押井守『映画の正体 続編の法則』を読んだ

 

 

押井監督が1年1本の縛りでチョイスした映画について語る『50年50本』の続編。今度は続編映画縛りで語る。

 

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先に結論を書いてしまうと『50年50本』の面白さには及んでいない。あっちは長期スパンで多岐にわたるテーマを縦横に語っていたし、中でもミリタリーやSFや吸血鬼といった監督好みの話題にはノリノリだった。それに比べると本書は映画監督論の向きが強く、人物にフォーカスする分話題に広がりがない。押井監督の独特の自負(押井節? わからん)いまひとつ冴えない印象。ただし本書の最後に収録されている観客論は素晴らしい。端的に現代の観客の特徴について述べていると思う。あと、『50年50本』もそうだったが立東舎の押井監督の本は装丁が素敵で、ページのレイアウトも読みやすくてとてもいい。

 

続編映画はなぜ作られるのか。最初から何部作と構想されていた映画を除けば(『ロード・オブ・ザ・リング』のような)基本的にはヒットした映画に対する観客からの要望と、設定を使い回せる効率性を重視するプロデューサーの意図から生まれる。プロデューサーはこのときあわよくばシリーズ化、なんてことも考える。一方で監督としては似た映画を撮ることによる表現行為の停滞・後退を危惧する。

そういう意味では商業映画は常に、表現行為と経済行為という矛盾する2つの要素で成立するんだよね。何をいまさらと思うかもしれないけど、その矛盾が顕在化しやすいのがパート2でありシリーズなんだよ。

だから無印と続編で監督が変わることはよくある。例としては『エイリアン』シリーズがそうだ。

 

押井監督が敬愛する「サー」、リドリー・スコットによる『エイリアン』。その後続編はジェームズ・キャメロンデビッド・フィンチャージャン=ピエール・ジュネと変わり、前日譚を描くシリーズで再びスコットが監督する。押井監督は無印の『エイリアン』を絶賛する。そして『エイリアン』という映画は「パーフェクト・オーガニズム」であるエイリアンの淘汰圧がテーマの映画だと述べる。それがキャメロンによる『2』でエイリアンはあっさり銃器で撃ち殺せる設定に変えられてしまった。監督の交代が映画のテーマも変化させる。しかし押井監督に言わせるとキャメロンは自身にテーマを持っていない監督だという。

押井 サーには「異文化との衝突」というテーマがあるけど、キャメロンにはテーマがない。比較して語るのが手っ取り早いから『エイリアン2』について語るけど、「今度は戦争だ」と銘打って宇宙海兵隊の話にした時点で、映画の種類が変わってしまった。しかも種類だけじゃなくてテーマも変わってしまった。(略)ホラー映画だったサーの『エイリアン』をミリタリーアクション映画として読み替えたんだけど、撃ち殺せるとなった時点でエイリアンを群れで出すことによってしかアクションの魅力を満たせなくなってしまった。

スコットによるエイリアンの脅威の繁殖力による淘汰圧の恐怖を、関係ねえ、撃てば勝てるぞ、と矮小化したことが押井監督には「楽観論」であり「後退」と見える(ミリタリーアクション映画としては評価しているようだが)。しかし『2』にはエイリアンクイーンと(少女ニュートを守ろうとする)リプリーの「母性対決」というテーマがあるのでは? と聞き手が訊ねると、別にああいうシチュエーションなら母親じゃなくても少女に優しく接するだろ、キャメロンは母性をわかってないんじゃないの、と手厳しい。うーん、どうなんだろう。この箇所、自分としては押井監督がスコットを上げるためにキャメロンを下げているようにも思えた。自分が『エイリアン2』を大好きだからというのもあるだろうが…。スコットの『プロメテウス』だったか『コヴェナント』だったか忘れたけど、クルーが未知の惑星を無警戒に探検してエイリアンに襲われるのを見てそのバカさ加減に呆れた記憶がある。自分はキャメロンのテーマは、強い女、戦う女、そのあたりじゃないかと思っていて、それが自分の趣味と合うので割と好意を持っているのだが、押井監督によるとキャメロンのテーマは「深海への信仰心」なんだそう。

 

続編を撮る監督が変わることで無印と以降の作品の比較が可能になる。ゆえに本書は監督論となる。スコットとキャメロンのほか、語られるのはクリストファー・ノーランザック・スナイダースピルバーグマイケル・ベイギレルモ・デル・トロ宮崎駿、シリーズものとして『ゴジラ』『ダイ・ハード』『007』『猿の惑星』。『ゴジラ』と『猿の惑星』に関しては興味ないので読み飛ばした。『50年50本』と比べると押井監督の語りに精彩がないように感じられる。スコットとキャメロンの2章で本書の内容のほとんどを語ってしまっている気もするし。

 

以下、付箋を貼った箇所から引用。やはり映画監督としての自身の経験を踏まえた箇所が面白い。

カットをカチャカチャ切り換えて映像を素早く変えていくことをテンポとは言わないんだよね。それは単に見づらい映画だというだけであって、無駄を省いて状況を素早く変化させていくことをテンポと言うんだよ。だから映画のテンポを生み出すのは脚本の力だということになる。その脚本のテンポをどう生かすかは現場の演出次第。

 

監督としては「すごい画を見せたい」と考えるが、映画館に来るお客さんにとってはすごい画を見たいという願望は二の次どころか三の次。非日常を体験したいという願望が2番目。やっぱり1番目はキャラクターなんだよ。(略)映画はキャラクターが1番で、2番目に奇抜なストーリー、そして3番目が世界観。

これに関しては自分はすごい画を見たいのと非日常を体験したい願望が一番に来る。キャラクターにはあまり関心はない。ただ映画館のスクリーンではできれば美男美女を見たい思いはある(トロルが主人公の『ボーダー』という映画を見ていて気分が悪くなった経験がある)。

 

いつも言ってるけど、監督には「自分の映画を作りたい人」と「職業としての映画監督をエンジョイしたい人」の2種類しかいない。しかも遺憾ながら前者は少ない。映画監督というポジションを気に入っちゃった人が監督業を続けている場合が多いんだよ。

 

押井 宮さんがどんな思想を持とうが構わないしあの人の自由だけどさ。そもそもの問題として世間は、監督の頭の中に宿っている思想を具象化したものが映画だと思い込んでいるよね。だけど実際は監督の思想と映画のテーマは必ずしも一致しないし、むしろ一致しない場合のほうが多い。これは作家主義の大いなる弊害だよね。

この少し前にある、宮崎駿監督は短編を作ると凄いのに長編になると途端に無能になる、という発言にびっくりした。

 

本書の最後に観客論。畢竟するに続編映画は観客からの需要あってこそ作られる。「観客ありきの続編映画」。

基本的には観客のご要望があるから。需要があるから作られるのであって、続編を手掛けることになる監督の動機や手腕は全部後手。続編を希望する観客の声がまずあって、そのご要望に応えるべくプロデューサーが資金の目処を立てて、最後に監督が起用される。だから続編映画やシリーズものを順序立てて語っていくならば、観客論にしかなりようがないんだよ。

ではなぜ観客は続編映画を求めるのか。押井監督によると、続編映画は安心して見られるから。今の観客はチケット代や鑑賞時間に対して昔の観客よりもシビアだ。「いまのお客さんは時間の無駄を一番嫌う」。つまらない映画を見て2時間を無駄にされることへの拒否感が強い。「映画で2時間無駄にしたことが許せないんだよ。映画だから許せない」。ネットの普及による情報量の激増と、動画配信サービスによる低コストでの膨大な作品の選択肢(一生かかっても見きれないほどの量)が与えられたことで観客の意識が変化したために映画鑑賞で2時間を無駄にすることは今や「絶対的な損失」になった。仮に映画を見なかったとしても代わりに2時間で何か有意義な過ごし方をするわけではない。実際にはその時間で居眠りしたり、酒を飲んだり、ダラダラYouTubeを見ているだけなのにも関わらず、「他にもっと見るべきものがあったかもしれない」という可能性を残すようになってしまった。だから見知らぬ映画で無駄な2時間を潰すよりは続編映画を見るほうがいい、続編映画は続編だというだけである程度のクオリティを保証してくれるから。…現代の、とくに若い人に特有のこうした「タイムパフォーマンス」観念は、先だって話題になった「ファスト映画」「倍速再生鑑賞」に通じる部分があるだろう。趣味にまで効率性を求めてしまうメンタリティ。最近では「読むべき本のリストを作ってください」、「鑑賞すべき映画のリストを教えてください」と押井監督に言ってくる人が多いのだという(『50年50本』を読んでいれば他人の作ったリストがいかに無意味か、わかるはずだがなあ)。

そんな結構なリストがあるわけないじゃん。自分で努力して自分のリストを作るしかない。それが映画を見ることの、本を読むことの半ば以上の行為だと言っていい。いまは誰もがその努力を怠るようになってしまった。グルメサイトの高評価を鵜呑みにして料理店に行くようになってしまったのと同じだよ。僕は東京で仕事して週末は熱海に帰るのだけど、週末の熱海は地元の人間だったら行かないような店に長蛇の列ができている。観光客の列ができているのは美味い店、ではなく、ネット商売に長けた店なんだよね。しかも並んでいるお客さんたちも本当に食べたくて並んでいるわけではない。評判を確認しに行っているだけなんだよ。映画もそれと同じになってしまったわけ。

文章だとわからないけれどこれを語っているときの押井監督の口調は厳しいものだったんじゃないかな、と勝手に想像する。「映画監督は観客と戦争しなくちゃいけない」と考えている人だから。映画鑑賞に限らず、この、趣味の分野における効率性追求のメンタリティに関しては、今読んでいる『映画を早送りで観る人たち』と重なり興味深かった。こういう人たちに『サタンタンゴ』を見せたら面白そう(アップリンク吉祥寺で『サタンタンゴ』を見たときは観客の半分が若い人だったが)。でもこれってたぶん配信の話なんだよな。映画館で、つまんねー映画だなーと見ながら思うときあるけど、誰も途中で席立って出て行かないもん。映画館へ映画を見に行くほどなら熱心なファンだから、あるいは、つまんねーと思っているのは俺だけ、という可能性もあろうが(そんなことありうるか?)。

 

しかし最後まで読んでもタイトルにある「映画の正体」が何だったのか、結局わからずじまいだった…。俺が阿呆で読み取れていない可能性が高いが。自分、熱心な押井監督のファンではないし映画の好みも全然違うんだけど語りが面白いので結構この人の本を読んでいる。『押井言論』も本棚にある。

 

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