5月、あっという間に時は過ぎ

 

5月上旬はGWで俺としては充実の日々を送れたが以降は外出する機会は映画館くらいしかなく大人しく過ごした。大人しく過ごしているうちにひと月が終わってしまった。連休明けから写真もろくに撮らなかった。これを書いている今は6月1日。GWからもう1ヶ月が経とうとしているのに驚いている。

 

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

平日は会社と自宅の往復だけの日々。そんな生活を反復しているうちにあっという間に時が過ぎる。歳をとるごとに時間の経過が早くなっている気がする。毎日刺激に乏しいルーティン的な繰り返しをしているからそう感じるのだろう。子供の頃、一日が長く感じられたのは日常に新鮮さがあったから。大人になってからも、今の会社で一年に三回職場が変わったことがあったが、その年は一年がとても長く感じられた。未知の事柄に真剣に取り組むと時間は子供のころの長さを取り戻す。俺は根がだらしない人間なので締切や目標設定ありで(実質的に)強制される仕事でないと真剣に取り組めない。趣味で何か新しいことをやろうとなっても、遊びだとちょっと飽きたらすぐ放り出してしまうだろう。そういう意味では労働にもいい面はある。やらざるを得ないからやるしかない人生の時間潰し。

 

5月。朝5時にはもう空が明るい。夜明けが早くなったのはいい。夜勤が短く感じられるから。冬は夜明けが遅く、夜が長く、いつまでも夜勤が終わらないような気持ちにさせられてしんどい。

 

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

陽射しがだいぶ強くなった。晴れの日は日中車に乗ると暑いくらい。とはいえ夏ほどの苛烈さはまだない。気温も30度には届かない。外出時は半袖シャツの上に薄手のパーカを羽織って出先の温度次第で脱ぎ着して調節する。一年のうちでも今は過ごしやすい季節だろう。気分が浮き立ってもよさそうなものだが、スギのあとはイネか(それともハウスダストか?)、鼻がむず痒く、くしゃみの出る日々が続いている。もともと俺はブタクサの花粉症持ちで、そこから対象がイネ、スギと広がっていったようで、一番症状がひどく出るのは秋頃。上記の症状に加え目が痒くなる。まったく、これじゃ真夏以外の季節はマスクが外せないじゃないか。どれだけの量のアレジオン20を飲めばいいのか。安い薬じゃないのに。

 

5月、あちこち出かけようと思っていたのだが色々タイミングが合わずほとんど出かけなかった、とはすでに述べた。19日の文学フリマ東京38に行くつもりで電車の乗り換えや平和島駅からの徒歩ルートを下調べし、千円札も用意しておいた。が、その週は夜勤で、日曜になっても時差ボケで起床時間がイベントと合わず、結局行かなかった。会場の東京流通センターは遠いので行くのがめんどくさい気持ちも弱くなかった。乗らない気分のときは無理しない、無理すると後で体調がおかしくなる、と経験から学んでいるのでそれに従った。欲しかった本は通販で後ほど購入した。日勤の週だったら行きたかったが。どうも文学フリマと相性が悪いらしく去年の冬開催のときも夜勤週だった。

 

今月、ほぼ毎週末会う女の人は引っ越しで忙しく、そうなると他に友だちのいない俺は休日会う相手がいないので週末を一人で過ごすことが多かった。部屋を掃除し、買い出しついでに散歩し、フィットボクシングをやり、本を読んでは放り出し、映画館へ行く、というのが大体のパターンだった。映画館へは毎週のように行って、『胸騒ぎ』『ミッシング』『関心領域』を見た。『胸騒ぎ』はすごい(不愉快な)映画だった。それと比較すると後の二本は、悪くはないけれど内容が想定の範囲内であまり感銘を受けなかった。失踪事件、ナチ、どちらも俺の関心あるテーマではあったんだが。

 

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

46歳。今年の冬には47歳になる。やばい。半世紀近く生きてきたのに自分の中に蓄積されたものがない。中学生の頃想像していた中年像から程遠い。いや、中学生の頃に中年の自分を想像したかどうかは覚えていないが(たぶんしていない…というかできなかった)、自分はいずれ二十代で結婚して家庭を持つんだろうとはぼんやり思っていた。とんでもない夢物語だ。現実は全然覚束ない。受け身で生きている人間に結婚とか、そこから派生するであろう子供とかマイホーム購入とかそんなイベントは起きっこないのだ、ということを若い自分は知らなかった。周囲の大人たちはそういうふうにしているから自分もそうするのだろうと思っていたに過ぎない。思っているだけじゃ何も起きない。行動しないと。

 

今更過ぎた人生を取り戻す術はないのだから現実を受け入れてひとりものの人生を歩むしかない。たぶん俺はなるべくして今の自分、今の生活になった。もし俺に家庭があったらその重圧に押し潰されてしまったかもしれない。嫌なことからすぐに逃げ出してしまう根性なしの自分は責任ある立場に身を置かない方がいい。きっと自分だけでなく周囲も不幸にする。

 

それにしても中年である。中年のくせに「やばい」とか言ってんじゃねえよ。もっと貫禄ある言動、振る舞い、できないのか。西部警察に出てた頃の石原裕次郎より年上なのに。

精神的には14歳の頃からほぼ成長していない。14歳をいくらか世間ずれさせ、体力・気力・性欲を減退させた存在、それが46歳の自分。

 

昨日、はてブを見ていたらこんなエントリが目についた。

kaigo.homes.co.jp

俺より少しだけ年上の方々の対談。ところどころ同意しつつ読んだ。新しいことに関心が持てなくなって過去に好きだったものを見てしまう、というのはとりわけ同感だった。Spotifyで聞くのは90年代、2000年代の音楽ばかり。YouTubeでもその時代の音楽のMVをよく見る。昨夜はココア飲みながらずっとSPEEDの動画を見ていた。時間は有限なので古いものを見ていればその分新しいものを見る時間は減る。でも古くてもよくね? というか新しいものに触れたい、という気持ちが起きない。知らないものより知っているものの方が楽しめる。だからそうしている。

 

好奇心、体力、気力が衰え、寝つきが悪く寝ても眠りは浅く、だから常時体調はイマイチで、「楽しい」「美味しい」「美しい」と感じるアンテナが錆び付き、日々に彩りや潤いが欠けていく。今の俺の日常はそんな感じ。イライラすることはあまりないが何をするのも億劫で、かと言って何もせずベッドに横になれば時間がもったいない、何かしなくては、と焦燥感に駆られる。今の暮らしに不満はない。が、満足もしていない。ただ、こんなもんだろう、という諦念がある。

 

この間、アーサー・マッケンの「生活のかけら」を新訳で再読した。

 

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

この小説の主人公は平凡な銀行員で、妻がいて、毎日勤めに行き、帰ってきてからは夫婦で睦まじく過ごし、臨時収入の使い道や収入を増やす方法について頭を悩ませている。そんな堅実な人生を送っている銀行員が、ある時期から急に憑かれたように自分の先祖について調べ始め、選ばれた一族の一員であると自覚し、これまで現実と思っていたものは実は夢まぼろしであり、これまで夢まぼろしだと思っていたものこそ現実だったとの確信を強め、オカルトにのめり込んでいく。序盤は退屈なリアリズム小説と思われたものが中盤以降は幻想小説めいていく。…という話。以前に読んだときはマッケンの暗示的な書法のせいもありわかりづらい変な小説だとしか思わなかったが(と言っても読んで2年しか経っていないが)、今回再読して、これって「中年の危機」を描いた小説じゃないのか、と目を開かれた。これまでの生き方は本当に自分が望んだ人生だったのかと疑い、惑い、別の可能性を模索する。この主人公は中年というよりは青年に近い年齢のようだが、「生活のかけら」を書いたときの作者は43歳で、プライベートでも不幸を経験したり、急に文筆から芝居の世界に飛び込んだり、後者は中年期の停滞・倦怠から逃れたくて発作的に行動したかのようで、その心理が小説にも反映しているように俺には思われる。小説は主人公がその後どう変わりどう生きたかまでを書いていないが、あれほどのめり込んだら銀行員として今まで通り現実に生きていけるのかどうか、足を踏み外しそうで、先行きを想像すると怖くなる。

 

この小説の主人公のように、運命的な出会いを果たした美しい恋人と森の中の湖のほとりで結ばれたい、という願望は46歳の俺にもある。もう中年なんだからそんな「ロマンチック」からは卒業、もとい成仏せえや、と我ながら呆れつつ、でも願ったり望んだりすることを意志でどうにかすることはできないし自分に嘘はつけない。こういう感情が高じて頂き女子やら二回りも年下の女性やらに夢中になるのだろう。すでに失われた青春時代を取り戻そうとするかのようにムキになって執着し、本気で可能性がある、脈があると信じて相手に突撃する。狂気だ。恐ろしい。全方位に災難しか生まない。決して他人事ではない。俺もいつ狂うかわからない。用心せよ。

 

 

 

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

hayasinonakanozou.hatenablog.com