分には思えた。
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