1959年にカンザス州のホルカム村で発生したクラッター家の4人が殺害された事件を再現したノンフィクション・ノベル。旧訳でも一度読んでいるが20年ぶりくらいに新訳で再読。
この小説は4章からなっている。ホルカムの住人たちの証言を集めた1章、犯人を追う警察を描いた2章、逮捕された犯人たちの素性を明らかにし、事件前後の行動を再現する3章、裁判、そして死刑執行までの4章。このうちもっとも素晴らしいのは1章。以降は読み進むにつれ読み物としての面白さは減じていった印象。とくに4章の裁判シーンは退屈な上に長く、大半を流し読みしてしまった。1章は多数の人物たちの証言によって事件が発覚する12月の朝へと物語が収束していく構成の巧みさに舌を巻いた。シーンを展開しながらクライマックスへと接近していく過程で感じる慄きはサスペンスを読む醍醐味と言っていい。
旧訳で読んだカポーティ『冷血』を20年以上ぶりに新訳で読んでいるがめちゃくちゃ読ませる。第1章「生きた彼らを最後に見たもの」、複数の人物たちの視点から物語が徐々に「その日」へと収束していく構成があまりに見事でため息が出る。
— elein (@eleintheforest) 2022年12月13日
クラッター家はホルカムの名士だった。善良で実直な彼ら一家が突然の暴力によって命を奪われたこの事件は住人たちにとって大きな衝撃だった。ある人物はこう証言する。
「もし、事件にあったのがクラッター家でなかったら、みんな、今の半分ほども神経を高ぶらせることはなかったでしょうね。つまり、事件にあったのが、あれほどの信望も、財産も、安定もない家だったらということですが。あの一家は、この辺の人たちが心から評価し、尊敬するものすべてを代表していたんです。ですから、あの一家にあんなことが降りかかったというのは──そうですね、神は存在しないといわれたようなものなんです。人生が無意味になりかねません。みんな、怯えているというよりも、深く沈んでいるのだとわたくしは思います」
二人の犯人のうち、破綻した家庭で育ち、夢想家の傾向があるペリーにカポーティは強いシンパシーを覚え、「二人は同じ家に生まれた。彼は裏口から出て行って自分は玄関から出て行った」とまで語ったという。しかし本書を読むかぎりではペリーも、共犯者のディックも、美化されず客観的に公平に描かれているように思う。妙な言い方になるがペリーにせよディックにせよ人間としての魅力は本書を読むかぎり自分には感じられず、もともと前科のあった考えなしな犯罪者タイプの二人が下調べもろくにせず無謀な強盗殺人を目論み失敗した事件*1としか思えず、カポーティがこの事件、そして犯人ペリーにのめり込んだ理由がなぜなのか判然としなかった。俺はペリーにまったくシンパシーを覚えなかったので。冷静な書き方のせいもあるのかもしれないが、犯人二人に強烈な個性はないし、彼らの「心の闇」を描こうともしていないので犯行の動機も遊ぶ金欲しさの短絡的なものとしか思えず、この事件に犯罪であること以上の異常性はない。強いていえば殺す相手の頭にクッションをあてがってやったり姿勢が苦しくならないよう気配りしておきながらいざとなったら平然と引き金を引いたペリーのアンビバレンツな心理くらいか。ディックについては、
ディックの内には常に羨望が巣くっていた。自分がなりたいと思った存在になった人間、自分が持ちたいと思ったものを持っている人間はすべて"敵”だった。
とあるがこんなふうに思う人間なんて無数にいるだろうし、そう思っても「だから殺す」という行動に普通は出ないもので、その一線を越えてしまった理由を作者には追求してほしかったもどかしさがある。たぶんこういった不満が2章以降の物足りなさの原因としてある。ペリーとディックがどういう生い立ちでどういう素性なのかはわかる、しかし彼らがそうも容易に犯罪に走るその理由は最後まで読んでもよくわからなかった。
本作で不思議なのは事件当時には実家を出ていたおかげで無事だったクラッター家の二人の娘たち*2に関してほとんど書かれていない点。取材拒否されたのか、カポーティが関心を覚えなかったのか。遺族である彼女たちの証言がないのは不自然に思える。アメリカではクラッター一家にフォーカスしたこの事件のドキュメンタリーがあるみたいだが日本では視聴できないっぽい。