ブログを書く、あるいは「真実のなかで生きる」

うろ覚えだがギッシング『ヘンリ・ライクロフトの私記』に、散歩の途中で見かける花一つひとつを名指しできるようになりたい、という一節がある(あったはず)。それを読んだとき、いいなあ、と思った。精神的な豊かさを感じた。俺も、花だけでなく木や鳥や星も名指しできるようになりてえなあ。そうなったら世界の解像度が上がって毎日が楽しいだろうなあ。そう思った。

でも今の被雇用賃金労働者生活をしているかぎり本腰入れてそれを学ぶ時間と心の余裕はないし、さりとてリタイアできるだけの資産もない。

…と、連休中に泊まったホテルの露天風呂から夜空を見上げながら考えていた、のを思い出した。

 

長い休暇が終わり火曜日からまた労働のある平常に戻っている。

長期休暇明けに職場で交わされる「どこか行った?」からの雑談。

問わず語りに休暇の過ごし方を話す人もいる。

独身中年の俺は、何をして過ごしたかなんてまず訊かれない。訊いたところで面白くなさそうとか、そもそも興味がない「どうでもいい存在」と思われているのだろう。いるけどいない、透明人間。

 

俺の今年のGWは近年なかったほど充実していた。だからといってそれを現実生活で吹聴したりしない。

このブログに記録してある。それで十分。

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

普段ブログに書いているようなことを俺は職場では口にしない。

家族にもあまりしない。

友人がいないので友人に話すこと自体がない。

交際している女性が唯一の友人みたいな存在でもあるので彼女に対してだけ近いことを話してはいる。

 

なぜ話さないのか。

まず、俺自身の遠慮がデカめにある。誰が陰気そうな実家暮らしメガネ独身中年の生活に興味あるよ、でしゃばるな、見苦しいぞ、という遠慮からしゃしゃり出ないのが一つ。

もう一つは、本当のことは人に話さず自分がわかっていればそれで十分だろ、という一種の悟り、というか諦念がある。

 

本をよく読む、よく買う、映画館へよく行く、一眼で写真を撮る、資産運用をしている、若い頃数年引きこもっていた、最近フィットボクシングを始めた、こういったこのブログに書いてあることの一切を職場の人たちは誰一人知らない。知っているのは10年以上交際している女の人くらいだがそれも全部ではない。彼女は読書にも映画にも興味がなく、「いつも変な本を読んでる」とか「怖くて暗い映画ばかり見てる」とかの漠然とした(そして誤った)印象を俺に対して持っている。

 

変な話だが、俺という人間の内面については、毎日何時間も一緒に過ごしている職場の人たちより、会ったことがなくてもこのブログを読んでくれた人の方がずっとよくわかるんじゃないか、と思ってしまう。

 

本当のことってなかなか言いづらい。そして大概危険だ。言えば自分の評判を悪くしてしまったり、誰かを傷つけてしまったりする。一番面白い手紙とは書かれながらも相手への遠慮から投函されなかった手紙だ、と書いた作家がいたが、そういうこと。

 

俺にとってインターネットの原体験は匿名掲示板で素性を隠してのコミュニケーションだった。匿名だからこそ本音が言える、書ける。匿名掲示板には曖昧性もあった。文字だけのコミュニケーションで素性がわからない、表情や声のトーンも見えない、聞こえない、となると、書いてあることが悪ふざけなのか、本気なのか、読む側が判断するしかない。とんでもなく悪趣味なユーモアかもしれないが、もしかしたらガチの狂気かもしれない。そういういかがわしさが俺にはたまらなく魅力的に思えた。2000年代はネットに入り浸っていた。

 

誰でも好きなことが書けるって、とても民主的に思えた。

 

日常でふと思ったけど人に話したら嗤われそうなこと、世間の良識に沿わないこと、あるいは逆撫ですること、さまざまな理由から言いたくても言えないこと、そういうことがあるのなら、リアルで言わずにネットに書けばいい。いつしかそう思うようになった。

 

誰かに読まれれば嬉しいけれど、読まれなくたっていいじゃん。

書くことでもやもやがスッキリすること、あるじゃん。

それで見返りは十分じゃん。

 

20年くらい前、今とは全然違う内容のブログをBIGLOBEで始めた。当時たくさんあったブログサービスからBIGLOBEを選んだのは買ったPCがNEC製だったからに過ぎない。BIGLOBEブログはサービスを終了したため今はもうない。その時のブログはSeesaaブログに移転したのち非公開設定にした。書くのに飽きたのでしばらくは何も書かなくなった。何年か経ってからまた書きたくなり今度はFC2ブログで書き始めた。それから人が多そうなはてなに移ってきた(だからこのブログの最初のへんの記事はFC2からのエクスポート記事になっている)。

 

ブログを書くようになってから徐々にリアルで自分の話を人にしなくなっていった。

話しすぎて(旅行の話なんかが顕著だろうが)身バレを警戒するようになった。これはインターネットに「後から」触れた世代特有の感覚かもしれない。生まれたときからインターネットがある若い人たちにとってはネットはリアルと相反する場所ではなく地続きの場所。顔や住所を晒すのに抵抗が薄かったり、SNSでつながるのは赤の他人ではなく顔見知りがメインだったり、そういう世代と、晒しや特定は怖いものと刷り込まれた旧世代の俺とではネットへの対し方が根本から異なるだろう。

 

身バレしたくないのである。「これ書いてるの、お前だろ」、この言葉以上に自由を脅かす恐ろしい言葉があるだろうか。自分が誰か、人に知られていないからこそ、俺は自由に書きたいことが書ける。

 

 サビナにとって、真実のなかで生き、自分にも他人にも嘘をつかないことは、ただ観客のいないところで生きるという条件でしか実行できない。私たちは自分の行為の証人がいるとなると、ただちに、好むと好まざるとにかかわらず、見物している者たちの目に順応してしまい、私たちのすることなすことすべてがもはや真実でなくなってしまう。観客がいること、観客のことを考えること、それは嘘のなかで生きるということなのだ。サビナは著者がみずからの内的な生活、そして友人たちの内的な生活を包み隠さずにさらけ出す文学を軽蔑する。みずからの内的な生活を失う者はすべてを失ったのだと思う。そして、進んでみずからの内的な生活を断念する者は怪物なのだと。だからサビナは、自分の愛を隠さねばならないことに苦しんだりはしない。逆に、彼女にとってはそれだけが「真実のなかで」生きることなのである。

 

ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』 

 

 

 デカルトの生涯には不明の部分がすくなくない。みずから「仮面をつけた哲学者」と名乗り、「ヨク隠レシモノハヨク生キシナリ」を生活信条としていた彼は、二十三回に亘って転々と住居を替え、保護者や軍職も何度も変えて、まるで何者かの身元証明請求から逃れるように、生活の細部を容易に打ち明けない姿勢を執り続けている。著作や公職活動が明らかにしている彼の貌は、「仮面」とはいわぬまでも一面にすぎず、水面下には隠された厖大な深部が澱んでいる。

 

種村季弘「少女人形フランシーヌ」

 

 

誰だって人の間で生きている以上、仮面をつけて自分を偽ったり演じたりして生きている。

その仮面を外して本当の自分に返る機会が、人によっては家族との憩いだったり、友人との歓談だったり、一人部屋にこもって何かに没頭することだったりするのだろう。

俺にとってはブログを書くことがそれに該当する*1

 

 

 

 

 

 

*1:といいつつこのブログにも若干の嘘が混ぜてある