映画『対峙』を見た

銃乱射事件の加害者と被害者の両親4人による対話。舞台はほぼ教会内の一室のみ。動きはないに等しく、ひたすらに対話が続く。演劇に近い。しかしテーマのシリアスさと俳優たちの迫真の演技のせいか、退屈せず最後まで見られた。

 

最初は何のための集まりなのかすら明らかにされない。予備知識がなければ訳がわからないだろう。何か事件があった、そしてこれから教会に来るのはその関係者であるらしいことだけ仄めかされる。6年前、ある高校で銃乱射事件があった、ここにいるのはそれぞれ加害者と被害者の両親だと判明するのはしばらく経ってから。対話によって事件当日の模様が断片的に再現されていく。実際にアメリカで幾度も起きている学校での銃乱射事件のニュース映像と重なって、俳優たちの演技と言葉により、脳内に事件発生時の様子が映像として喚起される。スクリーンには映っていない映像が「見える」。だんだんと自分が今見ているのが実際に起きた事件の当事者たちの記録映像、ドキュメンタリーのように思えてきて、これフィクションだよな? と内心で自問、確認する。それほどのリアリティ。

 

被害者は撃たれて死亡、加害者は自殺。後者の両親はなぜ彼がそうしたのか、その答えを未だ見出せずにいる。おそらくは相当な社会的制裁を受けたのだろう。父親はつい「息子は生まれなかった方がよかったのかもしれない」とまで漏らす。しかし母親は、自分が産み育てたのは人殺しだと理解した上で、それでも彼を愛している、その気持ちだけはどうしようもないのだと涙ながらに訴える。加害者遺族と被害者遺族。その間に横たわる溝がたやすく埋まるはずもない。被害者遺族としては、両親がどうにかうまく対処すれば犯人は事件を起こさずに済んだのではないか、と思いたい。そして加害者の両親を責めたい。しかし対話を重ねるにつれ、起きた事件は異常だが起こした少年は必ずしも異常ではなかった、躓きはあったものの事件を予期して未然に防ぐのは家族の力では不可能だったと知る。彼らなりに手を尽くしていたとも。

 

昨年、宮下洋一『死刑のある国で生きる』という本を読んだ。この映画を見ながら、その内容を思い出していた。殺人事件の被害者遺族は加害者や加害者の家族に何を望むか。その命を奪うことか。しかし相手が死んだところで殺された者は帰ってきはしない。多くの被害者遺族が望むのは犯人の死刑より彼が自身の罪を悔い一生苦しみ続けることだ──そんなことが書かれてあったように覚えている。誰かの命を奪う罪の重さは、奪った者が「死んだくらい」で償えるほど軽くないのだろう。犠牲者がまだ十代の子供であれば奪われた親の怒りと悲しみたるや想像がつかない。

 

監督はこの映画をどう着地させるのだろうと話が進むにつれ関心が強まった。結果的には実に意外な、しかしストレートな赦しに落着したのは正直拍子抜けだった。陳腐とすら感じてしまった、そうなるかもと薄々思ってはいたが。「憎むことでいつまでもあいつに縛られないで」とは中島みゆきの歌の一節だがそういうことか。自分としては、先日見た『トゥルー・ディテクティブS1』である人物が口にした、「赦しなんてものはない。ただ忘却するだけだ」という台詞の方が人が人に対する態度としては真実に近いように思うのだが、それは自分がペシミスティックな人間だからかもしれない。心情的にキリスト教的な赦しの感情がどうにも実感できないというのもある。

 

ストーリーの展開や結末にはさほどの意外性はない。それを見せる俳優たちの演技がこの映画の見どころだと思う。

 

 

引用する。

私がどうしても知りたかったことを、ようやく知れた気がした。遺族が加害者に対し、「死んでほしい」と口にする時、その言葉に込められた本当の思い。それは、この世から消える「生物学上の死」を意味しているわけではない。むしろ、「苦しみ続けてほしい」という願望のほうが強いのかもしれないのだ。

 

欧米人が死刑を廃止できたのは、実のところ、死刑が犯罪抑止につながらないという事実でもなければ、世論を抑えて制度を変える政治家たちの野心によるものでもない。それは、人権という理想が、「赦し」という宗教的価値観に支えられているからではないのか。日本人の大半は、凶悪殺人犯を「赦す」ための信仰心は、備えていないように思える。