祈りとしての映画『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』

 

戦後ドイツの詩人パウル・ツェラン研究の第一人者である飯吉光夫は、詩人のもっとも有名な「死のフーガ」という詩が、ナチスによるユダヤ強制収容所を連想させることに触れてこう述べている。「一篇の詩と、その詩のなかに直接は言及されていない歴史的事実とを結びつけて読む行為は、実は、詩を読む行為のルール違反ではあるまいか?(飯吉光夫「パウル・ツェラン ことばの光跡」)」もっとも、これは読者の問題というより作者の制作意図の問題と付言しているのだが。『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の映画を見ている最中、その言葉をふと思い出したのは、自分がこの映画を2019年のあの事件と結び付けてしまうのをどうしても止せなかったからだ。

 

昨年公開された外伝「永遠と自動手記人形」が、自分が『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』という作品を見た最初だった。テレビアニメ版は見ていなかった。さすがに何も知らないのでは理解も楽しめもしないだろうと思い、外伝を見に行く前にWikipediaを軽く読むことはした。スルーどころか上映されると認識すらしていなかったのに外伝を見に行く気になったのは、京都アニメーションへの敬意というか、応援というか、と言っても自分は「ハルヒ」と「日常」くらいしか通して見たことはないのだけれど、行かないより行ったほうがいいに決まっていると思って見に行き、素晴らしい映画だったことで、あの事件と新型コロナの二つの原因により公開が延期されていた劇場版への期待が高まった。その間、テレビアニメ版も原作にも全く触れずにいたのは、自分の怠惰というほかない。この記事を書いている今日9/23にネトフリを契約して、さっきようやく第一話を見た。劇場版でもあった手紙が風に運ばれる描写はすでに第一話にあったのか、と今更ながらの発見をした。主人公のエヴァーガーデン姓の由縁も知った。

 

前置きが長くなったが以下、劇場版の感想。

この劇場版の脚本が原作に基づいているのか、オリジナルなのかどうかは知らない。だからまったくの誤読である可能性が高い。人は見たいと思ったものしか見ない、見られない。自分はこの映画を、事件で亡くなられたスタッフの方々へ捧げられた祈りの映画と見た。

 

筋は大きく分けて三つある。一つは、重い病気で瀕死の少年からの代筆依頼。二つ目は、死んだと思われていたギルベルト少佐との再会。そして三つ目は、すでに未来となった地点からヴァイオレットの足跡を辿り直すデイジーの物語。

一つ目の少年の物語で、ヴァイオレットは少年の心を見透かしたように代筆する。一方で、すでに冒頭のデイジーの父親の台詞(昔はドールという仕事があった云々)や、アイリスやカトレアによる電話がじき発達して代筆業は廃れるだろうという発言から、ヴァイオレットの素晴らしい代筆も、数十年後にはもはや存在しなくなっていることが示唆されている。新しいテクノロジーの台頭。しかし危篤状態に陥り、もはや口述が不可能になった少年と彼の友人を結んだのは、手紙ではなくて電話だった。「あのいけ好かない機械もやるわね」というアイリスの台詞は、テクノロジーの敵視から肯定へと彼女の心境の変化を物語る。と同時に、自分はこのシーンに、あの辛い事件も過去として受け止め、その上でなお未来へ進む、という制作側の未来への意志を感じた。少年の亡骸にすがりつく母親の背中をドア越しに見せるシーンには、ベルイマン映画のような悲痛さがあった。

二つ目のギルベルトとの再会。死んだと思っていた人との再会。もう一度会えるなら地の果てまで行くことも辞さないし、雨のなか戸口に立ち続けることだって何でもない。ギルベルトに変わって彼の母親の墓に花を供えていたシーンや、「忘れることはできない」と彼女が答えるシーンにも暗示を見る。少佐が「先生」として生きていることを子供たちから聞かされたときのヴァイオレットの笑顔。可憐で、切なくて、見ているこちらまで嬉しくなって、涙が出た。この時のホッジンズの「大馬鹿野郎」という罵声に涙声が混じっているのに、二回目の鑑賞で気づいた。

三つ目のデイジーの物語。もはやドールは存在しない時代。ユリス少年より小さい娘が老齢で亡くなった時代ということは劇中の70年後くらいだろうか。島を訪れてもヴァイオレットとギルベルトのその後の消息は判然としない。まるで観客に想像の余地をあえて残すかのように。彼女を記念した、この島だけで販売している切手があるという。そこにはヴァイオレットの肖像が描かれている。この切手はヴァイオレット本人を記念すると同時に、これまで「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」という作品に携わったすべてのスタッフを記念しているかのようだった。時が流れても彼らの仕事はこの映画の中に生きているし、今後も生き続けるのだと。

すべての物語が終わった最後、冒頭に一瞬だけ映った轍が再び映る。カメラは、その道を一歩一歩力強く歩いていくヴァイオレットを背中越しに追い抜き、さらに先を映す。少年の電話や切手と同じように、スタッフたちのこれまでの立派な仕事は受け継がれ、現在そして未来へと続いているという、記念と未来志向の暗示。エンドロールのあとの指切りは、この映画を完成させるという亡くなられたスタッフたちとの約束を果たしたことを表しているシーンと見た。

 

以上、ルール違反的な見方しかできなかった自分による感想あるいは妄想・妄言である。言うまでもなく、この映画の中に直接事件を思わせるような表現や描写は一切ない。すべて自分が勝手にそこに見たものをこうして書いただけのこと。

 

テレビ版をまだ一話しか見ていない自分が言うのはおこがましいが、世界の全てをこれでもかと美しく描くこのアニメの美術は本当に凄い。終盤の、月の光に照らされた波打ち際に立つ二人をスクリーンで見たことを、自分は一生忘れないだろう(ブルーレイ出たら買うしかないだろう)。泣きじゃくるヴァイオレットの演技も凄かった。映画が終わったあと、これスタンディングオベーション起きるんじゃないか、と期待したのだがそれはなかった。ただ、観客が立ち上がって帰るとき、劇場内が優しい雰囲気に包まれていた…ような気がした…。実際、通路で女性と通行を譲り合う一幕があったような。観客が100人くらいいたが、エンドロールが終わるまで誰一人席を立たなかった。

 

時代の流れによって多くのものが変わっていく。しかし決して変わらないものもある。

「あいしてる」がそうなのだろう。

 

 

hayasinonakanozou.hatenablog.com

この記事で外伝の感想を書いている。