人みながいつか必ず体験するという意味では「月並みな出来事」である死について、「日常に潜むグロテスク」「すべての人間に等しく向けられた呪詛」「根源的な不快感」の三つの相から考察する。考察のネタ元は医師としての経験だったり、これまで著者が読んできた/見てきた小説や映画だったりする。このスタイルは自殺について書かれた『自殺帳』と同じ。創作に基づいた考察より医療現場での経験に基づいたそれの方を興味深く読んだ。
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月並みと言ったって死ねば生は終わるし(自分は死後の世界を信じていない、死ねばあとは無があるばかりだろう)取り返しがつかないのだからやはり特別なことだと俺は思うが。死それ自体は月並み、でも「私の死」あるいは「親しい人の死」は特別、そんなところか。
たまに深夜、悪い夢を見て目覚めたとき、ものすごい不安感や孤独感を感じる。いつか必ず自分は死ぬ、両親も死ぬ、そんなことを考えると吐き気にも似た不快感が込み上げてくる。恐怖の大王と勝手に命名してるんだけど、あれなんなんだろう。死ぬことを考えても日中は切迫しない。夜だとおかしくなる。人間のバイオリズムとしての昼の生理と夜の生理があると精神科医の中井久夫が何かに書いていたがその影響なんだろうか。
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あの恐怖感、不安感、孤独感の答えみたいなものがあるかもしれないとの期待で本書を読み始めた。でも本書で扱う死は実存の問題ではなく現象。客観的に分析、批評する、そういう内容だったので俺が期待したような答えや考えるヒントはなかった。面白かったけど。
特に面白かった指摘は2点。一つは常に見逃される死の瞬間について。
死は死んだあとで気づかれる。死の床についている人を観察していても「あ、今死んだ」と気づくことはできない。
医師として過去にわたしが病院で立ち会ってきた死も、おおむねこの描写に近い。そして「死ぬ瞬間」についてわたしが言及するなら、思い出したように不規則な呼吸が繰り返され、次の呼吸が来るかと思ったら結局それはこなかった──そんな形で生命の終わりが確認される。心電図がフラットになったら死んだ証拠と思うかもしれないが、誰かが患者に軽く触れただけでも不規則な波形が出現したりするのでテレビドラマのように簡単にはいかない。すなわち、本当の「死ぬ瞬間」にわたしたちは気が付かない。ワンテンポ遅れて、初めて「もう死んでしまっている」と悟る。死ぬ瞬間は常に見逃されてしまうのである。
もう一つは最後の呼吸と湯に浸かって思わず漏れる嘆声の相似について。
人が息を引き取るときの様子については第1章でも触れたが、それなりにバラエティーがある。彼の場合、意識はほぼ失われていたが、最後に「あー」と溜息にも似た長い息を吐き出して亡くなった。その「あー」が決して苦しげではなかった。ではどんな具合の息であったのか。
温泉に肩まで浸かって思わず口にした「あー(いい湯だなあ)」、それとそっくりに聞こえたのである。そしてわたしは、あの世というものがあったとしたら、もしかするとそれは温泉みたいなものかもしれないと想像した。死んだ者は皆、巨大な温泉に浸かっている。薄明の湯であり、死者は湯でのぼせたりはしない。永遠に、まさに極楽の湯で気持ちよく過ごすのである。したがって死の瞬間というのは、ちょうど浴槽を跨ぎ越えて湯の中に入る瞬間となる。馬鹿げた空想だけれど、たった今亡くなった人があの世で温泉に浸かっていると思うと、自分としても気が楽になる。いずれ自分も極楽湯に入るのかと思うと嬉しくなってくるではないか。
感動的な文章ではないだろうか。湯に浸かって「あー極楽極楽」みたいなテンプレ反応、創作の世界でよくあるし。意外と的を射てるのかもしれない。
上で引用した死は穏やかなもの。創作ではもっと激しい死が描かれることもある。丹羽文雄の「彼岸前」は娘の墓前で心中する老夫婦の話。毒を呷るまでは「私と一緒に死んでくれてありがとう」「お伴させていただきます」なんてしんみりやりとりしてたのに、いざ実行してみれば毒薬の激痛にのたうち回り、縛りあった互いの体を押しのけようともがきながら死んでいく。この死について著者は「もはやホラーそのもの」と評している。
悶え苦しむ妻にとって、「あの世」がどんな場所なのかなど、もはやどうでもよくなっていたに違いない。さっさとこの激痛から、苦悶から逃れさせてくれればどんな世界でも構わないからそこへ逃げ込みたいとひたすら願っただろう。
「彼岸前」に似た話としてダヌンツィオの『死の勝利』を思い出した。主人公の青年は人妻と不倫している。不倫関係は二年を経過しており、彼は彼女の性格に飽き飽きしているもののセックスが最高なので別れられないでいる。別荘で女と二人だけで暮らし、彼女のすべてを所有し、誰にも渡したくないと独占欲を募らせるうち、ワーグナーの楽曲に影響されて心中を夢想するようになる。トリスタンとイゾルデのような甘い死を死にたい。退廃の極みのような願望は女には通じない。トリスタンとイゾルデのように死にたいと思わないか、と主人公がカマをかけると、彼女は「この世ではそんなふうには死ねないものよ」と至極現実的に返答する。主人公は同意を得るのを諦めて無理心中を決意する。酒に酔った女を言葉巧みに外へ連れ出し、断崖から道連れにして飛び降りようとする。月明かりの下、女は「人殺し!」と叫びながら必死で抵抗するが叶わず、二人はもつれ合ったまま転落する。それは主人公が夢見たトリスタンとイゾルデのような甘美さからは程遠い、「仇どうしの取っ組み合いのように凶暴な死」だった。
…内容を書いてみるとそれほど似てはいないか。自死は想像と実際では甚だしい乖離があるって点が通じてるくらいで。
本書には死後の世界についての話も出てくる。著者が理想とするあの世は、広重の描いた「東都名所高輪廿六夜待遊興之図」のような世界だという。お月見に繰り出す大勢の喧騒の世界。この世界に入り込んで屋台の串団子を頬張りたいと。お堅い宗教が描くような平和で清潔で健全で退屈な天国よりよほど居心地がよさそうではある。でも自分は死んだら無しかないと思っているので死後の世界にはあまりそそられない。せいぜい「明るい無」だったらいいな、と思うくらいだ。
自分はどんなふうに死にたいだろう。苦しみながら死ぬのは嫌ですね。俺は痛みに弱いので痛いのも嫌だ。健康に長生きして、眠るように死にたい。一人だと不安だから死の間際に気心の知れた女性が寄り添っていてくれたら理想的だ。20代30代の女性に、なんて贅沢は言いません。その頃は70歳を過ぎてるだろうから40代50代でも十分年下の若い女性だ。その人に、ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』のヒロインのように、「怖がらなくてもいいのよ、怖がらなくてもいいのよ」と声をかけてもらいながら死にたい。
…が、現実には独居で孤独死、腐乱死体で発見の方が可能性が高い気がする。それに誰だって嫌だよね、死にゆくジジイを慰めながら死ぬのを見届ける、なんて役回りは。いやそもそも俺みたいな人間が健康に70代まで生きられたらそれだけで僥倖だろう。5年前、冬の富士山から滑落して亡くなった生主は当時47歳でステージ4の直腸癌を患っていたという。今の俺がその年齢、両親はともに癌治療中、他人事と思えない。俺もいつ病気になるか知れたもんじゃない。この世は運だ。運だけが頼りだ。
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