不完全な世界、不完全な人生を生きる助けとしてのメランコリーのススメ。
本書では肝心のメランコリーをこれと明確に定義していない。自分は「前向きな悲観主義」と了解した。楽観的ではない、さりとて世の中や人生に失望してもいない、というスタンス。
メランコリーな人は内向的で感受性が強い。家にいるのが大好き。静寂、穏やかな日常を好む。花も好き。朗らかさを求められたりパーティーに出るのは苦手。
なんだ俺のことか、花の他に鳥や星も好きだぞ…と思うがこんなの世の中の半分くらいの人はそうじゃないのか? さすがに中年にもなって自分を「感受性が強い」と思うのには気恥ずかしさがある。
全部で35章。中でも向精神薬、天文学、歴史、50歳、園芸についての章がよかった。生きるのが苦しくなったら宇宙や歴史に思いを馳せて無限の広さや滅亡の繰り返しと我が身を比較すれば問題が些細に思えて楽になれるかもしれない。地球には生物の大量絶滅が5回あった(人類による環境破壊により現在が6回目の大量絶滅期とも言われる)。宇宙には400億の惑星系がある。地球のほぼすべての生物は何億年後かに絶滅する。太陽は何十億年後かに寿命を迎えて地球を飲み込む。地上ではローマ帝国をはじめとする多くの繁栄した国家が滅亡してきた。
悲しみに対して向精神薬をすぐに処方するような文化では、メランコリーの必要性が見落とされているかもしれない。メランコリーな人に必要なのは、その苦しみの「解決策」というよりも、話をいろいろ聞いてもらえる機会なのだ。聞き手は、思いやりがあり、決めつけず、自身も心にちょっと傷を負っているような人がいい。メランコリーな人が望んでいるのは、苦しみがごく普通のものとされること、つまり、ともに悲しむ仲間こそがもっとも必要な「解決策」なのだ。向精神薬は、悲しい気分の陰に潜んでいる孤独感と向き合う機会をメランコリーな人から奪ってしまう。
「向精神薬とメランコリー」
うまくいくことの少なさを嘆き悲しむわたしたちにとって一番の慰めは、恒星が安定している状態の平均寿命はたかだか百億年であり、わたしたちの太陽はすでにその半分近くを燃焼してきたことを思って自分自身を励ますことだ。いま中年期にある太陽は、やがて光度を増していき、地球の海という海を蒸発させる。その後、水素を使い果たして赤色巨星となり、膨張しつづけて火星にまで達する。当然、地球全体が、いまわたしたちをこんなにいら立たせているすべての人々が、すべてのものごとが、すっかり飲み込まれてしまう。
「天文学とメランコリー」
メランコリーな人にはちゃんとわかっている。最高の文明、もっとも賢明な文明、もっともふさわしい文明が、必ず勝つとは限らないことを。勝つのはたいてい、殺戮、ルール破り、侵略ばかりしていて──(略)。勝者によって語られる歴史の陰に、はるかに悲しい事実が見えてくる。それは、立派であっても敗れることはある、ということだ。また、願わくば、名誉ある敗北というものが実際にありうることにも気づくかもしれない。それは、成功をはるかに上回る美徳の数々をあきらかに示している敗北だ。
「歴史とメランコリー』
五十歳のわたしたちは、死へと続く長い滑り台のてっぺんにいる。あと数年はしゃんとしていられるけど、そのうちに背中がこわばり、膝が曲がり(もうすでに変な音がしている)、靴下が履きづらくなるだろう。だからといって、こんなことってあるかと文句を言ったり、しかるべきところへ通報したりするわけにはいかない。だれにでも起きることだ。生まれてくるときにサインした契約書にちゃんと書いてある。だから、こんなのひどい仕打ちだ、間違いだ、と思いたくもなるけど、そうじゃない。
唯一逃れる方法は、あきらめの表情を軽く浮かべて、ブラックジョークに変えることだ。いまさら大きくは変われないけど、なるべく堂々として月並みでいる、謙虚さを取り戻し、もうお呼びじゃないさまざまなシーンから退場する、といったことならできるようになる。わたしたちは、この年齢にもっともふさわしい雰囲気に落ち着くべきなのだ。土星の徴の下、自我を手放した、穏やかなメランコリーの精神で生きていけるようになるべきなのだ。
「五十歳とメランコリー」
メランコリーな人は、人間が──だれよりもまず自分自身が──救いがたいことを知っている。完全な純潔さや汚れなき幸せという夢をあきらめている。この世界が、ほとんどの場合、恐ろしくてどうしようもないほど残酷なのを知っている。心を占めるさまざまな苦しみがまだ当分は続くことを知っている。それでもなお、絶望してしまわないよう必死にがんばっている。思いやり、アート、家族に、引き続き深い関心を持ちつづけている──ときには園芸でとても穏やかな午後を過ごすこともある。心身が弱っているときは、メランコリーな状態が結局は唯一理にかなっている。望みを抱き、愛を試み、名声を誇りたくなり、失望し、やけになり、終わりにすることを考え──それでもなんとか歩みつづけようと決心した末にたどりつく境地がメランコリーなのだ。苦しみに対する最善の心構え、そして、希望や楽しさを残しているなにかへと疲弊した心を向かわせるもっとも賢明な態度、そうしたものをうまくとらえたことばがメランコリーなのである。
「園芸とメランコリー」
宇宙や歴史といった広い視野を持つと同時に、目の前のものごとに集中する小さい視野も持つことで今ある苦しみや悲しみは一時的にかもしれないが脳裡から去る。それを繰り返し、苦しみや悲しみと直接ぶつからず、誤魔化したり紛らせたりしてからめ手で対処しているうちに問題そのものが消えてしまったり、いつか些細になってしまう。俺なんかもある程度世の中や他人に触れていくうちに自然とそんな処世術を身につけていたように思う。職場に顔も見たくねえ声も聞きたくねえ奴がいても相手するのをのらりくらり避けているうちにどちらかが異動になって二度と会わずに済んだりとか。健康やお金の問題は誤魔化しようがないので対峙するしかないけれど、それ以外の問題は大概時間を稼げばいずれ解決する方向に着地するように思う。すぐに結果を出そうと短気を起こさないことが肝心。
本書を読んだのと無関係に、最近YouTubeで宇宙関連の動画を見るのにハマっている。引き込まれてついつい見てしまう。太陽の周りを公転する惑星軌道の美しさ。よくこれをデザインしたなあ、と神様だか自然法則だか(俺にとっては両者に大差ない)に感心してしまう。そして何もかもがいずれ消え去る、死に絶える、と想像すると不思議と心が安らぐ。他人に寛容になれる気がする。
何もかもどうでもいいことばかり、だからこそしっかりやるべきなのかもな、どうせ消えてしまうんだから、と逆説的に前向きな気持ちにもなれる。宇宙ヤバイ。
邦訳された著者の単著はすべて読んでいる。どれも面白く刺激的だけれども中でも下の2冊がよかった記憶がある(集英社から出ているのは翻訳文がちょっと読みづらい)。あとこの人の本は基本的に知的で生活に余裕ある人向けに書かれている。貧困や低賃金労働や非モテとメランコリーの関係は一切述べられない。一方で性交に関する章は二つもある。
紅葉するのも桜が咲くのも地球が回っているから。
hayasinonakanozou.hatenablog.com
小人閑居して不善をなす。人生にはプロジェクトが必要。
hayasinonakanozou.hatenablog.com
死を想うことで生まれる寛容さについてのエッセイ。同著者の『選ばれた女』はプルーストやフォークナーに匹敵するような超弩級の恋愛小説だった。
hayasinonakanozou.hatenablog.com