映画『ヤクザと家族』と『すばらしき世界』を見た

 

ともに今週鑑賞。最初に結論。『ヤクザと家族』は凡作、『すばらしき世界』は傑作。

 

『ヤクザと家族』、金曜昼の回で20人くらい。1999年から2019年にかけての暴力団を取り巻く環境の変遷が描かれる。この30年で、法律や条例によってヤクザに対する取り締まりは厳しくなった。もはや社会がヤクザの存在を許さない。この映画を見て初めて知ったのだが5年ルールというものがあり、一度暴力団に入った者はたとえ足抜けしたとしても5年間は銀行口座が作れない、部屋を借りられない、子供を保育園に入れられないなど行動の制限があるという。綾野剛演じる主人公は、天涯孤独の身の上だったところを舘ひろし演じる組長に拾われて「家族」となる。組に入るとはそこの組員たちと家族になるということ。社会で真っ当には生きていけない人たちにとっての最後の居場所たりうる場所——「親父」とか「兄貴」とかいう呼称からも窺えるように暴力団にはそういう擬似家族の側面もあったのかもしれない。世の中に自分の居場所がない、人間にとってこれほど辛いことはないから。

 

主人公は組に自分の居場所を見出すだろう。しかし取り巻く環境が厳しくなるにつれ一人また一人と組を去っていき、古くからの友人も抜けてしまう。出所して再会しても相手は喜んでいる一方で迷惑そうでもある。理由を聞けば、「あんたと付き合っていると俺まで反社と言われてしまう」。相手には今や本当の家族があった。それを守りたい。久々に昔の恋人に会って束の間の、本当の家族のような暮らしを送るも、素性が明るみに出、それも壊れる。「あんたさえ現れなければ」。元をただせばヤクザであり、前科者である主人公が周囲の人たちのささやかな幸福を壊していった図になる。このあたりの展開は悲痛であると同時にちょっとロマンチシズムも漂い、正直臭く感じた。というか一回のセックスで子供が出来てその子と昔の恋人が睦まじく暮らしている…という設定自体が、昭和的な使い古された設定でげんなりした(社宅の窓から二人の夕餉を捉えたショットとかわざとらしい。普通はカーテンするだろう)。尾野真千子演じる昔の恋人が、土下座して後ろに下がりながら、主人公に向かって「出て行って下さい」と懇願するシーンは鬼気迫るものが会ってよかったけれど。この映画で自分にとって一番存在感があったのは尾野真千子

 

居場所のなくなった主人公が最後にとった行動は結局殴り込み。それも人を庇って自らが犠牲になるための殴り込み。そこで仇敵だった対立している組の組長と、その組と癒着している刑事をまとめてぶっ殺すという都合のいい展開。だったらもっと早く殺せばよかったのに…と思うとともに、結局暴力でしか物事を解決できないのか、という残念さ。堤防で一服しているところを昔馴染みに刺されて死ぬラストは既視感ありまくりで、今の時代にそれをやる必要があるのか、と呆れた気持ちになった。自分としては、主人公は、たとえ元ヤクザの素性が晒されても更生の道を求めてしぶとく生きていく姿を見たかった。殴り込みは焼肉屋の息子(半グレのチートキャラ)にやらせればいい、彼には親の仇という大義名分があるのだから。主人公が割って入るなら、「俺みたいになりたいか」とか言って息子を諫めるのがすべきことであり、代理で暴力を振るうことではない。これでは主人公は冒頭からラストまで全く成長していないことになる。主人公が周囲の人間を不幸にしていくのは、もしかして彼がヤクザ(あるいは元ヤクザ)だからではなくて、彼が全く成長しない・変わらない人間だからではないだろうか…というのは意地悪に過ぎる見方か。昔気質のヤクザと今時の半グレの対比とか、公務員が元ヤクザと一緒に暮らしたりとか(SNSに噂がたったくらいで公務員をクビにできるのだろうか。それとも非正規なのか。でも非正規ならば社宅には入れないだろう。そもそもヒロインは大学生の時に妊娠しているので、その後の就職活動は難儀しただろうから、なおのこと自分の今の生活を守ることに必死になるはずで、主人公と同棲するなど有り得ないのでは?)、展開上都合がいい、またはテンプレに過ぎる場面、設定が気になり、あまり楽しめなかった。平成にはセダンだった組の車が令和になったらプリウスになっていたのと、高齢ヤクザの密漁シーンはよかった。

 

 

土曜日、『すばらしき世界』鑑賞。30人くらい。予想に反して少ない印象。この映画もまた『ヤクザと家族』の後半で描かれたのと同じく更生がテーマ。

 

この映画、自分が『ヤクザと家族』で不満だった点をすべて解消してくれる、ある意味でアンサーのような映画だった。主人公はカッとなりやすく、暴力ですぐに白黒はっきりつけたがる人物。しかし社会で生きていれば理不尽なことでも我慢してやり過ごすほかなかったり、白黒つけず曖昧にグレーのままだったりすることばかりで、それらにいちいち目くじら立てていればやがて白い目で見られ疎まれるようになる。橋爪功演じる弁護士が言うように、「自由にやらせてくれる、その代わりある日突然椅子がなくなっている」、それが社会、世間というものの厳しさであり怖さである。主人公ははじめのうちそれが理解できない。アパートの住人が夜中に騒げば暴力でねじ伏せて言うことを聞かせようとする。あるいは、チンピラに絡まれているおっさんを助けるために喧嘩をする。話し合う、見過ごす、やり過ごすといった選択肢はない。しかし仁義はあるようで、「他の住人の迷惑になる」「往来を行く人の邪魔になる」等一般人への配慮はする。昔気質のヤクザ。この主人公をこんなにも魅力的にしているのは演じる役所広司のおかげだろう。役所広司以外が演じるなんて考えられない、という気になる。でも、そうやって暴力を振るっていてはまた社会から爪弾きにされ、いずれまた居場所はなくなるだろう。主人公にとって幸いだったのは、彼の身元引受人になってくれた弁護士や、役所の人や、スーパーの店長、そして仲野太賀演じる作家志望の青年らによる支援があったことだ。みなが彼らに可能な範囲で主人公を応援してくれる。社会における居場所とは、人間関係や仕事等、社会とのつながりのことなのだ。主人公が生活保護は施しだといい、自分で稼ぐことにこだわるのは(彼の矜恃もあるのだろうが)社会とのつながり——誰かに必要とされたり感謝されたり——を求めているからだろう。友人と呼ぶほどの親しさはないかもしれないが、気にはかけてくれる、うまくいけばよかったねと祝福してくれお祝いを開いてくれる、そういう支えてくれる人たちがいて、さらにはパートではあるが雇ってくれる職場も見つかった。これこそが更生だろう。自分が『ヤクザと家族』の主人公に見たかった姿が、別の監督による映画で見られたことに不思議な感慨とカタルシスを覚えた。

 

西川美和監督は一流の監督である、と今更ながら自分が感嘆したのは、決して野暮な演出をしない点。主人公と青年が孤児院を訪問した夜、宿の風呂で青年が主人公の背中を流す。流しながら、自分があなたのことを書いて残すからもう極道に戻らないでくれ、と目を潤ませながら言うシーンがある。主人公の表情は映らない。おそらく彼もこの時泣いていただろう。自分の身を案じてくれそれを表明してくれる他人がいる、それは地獄で仏に出会うくらいのありがたいこと、奇跡のようなことだろう。でも、カメラは主人公の表情を映さない。映さないことで観客に想像させたり、余韻を与えたりという効果が生まれている。ここで、主人公の泣き顔がアップになって「ありがとう、ありがとう…」なんて言いながら泣かれたら台無しである。わかりやすいけど。同じような演出は、つい社会の厳しさに耐えられず九州まで会いに行ったヤクザの親分(白竜!)の妻に、主人公が、あんたは極道に戻らず沙婆で生きろ、我慢の連続かもしれないが空は広い、みたいなことを言われた後、再び東京に戻り、就職が決まった晩のシーンでもある。「シャブやったみたいだ」と歓喜して駆けた後(なんつー台詞だよ)、歩道橋から空を見上げると一番星が瞬いている。空が広い、親分の妻が言った通りに。主人公はただ嬉しそうに空を見上げるだけ、何も言わない。ここで、先の台詞を反芻することを言わせるのもまた野暮である。弁護士の妻(梶芽衣子)がラストシーンで、主人公が縫ったバッグを大事そうに抱えたり、そういう説明しすぎない、親切すぎない演出が、これぞ映画という感じで見ていてとても気持ちよかった。台詞で説明するのなら小説でもできる、映画だからこそ、映画にしかできない表現が見たいと自分は思っている。野暮じゃないといえば、この映画に登場する女の子は主人公の娘ではない。西川監督、さすがである。

 

罪の更生、元犯罪者に対する社会のあり方。テーマは決して軽くはないのに、演じる役者陣にいい意味での軽さがあり、明るい気分で最後まで見られる。ソープランドのシーン、短かったけど優しさに溢れていてよかった。アパート前での決闘とか、運転免許試験とか(なぜオートマ限定にしないのか)笑えるシーンもある。『ヤクザと家族』では兄貴だった北村有起哉が本作では公務員になっていたのは面白かった。終盤、主人公がブチ切れそうになる緊迫したシーンがあるが、彼はギリギリのところで耐える。この時の彼の行動には賛否があるかもしれないが、その時その場で答えを出さなくてもいいのだから、ここは主人公の行動を是としたい。「逃げてもいい、逃げた後でまた挑戦すればいい」、そんな台詞もあった。この世界を今すぐただちにすばらしき世界にしなくたっていい。でもいつかそうなればいい。そうすべきではないか。そう、この映画は普通なら「完」と出るべきシーンで初めてタイトルが出る。まるで映画本編はアバンタイトルで、すばらしき世界という本編は映画を見終わった後から始まる、とでも言いたげに。