あるいは陰謀論のルーツか──ノーマン・コーン『新版 魔女狩りの社会史』を読んだ

 

 

魔女狩りの発生から終息までの歴史についての本かと思って読み始めたのだが、本書は魔女狩りという迫害・排除のメカニズムがいかにして成立していったかについての本であり、魔女狩りそのものについてはほぼ触れない。誤解を招くタイトルに拍子抜けしたが、このメカニズムの分析は20世紀から現在まで西欧に留まらず各国で行われた・行われている民族虐殺や現代の陰謀論も射程に収めていて読み応えがある。ただし訳文は学術書然とした硬い感じの文章で読みやすくはない。

 

2世紀頃、ローマ人は初期キリスト教徒を、幼児を殺してその肉を食う、近親相姦的乱交の集会を開いているとして迫害した。この迫害はキリスト教が勢力を増しメジャー宗教となることで止む。すると今度はキリスト教会が迫害する側に回る。自らの正統性を証明するため、自分たちから分派した宗派を取り締まろうと異端審問を開始する。その際に利用されたのが古くから庶民の間で共有されてきた魔女のイメージだった。魔女は箒にまたがって空を飛び、悪魔が主催する宴(サバト)に出席し、悪魔と乱交し、皆で赤子の肉を食う…と噂されたが、そのイメージはかつてキリスト教徒がローマ人からされたタブーのレッテル貼りそのままだった。庶民は村の邪魔者や恨みのある者を、あいつは魔女だと訴える*1。審問官は彼らを拷問にかけて(無理矢理)自白させ、さらに仲間の名前を吐かせる。無論そんなものはいないし、自分も魔女ではないが、生きたまま火炙りにされるのを避けたい一心で誰かの名前を口にする。それは兄弟や配偶者の名前であることもあり、審問官が、「あいつはどうだ、あいつも仲間だったんじゃないか」と誘導するのは領主や貴族であったりした。異端審問で処刑された者の財産は上位領主に没収される法律が制定されていたため、支配階級が富裕者を魔女として処刑しその財産を取り上げるのが横行するようになっていたのだ。中には、自分のものであるはずの遺産を奪った親族を訴えるために自ら「改悛した異端者」として出頭する者もいた。異端審問は嫉妬や憎悪や財産をめぐる人間の欲望の縮図となっていく。

有罪宣告と処刑を逃れる方法は一つしかなかった。被告は異端であることを自白せねばならなかったのだ。だがその時には改悛の証拠が必要だった。(略)彼は仲間の異端を名ざし、自分が教育を受けた「異端の学校」を明示せねばならなかった。もし、独力で満足のいく情報を提供できないならば、マールブルクのコンラート*2とその仲間たちが喜んで手を貸した。彼等はたいてい、おもな貴族の名を挙げた──そうすると被告はふつう急いで同意するのだった。「その人たちは私と同罪です。私たちは同じ学校にいました」と。自分たちの扶養者を財産没収と貧窮から救うためにこのようにした人たちも中にはいたけれども、たいていの人は、単に生きながら焼かれる恐怖からそうしたのである。兄弟が兄弟を、妻が夫を、領主がその農民を、農民がその領主を密告するところまで、恐怖が増していった。

 

初期のキリスト教は悪魔なんて問題にしていなかった。彼らの存在感は薄く、旧約聖書には悪魔についての記述はほとんどない。さらに「悪魔の指揮下で行われる人間たちの陰謀については、暗示さえされていない」。その程度の存在だった。

 初期のヘブライ人たちにとってはヤハウェは部族の神であり、彼等は近隣の諸部族の神々を、自分たちとヤハウェに敵対するものと考えた。それで、彼等は、それ以上の悪の仰々しい具現を必要と感じなかったのである。のちに、もちろん、ヘブライ人の部族宗教一神教に発展した。だがそうなった時には、その一神教はきわめて絶対的で、神の全能と偏在が不断に強調されるので、悪の諸力は比較的に意味のないものに見える。(略)旧約聖書の中でラハブ、レヴィヤタン、テーホム・ラバーという名前で現れる竜についてはどうなのかと言うと──それはバビロニア天地創造の神話から継承されたものであり、創造された世界の中で働いている悪よりは、太古のカオス(混とんとした状態)を象徴している。また、旧約聖書は、神の大敵としての、また悪の最高の権化としての魔王については何も知らない。私たちは、エデンの園でイヴをあざむいた蛇を、神と戦っている魔王だと考えることに慣れてしまっている。だが、このように考える根拠は、テキストの中にはないのである。それとは逆に、魔王が旧約聖書の中に現れる少数の機会には、彼はヤハウェの敵対者というよりは、その連累者として姿を表している。

部族の敵は悪魔ではなく近隣の諸部族。そして旧約聖書においては悪魔すら神の一部。いい意味での想像力の欠如からヘブライの人々は神の敵という概念を抱かなかった。初期のキリスト教もこの考えを継承していた。完全無欠の神に敵など存在しない。すべてチート的に一瞬で叩き潰す。だからこそ神なのだ。とはいえ時代が下るにつれキリスト教は魔王や悪魔について体系化していくようになる。種村季弘さんがどこかで書いていたが、キリスト教がその絶対的正義を証明するためには同じくらい強い敵が必要だったため悪魔を強く設定し直す必要があったのだろう。初期キリスト教における悪魔は悪戯好きな妖精か妖怪といった趣きで、起きていたいのに眠くなるのは悪魔の仕業、帽子をかぶっていたいのに頭をかゆくして帽子を脱がせるのは悪魔の仕業、その程度の力しかなかった。しかしやがて魔王はかつて神の次に力を持っていた大天使であり、部下の天使たちを率いて叛逆したものの神の軍勢に敗れ地底深くに落とされた、みたいな、非クリスチャンでも知っているあの挿話が生まれる。彼らは隙あれば人間を誘惑して罪を犯させ神に背かせようとしている、とも。

 

神も悪魔も人間が作ったもの。どちらも人間の一面が投影されている。時代が下るにつれ悪魔が力を増していったのは人々が信仰に対して懐疑的になっていったためと思われる。神に祈っても人は病気になるし、赤ん坊は死ぬし、飢饉や戦争や感染症はなくならない。信仰の有効性を疑うようになるのは文明化の必然だろう。魔女として告発された女性の中には産婆が多かったといわれる。乳幼児の死亡率が高かった時代、赤ん坊の死に立ち会うことが多かった彼女たちが親たちの怒り悲しみの矛先として筋違いの恨みを買っていたために告発された可能性は十分にある。独裁国家で行われる密告と同じように、異端審問は個人の恨みを晴らすために利用された。

 

隣合った地域なのに魔女狩りに熱心な異端審問官や領主がいる地域では魔女が大量に見つかり、そうでない隣の地域には魔女がぜんぜん出てこなかった、という事実は何を意味するのか。あるいは、ある地域で何年にもわたって魔女が見つかったのに、審問官や領主が代わったら途端に見つからなくなった、というのは。魔女がでっち上げだった証左だろう。当然だ、魔女なんて最初からいないのだから。教会は自分たちを脅かす異端者を罰したい。庶民は気に入らない誰かを消したい。領主は財産を没収したい。それら各々の利得を求める心が魔女狩りを生み、存続させた。異端審問は自白のための拷問を認めていたのでそれが被害の拡大につながった。拷問されたり生きたまま火炙りにすると脅されれば隣人や家族を売るのも無理はない。

農民たちは、自分たちだけでは、決して大規模な魔女狩りを生み出さなかったであろう──これは、当局者たちが、サバトの実在と、サバトへの夜間飛行の実在を信じるようになった場所と時期においてのみ、起こったのである。そしてこの確信は、拷問の使用を含む異端審問形式の訴訟手続に依拠していたのであり、また、それによって支えられていた。魔女の容疑者が、拷問によって、サバトで見た人々の名前を挙げるよう強制され得るようになった時に、すべてのことが可能になった。市長も市参事会員たちも彼等の妻たちも、農民の女たちとちょうど同じように、告発されたのである。

 

もっとも残酷になれる者は自らの正義を疑わない者だ、と言われる。魔女は悪でありキリスト教徒の敵なのだから何をしたっていいというのなら──正義は彼らの欲望を満たす大義名分でしかなかった。

 

幼児殺し、人肉喰い、近親相姦といったタブーは人間の本能に強く嫌悪を催させる。正義を自称する者はローマの時代からこれらのレッテルを迫害対象に貼ってきた。現代の陰謀論にも似たものがないだろうか。魔女狩りは根本において「堕落をもたらした張本人、あるいはまた悪の権化として想像されたある種の人間たちを絶滅することによって、この世を浄めようとする衝動と関係している」、そして「今でも我々はそういう衝動を抱きつづけているのである」と著者は述べる。陰謀論のルーツとタイトルにした所以である。

 

 

魔女のステレオタイプを描いた映画として。

ウィッチ(字幕版)

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*1:男の魔女も多数存在した

*2:当時熱心に職務に励んだ異端審問官