映画『ルックバック』を見た

 

原作をアニメーションで忠実に再現しつつ原作では描かれていなかった細部が丁寧に補完されていた。作業中の貧乏揺すり、アシスタントの姿、当日の編集者との電話でのやりとりなど。アニメならではの動きがもっとも表現されていたのはスキップのシーン。この映画のベストシーンだと思う。

 

今まで漫画原作のアニメなんていくらでも見てきたのに、世界に色が付き、キャラが動いて声を出し、音楽が流れる。それがこんなにも作品世界を豊かにするのか、それによってこんなにも解像度が増すのか、と驚いた。映画館で見たから余計そう感じたのもかもしれない。

『ルックバック』の世界ってこういうふうだったんだ。

こう言ったらアレかもしれないが劇場版こそが完全版では? とすら思ってしまった。

 

 

原作を読んだときは、残酷な世界で創作者にできる抵抗は己の仕事を続けることである、そう解釈した。

でも今回劇場で見たらちょっと印象が変わって、ああこれは他者との交流や承認が人に生きる意味を与える話なんだな、という考えも上のに加わった。

 

自分より絵が上手い生徒はいないと思っていた藤野は京本の絵を見て力量の差を思い知る。4年生から6年生の途中まで絵の勉強をしてさらに上手くなるものの結局京本には敵わない。挫折感。嫌気が差して絵を放棄する。しかし、自分より上だと思っていた京本から「漫画の天才」と絶賛されると再び描き始める。京本からの承認が藤野にとっての生きる意味になったのだ。京本もまた、藤野から部屋の外に連れ出されたことが「もっと絵が上手くなりたい」という生きる意味を得るきっかけになる。

 

二人とも、部屋にこもって一人で描いていただけではそこで終わってしまっていたかもしれない。出会い、二人で描いたからこそ世界を広げることが可能になった*1。自分は漫画の天才だ、と自分に向かって言ってみても虚しいだけだろう。でも他者からそう言われたなら同じ言葉でも意味は全然変わってくる。他者からの承認が人に生きる意味を与える。世界の中での居場所を与える。

 

承認とは天才だと褒められることではない。天才でない大多数の凡人にはそんなことは人生で滅多に起きない(子供時代ならいざ知らず大人になればなおさら)。そんな大層なレベルではなく、たとえば「おはよう」「おつかれさま」「ありがとう」「おやすみ」、そんな挨拶をかけてもらうだけでも十分に承認たりうる。それは他者が自分を見てくれている、気にかけてくれている、というメッセージだ。

 

岩田靖夫『よく生きる』にこうある。

私は学生たちによく冗談で言うんですけれども、授業の間にですね、「人間はいったい何のために生きているんだ」。毎日学校へやってきて、友達に「こんにちは」って言うために生きているんだ、というのが私の答えです。そう、本当にそうなんです。「こんにちは」、「おはようございます」。で、うちに帰ってお父さんやお母さんに「おやすみなさい」って言うために生きている。それが人間が生きている意味です。挨拶することがうれしくて生きているのです。私たちは。

 

毎朝目が覚めたら親子で「おはよう」と挨拶する。それから学校に来て、友だちに「こんにちは」と挨拶する。この「こんにちは」という挨拶は、自分の善意を他者に送っていることです。これが人間の最高の喜びです。ほとんど唯一の喜びです。これが、人間が生きているということです。人が自分に心を開いてくれるのか。それとも、姿を見たら、見えなかったふりをして横道にそれて行ってしまうのか。これが心を開いてくれない姿です。人間が最高に傷つく姿です。しかし、思ってもみなかったところで、突然、背後から、「やあ」なんて声を掛けられたらすごく嬉しいわけです。で、どうしたら人は心を開いてくれるのでしょうか。人の心というのは、外から、力でこじ開けることは絶対に出来ません。

 

一方で襲撃者の方はどうだろう。彼に挨拶をしてくれる人はいたのだろうか。ネットにアップしていたらしい絵を褒めてくれる人はいたのだろうか。いたのだったら、他者と健全に交流できていたら、あんなことはしなかったのではないか。このシーンは2019年に起きた事件を元にしていると思われる。この事件の犯人もまた他者との交流に乏しい孤独な人生を送っていた。

 

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京本を失った藤野は自分を責める。だが京本に生きる意味を与えたのもまた藤野だったのだ。仮にそのせいで不幸が起きたとしてもそれは個人の責任が問われるほど単純な話ではないだろう。もっと複雑な、運命の糸が絡まり合った末の出来事だ。でも藤野は自分の中の罪悪感を消せない。じゃあそれを消すにはどうしたらいい? いや、消すことなんて生涯無理かもしれない。その罪悪感を抱えたまま、描き続けるしかない。なぜなら藤野は創作者だから(「このつづきは12巻で!」)。

 

漫画を描くのは楽しくないし、メンドくさいだけだし、超地味だし、描いても何も役に立たない。漫画なんて描くもんじゃない。

それなのに藤野は描いている。

「じゃあ藤野ちゃんはなんで描いてるの?」

フラッシュバックする京本の声。その笑顔。描いているのは、あの笑顔のためだったんじゃないのか。誰かを喜ばせたい、楽しんでほしい、幸せにしたい、そんな大それた、神様にしか叶えられないような願いを、罰当たりにも叶えたいと望んでしまった。

だから藤野は、創作者という神になったのではなかったか。

 

 

 

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*1:藤野と京本で藤本だったのか、と映画を見てようやく気づく迂闊さ