映画『ノマドランド』を見た

土曜日昼過ぎの回で観客は30人いたかいないか。『ミナリ』のときも書いたけれども、コロナの影響もあってか、今週公開の新作としてはさびしい。『シン・エヴァンゲリオン』の入場と同じタイミングだったが、そちらの客入りもだいぶ落ち着いた様子だった。

 

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内容については『たまむすび』で町山さんの紹介をあらかじめ聞いていた。高齢の車上生活者たちの過酷な生活。車で各地を放浪して期間労働に従事する彼らをノマドと呼ぶ。年金だけでは生きていけない、しかし就業機会は限られている。Amazonでは彼らのような従業員のために契約期間中は駐車場を開放しているという。経済資本に乏しい人間はその代替として社会関係資本を持たねば野垂れ死ぬしかない。はじめは渋っていた主人公も、結局誘いに応じて同じノマドの集会に参加する。そこでは炊き出しが行われ、物々交換があり、情報の交換もある。印象的だったのは、ライフラインとしての車の強調。パンク対応のため絶対に予備タイヤを積んでおけ、タイヤ交換くらいできないでどうする、安全のためGPSを搭載しておけ、等。それをアドバイスするのが末期がんで余命数か月のノマドであるところに重みがある。タバコやライターを譲ったり、好きな相手でなくても病気で寝込めば看病してやったり、共助の精神なくしては彼らの生活はより困難になる。他人の助力なく生きていけるのはその人が強者だから。弱者であればこそ助け合わねばならない。そんなふうに見えた。

 

アメリカ各地の雄大な自然は日本にはないスケールで圧倒される。アメリカってめちゃくちゃでかい。エンドロールにはネヴァダネブラスカアリゾナ、カリフォルニア、そんな地名が出ていたように思う。どこがどこだか知らないが、国立公園のある荒野の景色がとくによかった。主人公が男に奇妙な形の石を渡され、その穴から風景を覗き見るシーンがこの映画でもっとも印象的だったシーン。森の中で大樹に抱きついたり、全裸になって川に浸かったり、ノマドには物質主義からの解脱、自然との交感、そんな面も強調されていただろうか。『森の生活』の現代版としてのノマドライフ。

 

フィクションではあるが主人公以外は実名で登場していて、インタビュー的な場面もあり、半分フィクション半分ドキュメンタリーのようなちょっと珍しい構成。でも演技に不自然なところはなかった。最後まで退屈せずに見られたのでいい映画だが、惜しいと思った点があって、それはこの映画でもっとも肝心な、主人公がノマドである理由が判然としなかった点。冒頭では炭鉱が閉鎖され、街は消滅し、家の資産価値はゼロになり、仕事が見つからないから各地を転々としながら期間労働に従事していることが匂わされている。しかし、中盤、主人公とは正反対に堅実に暮らしている姉が登場して、主人公は昔から風変わりな子供だった、と語られる。姉の家にせよ、主人公を好いてくれる男の家にせよ、彼女は定住の地を得ようと思えば得られるのに、ノマドであることを選択する。経済的な理由からノマドであることを強いられているのではなく、昔から風変わりだった彼女が好きでやっている、そういうふうに見えてしまう。確かに、若いノマドも自身のことを定住できない質だから、みたいに述懐するシーンがあるが、それだとノマドたちは自由意志でそういう生活を送っている、みたいに観客の目には映らないだろうか。無論そういう人もいるだろうが、中には定住したくてもできずやむを得ずノマドをしている人もいるのではないか。この点について監督自身の見解がいまいちよくわからなかった。ロマンを盛って美化していないか、と思えてしまった。車内でバケツに排泄する生活、なかなか大変な生活だと思う。車中泊できる駐車場ばかりでもないし。姉の家のシーンは、主人公が、彼女と対照的な堅実な生活者たちと対話する唯一のシーンだったのに、軽く不動産について意見を交わすくらいで終わってしまったのは残念。ここで双方の意見の相違を浮き彫りにした方が主人公の独自性やノマドの思想性みたいなものが明確になったはずだから。

 

いい映画だと思うがもっとノマドの厳しい一面も描いてほしかった。排泄シーンは、ケン・ローチ監督の『家族を想うとき』で主人公が配達時間に追われてペットボトルに排尿するシーンの方が切実さがあった。クロエ・ジャオ監督はノマドをロマンチックな感じで描きたかったように見える。雄大な自然の風景とか、マジックアワーの空とか、画が美しくて、ノマドの悲惨さは霞んでしまっていた。それともこれは、「ノマドは悲惨なはずだ」という自分の偏見の表出に過ぎないのか。ラスト近くで、ノマドの指導者が、路上でいつか死者たちにも再会できるだろう、というのはわからなかった。路上で、いつか喪失したものを埋める新しい何かに出会うだろう、というのならわかるが。なんというか、いいんだけど、これじゃない…俺が見たいのは…というのが観賞後の印象。

 

 

で、以下は全然この映画と関係ない話。

この映画、だいぶ空いていたため当然自分の右隣は空席だったのだが、上映中に右後ろの席の女性が、八回くらい自分の右隣の座席を蹴ってきたため度々集中が切れて苛々した。映画館のシートって列で繋がっているから、真後ろのみならず隣の席を蹴られても振動は伝わってくる。そんなに足を組み直すなら(いや、どういう風にして蹴っているのか見てないから足を組んでたのかどうか知らんのだが)足組まないでほしい。金払って、時間使って映画館に来ているのに後ろから蹴られると(一回や二回ならなんとも思わないが、何度も)本当怒鳴りつけたくなる。後ろからの蹴りはいつされるか予想できないから驚くし、繰り返されると身構えてしまって鑑賞が疎かになってしまう。でもこういうのって満席でも何もないときもあれば、がら空きでも蹴られたりビニール袋ずっとガサゴソやられたりとかあって、いわばガチャだから諦めるしかない。二年くらい前、早稲田松竹で後ろから何度も蹴られて、とうとう我慢できなくなり、振り向いて「蹴るのやめてもらえますか」と言ったことがあった。後ろの男はその後も蹴り続けてきた。今思えば自由席だから移動するか、帰るかすればよかった。見ていたのはカーペンター監督の『ゼイリブ』で、面白い映画じゃなかったし。金払って不快に耐えてつまらん映画見て、馬鹿みたい。それで思い出すのが、『メイドインアビス』のレイトショー。50人くらいいたのに観客全員、不気味なほど物音一つ立てず、前の方にいたポップコーン持っている客は無音でポップコーンを食べていた…という奇跡のような体験。起こり得ないことが起こるから奇跡というならあれこそ奇跡の上映回だったと今改めて思う。それともあれは夢だったのか? 『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』も、外伝も劇場版もどちらもとてもマナーがよかった記憶がある。『エヴァ』とか『鬼滅』ほどビッグではない劇場版アニメがマナーいいのかもしれない。話題の邦画とか、マーベル作品とか(マーベル作品見たことないが)、ジブリやディズニーとかは普段映画館に行かない人が来るから荒れがちかもしれない。『ノマドランド』でなぜ蹴られたのかは不明。他人が何考えて行動しているかなんて考えてもわかるはずないので考えるだけ無駄。もらい事故みたいなもの。運が悪かった、それだけ。