映画『コーダ あいのうた』を見た

今年最初に見た映画。タイトルは音楽の用語(終尾部)だと思っていた。鑑賞後たまむすびでの町山さんの紹介を聞き、Children of Deaf Adlut/sの略だったと知った。聴覚に不利のある親をもつ聞こえる子供。そういう境遇を指す言葉を知らずに生きてきた鈍感さが恥ずかしくもなった。この町山さんの紹介では、本作がフランス映画『エール!』のアメリカ版リメイクであること、主人公の家族を演じる三人の俳優が皆聴覚障害者であること、母親役のマーリー・マトリンは1986年に『愛は静けさの中に』で当時最年少の21歳でアカデミー主演女優賞を受賞したこと、しかし当時は聴覚障害者の役は少なかったためその後出演機会に恵まれなかったこと、ようやく近年になってアメリカ映画界の状況が改善されつつあることなどを教えられた。

 

聞こえない家族を支える健聴者の主人公には歌の才能があり、それを見出した教師は名門の音大へ進学するよう勧める。しかし通訳である自分がいなくなってしまったら家族は暮らしていけない。人を雇う余裕はない。その葛藤がメインテーマとしてある。テーマがテーマだけにシリアスな映画だろうと思っていたら案に相違してかなりコミカル。冒頭、なんでPG12なのか妙に感じていたが下ネタ連発で納得。前半はユーモラスに、終盤になると前半が嘘のように重くなるのかなと思っていたがそんなこともなく。しっとりとした落ち着きある展開ながら最後まで軽やかさは失われず、爽やかな気分でエンドロールへ。ラストシーンの手話、クールだった。「愛してる」の意味だそう。

 

この映画は障害のある人たちを、特別な、かわいそうな人たちとして描かない。健聴者と同じように、いや、主人公のボーイフレンドの発言から考えるにむしろ健聴者よりもよっぽど幸福に生きている人たちとして描いている。というか障害が人生の幸不幸を決めるのではなくその人がどう生きているかが幸不幸を左右する、というふうに描いている。だからこそのあのコミカルさなのだろう。『愛は静けさの中に』と比較すると随分と明るい。父親がコンドームの装着を手話で表現するシーンに吹き出してしまった。あれは即興の演技だったそう。わからないけれど手話にも言葉や文章のようにその人のオリジナリティが出るものなのだろう。

 

主人公の才能が見出されたことが彼女自身の成長に、また彼女に頼りきりだった家族の成長に繋がっていく。崖から飛び降りるシーンは通過儀礼を意味している。流木につかまりながらのキスはロマンチックにもほどがある。『愛は静けさの中に』にもプールの中で男女が抱擁するいいシーンがあった。同じ水のイメージ。主人公にとって一番の重荷になっているのは母親。内向きだから自意識過剰で、「外の世界を知りなよ」と娘に説教されたり、最後まで彼女の進学に反対したりする。出産のときには聞こえない子供であってくれと願ったという。でもそれは、それだけ健聴者と聴覚障害者との断絶があるから。家族なのに心が通じ合わないかもしれないことが怖かったから。彼女とて若い頃はミスコンだかで健聴者を抑えて優勝したことがある人で今でもお洒落にこだわっている(実際美貌の人だし)。彼女とて逆境をバネに強く生きようとした人なのだ。それほどの人であっても、耳が不自由というハンデは重圧となる。小さい頃から家族の通訳をして、漁師だから朝が早くそのせいで高校で居眠りしている主人公をヤングケアラーと見ることもできる。色々な見方のできる懐の深い映画。

 

家族にとっては可愛い娘、大事な妹なのに彼らは主人公の歌声を聞けない。主人公の歌は一番聞いて欲しい人たちに届かない。そのことの切なさ。聴覚障害者が抱える圧倒的な孤独、外界との断絶を表現するシーンが終盤にある。このシーンで息を呑んだ。彼らの生きている世界はこんなにも過酷なのかと。ここ何年か見た映画で最も圧倒されたシーンかもしれない。この映画は絶対に映画館で見るべき。映画館という音響が整備された環境で見るべき。

 

主人公を演じたエミリア・ジョーンズは素晴らしい。容姿端麗で演技がうまくて歌もうまいとか天は何物を彼女に与えたのか。彼女を指導する教師も個性強くていいキャラだった。犬の真似のシーン、声出して笑った。『セッション』もそうだったが音楽の世界ってめちゃくちゃ体育会系なんだな。最後は根性が物を言う世界。