『本の雑誌2023年2月号』の特集「本を買う」を読んだ

 

 

特集の前文「本は読むためだけにあるのではない。買うためにあるのだ!」がいい。中野善夫さんの寄せた「本を買え。天に届くまで積み上げろ。」は手元に本を置いておけばいつでも(それが遠い未来でも)読むことができる、読書とは最初から最後までの通読を指すのみならず拾い読みや流し読みなども範疇に含んでおり「読んだ本」「読んでいない本」と単純に二分化できるものではない、金を出して買った自分の本であるから書き込みをしたり付箋を貼ったりできる、自分で選んで買った本が本棚に並べられることで本同士にネットワークが生じそのネットワークは自分にしか生み出せない関係性である、蔵書を増やすとは生活に新しい刺激を加えること、など本を買うことの意義が説かれる。今日明日読む本を買っていては駄目だ、いつか読む本を買えとの指摘が斬新で、すぐには読みもせず積むとわかっているのに本を買うというどうかすれば倒錯的とも思える行為が、実は自分の未来へ期待する/賭ける前向きな気持ちの表れでもあるように思えて元気が出てくる。実際、読んでいようが読むまいがどうでもいいのだ。買いはしたもののろくに読んでいなくても──10分かそこらパラパラめくってはまた閉じるということを10年以上繰り返しているだけの本であっても──本棚にその本がある、そのことが自分にとっての杖になる、護符になる、本とはそういうものなのだ。

 

数年前に禁煙したときインセンティブとして年間のタバコ代で買えるネルヴァル全集(全6巻)を筑摩書房のサイトから直接購入した。その6冊は未だほとんど開かれることもなく本棚の一番下に並んでいる。日々それを眺めながらしかし読もうという気にならない。そして毎日のように背表紙を眺め、気まぐれに一年のうち何度か手に取って拾い読みする、そんなことを繰り返しているうちに読んでいないのに書かれている内容について知っていく、知識が増していく、ということが起こり得る。おそらくはそれについて書かれた本*1や別の本の中で言及されているのを読むことで「間接的に」読んでいるのだろう。本は星座のように互いに関連し合って存在している。だからその本そのものは読んでいなくてもその内容については読んでいる、ということが起こり得る。その不思議さを実感するには本は手元になくてはいけない。

 

中野さんはこんまりさんの、未読の本を読むための<いつか>は永遠に来ない(だから手放せ)、との主張に、いや永遠とはそんなに短い時間ではない、40年後に読む本というのもある、あなたは若いからご存知ないだけだ、と真っ向から反論する。40年後となると未知の領域だが自分もプルーストの『失われた時を求めて』は買って10年積んだのち1年を費やして読んだ。読むきっかけは親が病いになったのを見て人生には限りがあると身近に知ったから。読み始めれば1冊を2日で読み終えることもあれば2ヶ月以上かけても読み終わらないこともあった。ふとしたきっかけで読み始める、自分のペースで好きに読み進める、それらができたのはこの13冊が自分の物として本棚にあったからこそだ。図書館で借りたのではこうはいかなかった。この13冊は10年もの間ずっと手に取られる日を待っていてくれたし、自分も10年間、いつかそのうち読むのだろうとぼんやり思っていた。無意識にせよ視界に入るたびその呼び声を聞いていた。所有していなければ本とこういう付き合いはできない。

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難解さゆえ読まない(読めない)まま何年も本棚に並んでいた本をふと手に取る。歯が立たないと思っていたのに不思議と読める。関心も向く。まるで子供の頃突然自転車に乗れるようになったあの瞬間のようだ、と自分でも驚きながら読んでいく。しかし進むうちに飽きるか歯が立たない箇所にぶつかる。そうなったらそこで流し読みしながら進んでもいいし、またいつか、と閉じてもいい。本はそこにあるのだから慌てる必要はない。これも手元に本があるから可能な選択肢だ。時間は有限? 死ぬまでに読みたい本? 人間はいつか必ず死ぬし、それがいつかもわからないし、何をしようと「途中」で斃れるのだ。強迫観念に憑かれるな、読めないまま終わってもいいという気持ちで本棚を眺めろ。時間は有限だというなら本なんぞ読むより自然を眺めたり、旅行したり、親しい人と過ごしたり、自分の住んでいる町を散歩したりするほうがよほど有意義ではないか。にも関わらず本を読んでいる。

 

本を持つことの大切さは未読の本に限らず既読の本にもあてはまる。すでに読んでいる本が本棚にあればふとした気まぐれに取り出すことができる。あそこちょっと読み返してみよう、あるいは、何か今必要なことが書いてあった気がする──そんな軽い気持ちで読み返して、ああやっぱりいいな、と感心することもあれば、こんなだったか、と落胆することもある。本は変わらないのに読むこちらが変わることで同じ文章が全然違う意味を帯びる。時間の経過や自分の変化を本を通じて自覚する。藤岡みなみさんはイアン・マクドナルドの『時ありて』の書評の冒頭にこう書いている。

 時間はいつも強引に、一方的に流れ続ける。本はその影響を受けない聖域であり、永遠の待ち合わせ場所だ。

その待ち合わせ場所で出会うのは他者とは限らない。過去の自分に出会うこともある。プルーストの語り手のようにある本を開くことでその本を読んでいた遠い少年時代のある一日──午後の木漏れ日、遠くで鳴る鐘の音、自分を呼ぶ誰かの声──を想起することもある。過ぎ去った時間を召喚しつかの間再び生きる。普段は忘却されている記憶という隠し扉を開く鍵としての本。鍵ならば常に手元に置かれていなくてはならない。

 

 

 

 

 

*1:たとえば野崎歓『異邦の香り』