他人との近過ぎる距離が不幸の源である──鶴見済『人間関係を半分降りる』を読んだ

 

 

冒頭に「人間の悩みはすべて対人関係の悩み」という心理学者アドラーの言葉が引かれている。さすがにすべてではないだろう、金銭や健康の悩みも中にはあるだろう。でも世の中の人の悩みの大半はそうかもしれない、とは体感として思う。中井久夫の著書には「精神医学は対人関係の学である」との精神科医サリヴァンの言葉が紹介されていた。ことほどさように人間関係は悩みの種なのだ。他者はこちらではコントロール不可能だからいいこと悪いことどちらを招くか予測がつかない。だからこそいいことがあれば嬉しいものだが悪いことがあれば苦痛の源となる。いじめとか無視とか。

 

この本で説かれるメンタリティは、他人に期待するな、他人(とくに嫌いな人)とは距離を置け、他人の思惑に左右されるな、自分は自分と割り切れ、そういう感じのもの。phaさんも同じようなことを述べていた*1

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正しいと思う。著者自身、若い頃から他人との交友が苦痛だった、恐怖だったと述べていて、その体験からの教えなので説得力がある。人間は近過ぎる距離だと相手の欠点がどうしても気になって衝突してしまう、だから距離を置いて適度に付き合う方がいい。

 

今いる場所の他に居場所がないと、そこでの立場がつらくなっても逃げられないから病む。そうならないよう、家庭や学校や職場といった居場所の他にできれば二つサードプレイスがあるといい*2。そうすると仮に一つがだめになってもまだもう一つがある。

家庭にしても家族だけだと閉鎖的になるから定期的に他人を招いたり泊めたりしてオープンにすると風通しがよくなっていい。家庭は家族だけで構成される排他的で内向きな場所。だから人間関係が自然と濃くなる。「日本の殺人事件の半数は、家族の間で起きている」。

 

居場所(サードプレイス)に関しては以前読んだ二冊の本にも同様のことが書いてあった。一冊はひとりものの生存戦略として、もう一冊は自殺せずに済む方法論として、居場所(出場所)の重要性を説いていた。場そのものよりそこでの交友が大事というトーンだったと思う。気が向かなかったり、嫌になったら行かなくて済む、そんな浅い交友でいい。重要なのは家庭や学校や職場といったベースとなる居場所での人間関係に行き詰まった際に逃げ場が別にあること。

 そもそも、逃げられないからこそ地獄になるのだ。何かあったらすぐ離れてしまえる環境で、地獄なんてそう簡単に作れるものではない。

 

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俺もここ数年、サードプレイス作りたいなあ…とは思っている。

趣味的で、ゆるい集まり。読書会とか、みんなで映画見てそのあと飲み屋かなんかで感想を言い合うとか、マウンティングと恋愛絡みのない、幅広い年齢層と性別の集まり。同質性が高まれば高まるほど同調圧力は増すものだから参加者は多様であればあるほど理想的。

 

自分の場合、幸いにして今の職場は人間関係はよくも悪くもないので物足りなさ、寂しさも少しはあるものの仲のいい数人とは食事や飲みに年に何度か行くし、職場の交友としてはちょうどいい薄さ。過去には学校や会社での人間関係に嫌気を覚えたこともあったが。学校なら卒業、職場なら異動や退職など、そこでの所属って結構流動的なものだから、もし今学校なり職場なりで人間関係に悩んでいる人がいたら、今のつらさは永久に続くものではないから早まらなくても大丈夫ですよ、とアドバイスしたい。もっとも、置かれている環境は千差万別だからどうしようもないほど今がつらいなら無理して耐えなくてもいいと思う。病んだり壊れたりするくらいなら逃げた方がいい。

 

大体、職場で友だちなんてできるわけがない。そこにあるのは趣味や気が合うから集まった集団ではなく、生活費を稼ぐという目的で集まった集団なのだから。「会社で近くに座った人は友だちではない。あくまで近くに居合わせた人なのだ」と本書にある。学校のクラスメイトは友達じゃなくてたまたま同じ電車に乗り合わせた人みたいなもの、という話が少し前にはてブで紹介されていたがあれと同じ。

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本書にも友だちなんていなくてもいい、と出てくる。

群れるとどうしても周囲との軋轢を避けるために大なり小なり自分を偽らざるを得なくなる。

それよりも無理せず自分らしくいることの方が大事だ。

そうは言っても他人の存在が必ずしも悪かと言うとそうは言い切れない。他人の視線を意識することでしゃんとする、自分という存在に輪郭が与えられる、というポジティブな面もある。完全に他人からどう見られいるかが気にならなくなってしまえば風呂に入らなくても身なりがむさ苦しくても平気になってしまうだろう。ある程度他人の目を意識することは円滑に社会生活を送るために必要ではある。

 

本書のいいところは、基本的に人間は醜いもの、人間関係は鬱陶しいもの、とさんざん述べておきながら、最終的には、でも人には意地悪せず親切に接した方がいいよ、と結論するところ。「人間関係では、人に好意を向ければ好意が返ってくるし、悪意には悪意が返ってくる。だから人に向けるのは好意にしておいたほうがいい」。悪意があるほど世の中は生きづらい場所になる。弱っている人ほどそれに耐えらず犠牲になる。だから世の中を生きやすい場所に少しでも近づけるためにも、自分自身の利得のためにも、マクロとミクロ両方の観点からそうしたほうがいいよと。

本当、そうした方がいいと思う。

 

 

以下は自分の話。

自分も学生時代は何人かいたものの、今は友だちは一人もいない。ほぼずっと生まれ育った地元で暮らしてきて今も実家暮らし。近所には小学校時代の同級生が(自分の家庭を持って)何人も住んでいる(らしい)が交友は一切ない。なくても問題なく生きている。最後に友だち付き合いをしたのはいつだったか。30代前半はたまに会ったりもしたものだが、仕事の休みが合わなかったり、結婚したり、子供ができたりしてだんだん疎遠になり、友だちゼロの生活をもう10年以上送っている。そしてそのことに格別の不満も不足も感じていない。10年以上交際している女性がいるのでその人が友だち的なポジションにおりそれに助けられている面はあると思う(趣味や考え方はあまり合わないが金銭感覚と食い物の好みがわりと近いので関係が続いている)。彼女のほかは同居している老親と職場の同僚、これが俺の人間関係のすべてだ。ちなみにLINE登録している「友だち」は20人もいない。その大半は職場の人で滅多にやりとりはない。

 

俺は子供の頃から一人で過ごすことが好きな人間なので友だちがいなくても苦にしてこなかった(学校で二人一組を作らされるのが苦痛だった)。その子供がそのまま中年になって、今ここにいる。

 

でも最近、居場所が少ない、交友が少ないのは刺激に乏しくて退屈だな、と思うようになってきた。

ブログを書いてるのだって、つながりを求める気持ちがあるからだろう。誰かに自分の声を聞いてほしい、存在を知ってほしいと思うからこうして書いているのだろう。そうでなければわざわざネットに公開しない*3

それでサードプレイス的な集まりに関心を持つようになった。インターネットやるようになって20年以上経つのにオフ会とか一回も行ったことのない、出不精・人見知り・受け身マンなのに。とっかかりになるかはわからないけれど11月に都内である文学フリマに行ってみようかな、と今は思っている。それで何かちょっと変わるかな。

 

 

*1:自分が本書を知ったのもphaさんの紹介文を読んだから

*2:家庭がファーストプレイス、学校や職場がセカンドプレイス

*3:日記はエバーノートに書いている