松本創『軌道』を読んだ

 

 

以下、ブクログの感想からコピペ。

2005年4月に発生、107人もの死者を出したJR福知山線脱線事故のノンフィクション。この事故の原因は、収益向上のために安全性を軽視してまで過密ダイヤを編成しながらいざトラブルが起きると運転士個人に責任を押し付けるJR西日本の企業風土にあった。硬直した官僚主義、徹底した上意下達、被害者への謝罪より組織防衛を優先する姿勢、教育と言いながら実際にはミスした運転士への懲罰的な日勤教育などが取材を進めるうち明らかになっていく。

本書は主に三つの視点から読むことができる。
一つめは遺族のある男性が事故発生の原因究明とその改善を粘り強くJR西日本に働きかけ硬直化したこの組織のメンタリティを変えていった、いわば「プロジェクトX」的な視点。
二つめは国鉄時代に遡るJR西日本の歴史。「JR西の天皇」とまで呼ばれ恐れられた元会長の存在と、彼の「誤った人間観、歪んだ安全思想」や利益追求の精神がこの組織全体にいかに影響を及ぼしたかの考察。
三つめは失敗学というかリスクアセスメントというか、事故に対する科学的な視点。人間は必ずミスを犯す、それを懲罰によって更生しようとすれば隠蔽が蔓延する。大事なのはヒューマンエラーが起きなくするようなハード面での改良。そのための設備投資の重要性。福知山線の事故のほかにも信楽高原鐵道事故などが例として紹介される。この部分はブルーカラーの自分の日常業務と重なるところもあり勉強になった。が、やや専門的かつ冗長にも感じられたので一部読み飛ばした。

組織的、構造的問題まで踏み込む「原因究明」より個人の責任を追求して罰する「犯人探し」「処罰主義」の方が日本人の思想に合うのだろう、という本書の指摘に昨今の自己責任論の蔓延を連想して頷ける部分があった。

(コピペここまで)

 

事故は制限速度70キロの現場カーブへ運転士が110キロ以上の速度で進入したために起きた。遠心力で車両が傾き脱線、そのままカーブの先にあったマンションへ衝突。事故直後に撮影された写真、マンションの外壁に巻きつくような形になっていたのは二両目で、一両目は地下駐車場へ突っ込んでおり地上からは見えなかった。乗客106人と運転士1人が死亡、562人が重軽傷を負った日本の鉄道史上最悪の事故である。

 

運転士は直前の停車駅でオーバーランするミスをしており、遅れを取り戻そうと高速で運転したのと、ミスについての指令と車掌との無線のやりとりに気をとられてブレーキを使用するのが遅くなったのが直接の事故原因とされている*1。その背景には、停車時の余裕時間がない過密ダイヤ、ミスを犯した運転士への懲罰・見せしめ的な日勤教育の存在があった。そして取材報道されていく中でJR西日本がいかなる企業風土の組織であるかも明らかになっていく。「非常に硬直した、官僚主義の、表面上の言葉とは裏腹に、本質的な部分では自分たちの責任や誤りを決して認めず、絶対に譲歩しない、そんな組織」。被害者や遺族に頭を下げながら自分たちの誤りは断固として認めず組織を守ることを第一に優先する。説明会や裁判におけるJR西日本の態度に遺族や被害者は何度も失望し憤ることになる。

 

事故を起こした運転士はまだ20代前半で運転士になって1年にも満たなかった。何よりも安全運行を第一にせねばならない鉄道において若く経験不足の運転士でもそうできるようにするにはハードへの投資が必要だろう。しかしそうされていなかった。現場となったカーブはATS(自動列車停止装置)を設置する予定の箇所だったが安全より利益を追求する本社の方針により設置工事がスケジュールより遅れていた。これが設置されていれば事故が防げていた可能性は高い。一方で制限速度70キロのカーブに110キロ以上で進入するなどという事態を会社は考慮していなかったという言い分も頷ける部分はある。

 

阪急、阪神との競争に勝つためJR西は過密ダイヤを組み運行本数を増やした。結果利益は大幅に増加したが停車時間に余裕がないため列車の遅れは日常的に起きていた。列車が遅れたりオーバーランしたりすれば日勤教育が待っている。日勤教育は社訓を何度も書かせたり大声で叱責したりトイレへ行くのもいちいち断らねばならないなどおよそ運転士の安全意識向上や再発防止に効果的な内容ではない。同じく現場仕事をしている身として思うのは、人間は必ずミスをする、ということ。意図せず起きたミスに対して組織が懲罰で報いれば人は隠蔽しようとする。その結果、予兆であったかもしれない事象が見過ごされたり情報共有されなかったりして重大事故につながる。重要なのはハード面での対策だ。誤った操作をしてしまうのならその操作ができないようロックすればいい。作業者の安全意識向上や指差喚呼もたしかに大切だが、経験として、やらかした後になってもなんで自分はあんなことやってしまったんだろう? と魔が差したとしか思えないミスというのも起こり得る。

 

JR西日本がなぜこういう企業風土の組織になっていったのかについては民営化の歴史、「JR西日本天皇」と呼ばれた元社長の存在が関係している。会社と組合の闘争の歴史の部分は読み応えがあった。この元社長が悪の根源のような報道も当時されていたようだが、本書でその意見を読むかぎりでは一分の理はあるように思えた。とはいえ安全に関する認識は前時代的で、ある人物が評するように、優れた経営者ではあるかもしれないが公共輸送を担う鉄道事業者には不適格な人物だったのだろう、と自分も見た。

 

作家の柳田邦男による指摘が印象的だった。

 組織的・構造的問題まで踏み込む「原因究明」よりも、個人の責任を追求して罰する「犯人探し」が優先されてきた歴史が日本にはあると、柳田は私の取材に語っている。

 

「(略)

 処罰主義というものが日本人の思想に合うのでしょう、事故においても刑事訴訟法に基づく刑罰主義に傾いてしまう。行政処分にしても、やはり罰を与える発想に近い。それが世論にも、マスコミにも、行政内部でも納得を得やすいからです」

日本人の思想。

この箇所を読んで、脈絡なく、パトレイバーの内海さんの「強きをけなし 弱きをわらう」が日本人の快感原則だ、という台詞をふと連想した。事故後、JR西や国の機関と闘う「物言う遺族」の姿が報道されるにつれ、彼らに対する中傷が匿名のネット掲示板に書かれるようになり悪意ある噂が囁かれるようになっていった。「そんな心構えだから子供が事故に遭うんだ」「あの家は補償金を釣り上げるためにゴネている」「車を買い替え、家も建て替えるらしい」など。

 何が彼らを駆り立てるのかはわからない。家族の喪失と不在を埋められるはずもない「補償金」がそんなに妬ましいのか。遺族が「遺族らしく」悲しみに打ちひしがれ、泣き暮らしていないのが気に入らないのか。JR西のような大企業や国交省などの”お上”に楯突くのが生意気だと思うのか。それとも、たいした理由もなく、日頃の鬱憤晴らしに目についた人間を叩いているだけなのか。

こういうのって日本人のメンタリティなのか。それとも同調圧力の強いストレス社会だからなのか。ちょっと気が滅入った。

 

JR西日本の公式サイトのトップページには今もこの事故についての記述が一番上に掲載されている。この事故をきっかけにJR西日本は安全を第一に優先する鉄道会社になりました…と結べれば素晴らしいのだろうが、補章を読むと現実は厳しいようだ。点検していても設備トラブルは常に起きる。経年劣化もあれば思いもよらぬ原因もある。それが起きたときいかに予断を持たず楽観視せず対処できるかが問われている…とは自分の身にも当てはまること。俺も偉そうなことが言える立場では全然ない。人命を預かるほど重大ではないものの俺の仕事とて下手すれば人が死ぬ。大怪我する。今でも思い出すと胃が締めつけられるような、大声出して記憶を紛らせたくなるような怖い体験をしたことは一度や二度じゃない。忘れてえ。でも忘れちゃ駄目なんだ。

 

 

*1:やりとりをメモしようとしたのか、運転席には支給品の鉛筆が落ちていたという