「神の子」、社会に出たらカルトの子──米本和広『カルトの子』と菊池真理子『「神様」のいる家で育ちました』を読んだ

2冊とも宗教二世に関する内容。

 

『カルトの子』の取材対象となる宗教はオウム真理教エホバの証人統一教会幸福会ヤマギシ会ライフスペース。これらカルトと呼ばれている新興宗教の二世たちの生活と人生について。著者はカルトの定義を「カルトとは、組織や個人がある教えを絶対であると教え込み、それを実践させる過程で、人権侵害あるいは違法行為を引き起こす集団である」とする。以前読んだ江川紹子『「カルト」はすぐ隣に』では「宗教に限らず、何らかの強固な信念(教義、思想、価値観)を共有し、それを熱烈に支持し、行動する集団」、「中でも自分たちの目的のために手段を選ばず、社会のルールや人間関係、人の命や人権などを破壊したり損なうことも厭わない集団」と定義していた。

 

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オウム真理教ライフスペースは子供に関心がないカルトで、出家信者の子供たちは基本的に施設内で放置されていた。オウムの教義には一切の執着を捨てろというのがあった。これにより親は我が子であっても接触することを禁じられ、施設内で顔を合わせても冷たい態度をとった。子供からしてみれば親に捨てられたようなものだ。発達心理学によると親からの愛情を必要とする幼児期にそれを得られなかった子供は精神的にも身体的にも成長が遅れてしまうとされる(「愛情遮断性小人症」)。発育を促す成長ホルモンは愛情を受けることによって体内に分泌される。貧相な食事ばかりで栄養状態が悪かったという理由もあっただろうが、地下鉄サリン事件後に保護されたオウムの子供たちはみな情緒的に未熟で体格も同年齢の平均を大きく下回っていた。

 

オウムとは逆にエホバの証人の親子関係は濃密で、冊子を持って親子で伝導訪問し、子が反抗的な態度をとると「懲らしめ」と称して、小児であってもゴムホースやアクリル樹脂の棒で体罰を加え矯正する。体罰を受ければ当然子どもは痛みに耐えきれず泣く。普通の親なら子供が泣けば体罰をやめる。しかしエホバの証人の親は、泣くということは悔い改めていない、反抗の表れだと考え泣くのをやめるまで叩き続ける。これがエスカレートしたあまり死亡した子供も出た。親は2歳の子を「ゴムホースで血が滲むほど」叩いたあと一晩家から締め出した。翌朝様子を見に行くと死んでいた。殺人としか思えないのだが、こんな悲惨な事件があってもエホバの信者たちは「懲らしめ」を一切反省せず、殺した親が「やりすぎた」だけ、と組織ではなく個人の問題として処理してしまった。指導者は「今後はその家に近づくな」と会衆に指示して不幸な信者一家を救おうとはしなかった。不幸に襲われた人間を助けるのが宗教の役割だと思うのだがあっさり見捨てている。子どもの命が犠牲になってもこの事件がきっかけでエホバを離れた人はいなかった、と元信者は語っている。ただし本書が書かれた2000年頃には激しい体罰はなくなりつつあるとも書かれている。

 

エホバの証人の章を読んでいてきついな、と思ったのは自分たちの宗教以外は邪教との教えのため、二世が七夕もクリスマスも年賀状も地域の祭りも学校の文化祭や体育祭もすべて参加を禁止されてしまうことだ。これでは学校で浮いてしまう。いじめの標的にもされやすくなるだろう。毎週末、伝導訪問に行かねばならないのもつらい。また1992年までは知識をつけると信仰に批判的になるからとの理由で大学進学も禁止されていた。アメリカで行われた30の宗教を対象にした信者の大学進学率調査ではエホバの証人が5%未満で最下位だったという。

 大学に進学できず希望する仕事を断念せざるを得なかったことは、二世が今でも抱える大きな問題の一つである。九二年以降も信仰に批判的になる可能性の高い人文系、社会科学系に進むと、周囲から白眼視されることが多い。

エホバの場合は教義から、統一教会の場合は貧困から、それぞれ二世は進学を断念せざるを得ないケースがとても多い。それは学歴社会の現代において将来就く職業の選択肢が大きく減ることを意味する。ヤマギシ会の場合、義務教育後に内部の学園に進学すると世間的には中卒扱いだ。脱会しても仕事を探すのに苦労するだろう。

 

何よりきついのは親からの愛が条件つきであること。子供が信仰や伝道に不熱心になると親は子供を見捨てる。エホバの証人の活動をしないのであれば家に住むことすら許さず追い出す。

エホバの証人」的生活をしていれば親から愛がもらえるが、子どもらしい感情や欲求をぶつけると、親の態度はとたんに冷淡になり、親の愛を感じることができなくなってしまう。それが繰り返されれば、子どもたちは学習し、親の愛をもらうために、無意識のうちに感情や欲求を何度か封印する。

にわかには信じがたい話だが、この「条件つきの愛」については『「神様」のいる家で育ちました』にも、さらには統一教会二世の方の証言にも出てくるのでカルトにとっては決して珍しいものではないのだろう。

anti-mooniescult.blog.jp

A「先ほど私は3姉妹と申しましたが、教会に引っ張られたのは姉と私で、一番下の妹は唯一ひっぱられなかった人間です。やっぱり幼い頃、私も高校生だったんですが、親の助けがないと生きられない年齢の時に、親を拒絶して断るというのはなかなか難しい問題があります。それは、子供にとっては命にかかわる問題だからです。要は親に『あなたこれを信じなければごはんあげません』とか言われてしまっては、子どもとしては生きていくすべをなくしてしまうわけですよね。」

山口(?)「言われるの?そんなこと?」

A「言われますよ。なので、やはり従わなければならない家庭環境に、状況に置かれてしまった人たちがたくさんいると思います。妹はそれを蹴って出て行ったんですけども、それだけの強さを持っていればいいですが、それが出来ない子たちというのは、否応でも親の言うことを聞いて育つしかない。それは統一教会に限らず、カルト2世と呼ばれる人たちはすべてそういうような、理不尽な生き方を強要されてきたとは思っています。」

これは子供の人としての尊厳を奪い、親としての務めを放棄した虐待だろう。

 

この統一教会の親子関係も条件つきの愛によるそれである。この宗教の最大の特徴は過酷な献金ノルマにある。統一教会エホバの証人のように組織として高等教育を否定してはいない。むしろ大学進学を奨励していたこともある。しかし大学へ進学する二世は少ない。際限ない献金によって信者の家庭が貧しいから学費を出せないのだ。大学進学どころか高校生でも生活費を稼ぐためにバイトをしなければならない状況だという。宗教二世の問題から外れるが、本書には元・統一協会信者による自民党の選挙応援に協力したとの証言がさりげなく書かれている。

 

本書でもっともページを割かれているのが幸福会ヤマギシ会だ。社会から隔離された環境で世話係による激しい体罰が日常的に行われていた(本書に子どもたちによるアンケートが載っているがひどい内容)。暴力による恐怖支配。折檻で骨折した子も、耐えきれず自殺した子もいる。本書によると執筆時までに少なくとも9人の子供が事故などで死亡しているというから驚く。にも関わらずヤマギシ会は一度も真相を明らかにしたことはない。自殺したある女子中学生の親は娘が死んだというのに真相究明しようとせず、妹もヤマギシ会に預けていたが彼女を引き取ることもしなかった。それを会員たちは「素晴らしい」とこぞって賞賛していたというのだから恐ろしくなる。この子の心境を想像すると暗澹たる気分になる。とにかくカルトには自分たちを客観的に見る、反省するという視点が決定的に欠けている。閉鎖的かつ独善的。元総理暗殺事件を起こした山上容疑者の母親は、事件後、息子のせいで教会に迷惑をかけてしまい申し訳ないと発言したらしいが、ここまで感覚がずれているともう周囲が何と言っても無駄、対話は不可能との諦めの気持ちになる。

 

本書が指摘するカルトの子たちの抱える問題をまとめると以下。

幼少期のネグレクトや体罰による精神的・身体的成長の遅れ。成長後もトラウマとして残る。

条件つきでしか愛されないことによる自尊感情の低さ。

幼い頃から常に親の顔色を窺い、愛されるために自分の感情や欲求を抑圧する二重生活を余儀なくされる。

教義による禁止や献金ノルマによる家計の貧窮のために教育を受ける機会を失う。

教義による禁止により級友たちとイベントに参加できず孤立する。

…こうやって書いてみると相当にきついな。まともな人間関係を築けない、築き方がわからないまま大人になってしまいそうだ。そして大人になってからはもっときつい。社会で自力で生活していかなきゃならないのに自力の土台となるものがないのだから。

 

個人の救済、あるいは救世、楽園建設。そんな御大層なお題目を唱えておきながら、実際はというと自身の家庭が破綻するかその一歩手前の信者が大半で、熱心に宗教活動したばかりに不幸になったように自分には思える。どんな結果になろうが親はいい、大人が自分でした選択なんだから受け入れるだけだ。でも子供は違う。子供は好き好んでカルトの子に生まれてきたわけじゃない。

 オウムからエホバの証人統一教会ヤマギシ会へと取材が進むにつれ、まるで性格の異なるカルト(団体)にもかかわらず、一つの共通項があることに気づかされる。

 それは、親子関係がどの団体でも逆転した関係になっている、ということだ。

 子どもと親の関係は本来、子どもの欲求に親が応えるのが基本となっている。(略)

 ところが、これまで見てきたカルトの親子関係は、親の欲求を子どもが満たすという歪な関係になっている。

 カルトが入り込むと、子どもより世界救済(オウム)、地上の楽園(エホバの証人)、地上天国(統一教会)、全人幸福社会(ヤマギシ会)のほうが絶対となるから、親子関係が逆転する。この逆転した関係を子どもが従順に受け入れ、親に合わせた生き方をすれば立派なカルト二世になっていくし、拒否すれば親子関係は「断絶」する。

本書の冒頭に脱会した元・信者の証言が置かれているが(統一教会の元信者は人を騙して金を巻き上げていたことへの罪悪感が薄くてムカついた)脱会したからといって元の普通の家族に戻れるわけでなく、家族関係はひび割れているし、子供は人生を壊されており、親がしたことのツケを子供が払わされているようでやりきれなくなる。

 

 

『「神様」のいる家で育ちました』は異なる7つのカルト信者の二世たちの物語。インタビューを元にしているのかな。第1話、第5話、第7話がよかった。話によりユーモラスなのと怖いのが混ざっているので不思議な感じを受ける。上で挙げた3話はどれも怖いやつ。第1話はエホバの証人だろう。『カルトの子』での内容と合致するので「懲らしめ」はやはり真実だと。我が子が脱会してもその配偶者を勧誘しようとする手口は、上でリンクした統一教会二世の方の、子供を勧誘しようと追ってきた母、との証言と重なる。もうこれ狂気だろ。

第5話は幸福の科学だろう。教祖の馬鹿馬鹿しいイタコ芸、長男によるYouTubeでの暴露などネタ的なカルトと思っていたがこの話を読むとかなり危ない団体に思えてきた。やたらと訴訟を起こすのは金に困っているからなのか。この漫画は一度web連載・公開が中止になっているが連載していた集英社にクレームをつけてきた団体が幸福の科学だった。それにしても集英社は情けない。出版社としての矜持がまるでないのが判明した上に宗教団体からのクレームであっさり連載中止の判断をしたとの悪しき前例まで作ってしまった。表現の自由はどうした? その後、連載は文藝春秋に移動して続けられた。

smart-flash.jp

 

第7話は創価学会だろう。著者の実体験。『酔うと化け物になる父がつらい』でも印象的だった著者の母親の自死が描かれる。「心の底では信じていなかったんでしょう?」「たんなる居場所だったの?」たぶんそうだったんだろう。満ち足りている人、幸福な人は宗教にはまったりはしない。さらに言えば本も読まないし映画も見ない。今ある自分の人生以外の物語を必要としない。不幸だから、渇きがあるから、宗教に、カルトにはまる。

でもそこに救いはない。どんなに祈ったって献金したって布教したって報いはない。教祖や幹部の食い物にされるだけ。昔の2chにいいAAがあったな。信者と書いて儲ける。