俺も森で隠遁したい シルヴァン・テッソン『シベリアの森のなかで』を読んだ

 

 

7月、一冊も本を読み終えなかった。職場が異動になり、知らない人たちと知らない業務をやるのに疲労し、仕事から帰ってきても本を読む気力を出すのが難しく。新しい仕事を覚えるのが中年の衰えていく一方の脳にきついのだが、それ以上に知らん人たちとの関係の構築に気を遣い過ぎてしまい疲れる。疲れると読書できない。余裕がないと無理(映画『花束みたいな恋をした』にもそんな描写があった)。まあ半年もすればある程度仕事を覚えられ、人間関係も多少は安定して落ち着くんだろうが、それまでが負荷なのだ。

 

で、休暇に入ったのもあり、ようやく一冊読み終えることができた。本書は、冒険家また作家である著者が文明を離れてシベリア奥地、バイカル湖畔の小屋で過ごした半年間の記録である。現代版『森の生活』と評されている。

 

小屋は標高2000mの山々の裾にある。最寄りの村までは120キロの距離があり冬の気温はマイナス32度まで下がる。長い冬の間、湖は氷で覆われ、夜は吹雪、日は昇ってすぐ沈む。隣人に会うのに歩いて丸一日かかるような孤独な生活。薪を割って暖炉で温まり、魚を釣って食糧にし、山を登ったり、読書したり…というと禁欲的で質素な修行僧のごとき隠遁生活かと想像してしまうが実際は違う。この著者、かなりの酒飲みらしく毎晩のように大量のウォッカを飲んでは酔っ払っている。隣人である森林保護官たちと会えばベロベロになるまで飲み続け、酔いがまだ残っているのに翌朝にはカヤックを何時間も漕いだり山を登ったり、冒険家ってのは命知らずなものだと感心した。

 

他人との競争や、社会からの圧力や、人間関係の煩わしさのない暮らし。

周囲には畏怖の念を抱かせるほどの雄大な自然しかない。

その自由、その解放感にちょっと憧れる。しかしもしやってみれば退屈や苦痛を感じてすぐ音を上げるに決まっているのだが。そもそも寒いのダメだし。

 

 隠遁は反逆である。小屋を手に入れること、それは監視画面から消えるということだ。隠遁者は姿を消す。彼はもはやインターネット上に記録を残さないし、通話履歴も銀行の取引データも残さない。彼は逆ハッキングを実践し、パワーゲームから降りるのだ。しかも、森に行く必要はまったくない。革命的な禁欲主義は都市環境でも実践できるからだ。消費社会では、都市環境に適応するという選択肢がある。ちょっとした規律があれば十分やっていける。裕福な社会では、まるまると太るのも自由なら、修道士を真似て本のざわめきに囲まれて痩せたままでいるのも自由だ。したがって、禁欲主義者たちは自分のアパルトマンから出ることなく、自らの内なる森に身を寄せているのである。

この引用箇所はいい。わざわざシベリアの奥地まで行かずともそこでするのと同じような隠遁生活を、しようと思えば埼玉県某市でも実践できると言ってくれているようだから。「自らの内なる森」、美しい言葉だ。本と植物に囲まれた部屋は、あるいは「自分ひとりの森」になりうるだろうか。文明の便利さを享受しながら隠遁者のように生きること。それは自分にとって理想の生活だ。情報の洪水に圧倒されて流されたり右往左往したり、人間関係のいちいちに腹を立てたりくよくよ気にしたり。そういうもろもろの鬱陶しさから超然と距離を置いて生きてえ、と思うことがしばしばある。

 

ヴァレリーの小説に出てくるテスト氏がそんなような暮らしを送っている人物だったか。あの人は株で生計を立てていたのだったか。不労所得がふんだんにあれば世間と没交渉な隠遁者として生きていけるだろうが来年からの新NISAでemaxis slim全世界株式を保有した程度じゃどうにもなるまい。

あるいは森鴎外が翻訳した「冬の王」という短編の主人公のような生活は。春から秋まではブルーカラーとして観光地で働き、客が絶える冬の間に自身の本分である学究生活に耽る。あれもひとつの隠遁だろう。

隠遁…というよりは引きこもり(どう違うんだって話だが)文学としてはユイスマンスの『さかしま』という名作もある。

 

それにしても思うのは、昔の偉い修行僧は世の中を捨ててひとり孤独に砂漠や森の中で瞑想に耽ったというが、ある意味自由でもある孤独と、鬱陶しい人間関係や金銭的余裕のない生活に束縛されながら世俗の暮らしを送るのと、一体どっちが禁欲的でどっちが忍耐を要するか、ということだ。もしかしたら砂漠や森の中で一人でやる修行より、世間で生きていくことのほうがよっぽど過酷な修行だったりはしないだろうか。

 

人々が意地悪なのは都会の公園が過密だからではないし、人間を闘争心むき出しのラットに変える金儲けのプレッシャーによって引き起こされたストレスのせいでもなく、雑踏で膨れ上がる対抗意識によって「兄弟同士で憎み合えと命令」されたせいでもない。バイカル地方では、数十キロメートルの湖岸に隔てられ、輝かしい森のなかで暮らしているのに、人間たちはごく普通の巨大都市で暮らすアパートの隣人どうしのようにいがみ合っている。環境が変わっても「兄弟」たちの性格は同じままだ。土地が美しくたってどうにもならない。人間ってやつは変わらないのだ。

本当、人間ってしょうもねえよなあと思わせられる一節。シベリアまで行ってもやっぱりこれじゃあ嫌になるな。人間関係、たしかに喜びを与えてくれるときもあるけれど、基本的には煩わしいもの。俺は他人に不快な思いをさせられず、他人に不快な思いもさせない暮らしをしたいんだが。あとは金と健康に不安のない暮らし。それがストレスフリーってもんだろう。

 今日はこの地球上の生き物を何一つ傷つけなかった。傷つけないこと。奇妙なことに砂漠の隠者たちは自分たちが隠遁した理由を説明する際に、こうした細やかな気配りについては持ち出さなかった。聖パコミウスや聖大アントニオス、ブチリエ・ド・ランセは、俗世への憎しみ、悪魔との戦い、内面の痛み、純粋さへの渇望、天上の楽園に到達したいとはやる気持ちに言及したけれど、誰も傷つけずに暮らすという考えは表明しなかった。傷つけないこと。北杉岬の小屋で一日を過ごした後では、鏡に映る自分を見ながら自分自身にそう言い聞かせることができるんだ。

俺も俺の森を作りたい。そしてそこに隠遁したい。

 

 

 

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森の中での小屋暮らしの話。

 

 

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ちくま学芸文庫の『森の生活』、買ったけどまだ読んでない。

 

 

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「自分ひとりの森」の中で寝そべりてえ。