映画『ドライブ・マイ・カー』を見た

カンヌで脚本賞を獲ったと話題の本作を見る前に、濱口竜介監督の予習のつもりでアマプラで『寝ても覚めても』を視聴したら思いのほか気味の悪いいい映画だった。

寝ても覚めても』はアバンタイトルのいちゃつきにゲッとなるけれど、もう少し我慢して見ているとだんだん不穏さが満ちてくる。終盤は悪夢。でもユーモアにも満ちている。 

 

で、『ドライブ・マイ・カー』である。三時間の長編である。感想としては素晴らしかった。辛い過去、消せない記憶、喪失感や諦念や自罰感情。生きていることは苦しいことの連続だけど、それでもそれらを背負って今日を生きていこう。生き抜こう。そんなメッセージを自分はこの映画から受け取った。

 

チェーホフの戯曲「ワーニャ伯父さん」が重要なモチーフとなる。西島秀俊演じる主人公の俳優・演出家は、広島で開催される演劇祭でこの劇の上演を担当することになる。彼は、「チェーホフは恐ろしい。彼のテキストは演じる者を飲み込んでしまう」と言い、チェーホフのテキストの持つ魔力と格闘することに疲労と恐怖を感じており、今度の演劇祭では主役のワーニャは演じず、演出家としてのみの参加となる。代わりに主役のワーニャを演じることになるのが岡田将生演じる若い俳優。彼は、演出家の妻が脚本を書いたテレビドラマに出演したことがあり、それが縁で彼女と知り合った。彼女に恋をしている様子。この俳優役の岡田将生が素晴らしくハマっていた。一見優等生的な美男子なのに、どうも危険というかヤバそうというか、内に何か凶暴なものを秘めていそうな不気味な男をいい感じに演じていた。こういう役合うなあ。

 

「ワーニャ伯父さん」に出演する俳優たちの国籍は様々。日本人はもちろん、韓国、中国(アメリカ在住だったかな)、ロシア。そして言語も様々。この俳優たちの中で一際輝いていたのが手話の韓国人女優だった。演出家が審査するオーディションの最後に彼女は登場する。演じるのは「ワーニャ伯父さん」のラストシーン。失意に沈むワーニャを手話で慰める(セリフは韓国人コーディネーターが日本語で読み上げる)彼女の演技を見ていたら、不意に涙が出てきた。このシーンの、彼女が演じるソーニャという人物のセリフは哀切極まるもので、労るような傷ついたような表情で、腕の動きを用いて、声以外の方法で言葉を、思いを、一所懸命に相手に伝えようとする姿に、これが映画であることを忘れて、ああなんて美しいのだろうと胸がいっぱいになってしまった。この女優はとても存在感があった。有名な人なのかな。

ワーニャ伯父さん、生きていきましょう。長い長い日々を、長い夜を生き抜きましょう。運命が送ってよこす試練にじっと耐えるの。安らぎはないかもしれないけれど、ほかの人のために、今も、年を取ってからも働きましょう。そしてあたしたちの最期がきたら、おとなしく死んでゆきましょう。そしてあの世で申し上げるの、あたしたちは苦しみましたって、涙を流しましたって、つらかったって。

 

(本作で使用されている浦雅春訳。光文社古典新訳文庫『ワーニャ伯父さん/三人姉妹』)

 

様々な国籍の人たち、様々な言語の俳優たちが共同で「ワーニャ伯父さん」という劇を作り上げる。そのメンバーには上記の女優のようにハンディのある人もいる。ここに自分は、昨今の分断だとか断絶だとか、そういう人と人との対立に対して「否」をつきつける監督の意図を見たように思った。対立ではなく宥和を。これは今年見た岨手由貴子監督の映画『あのこは貴族』にもあったテーマである(こちらではもっと直截にセリフで語られた)。同時に、ラストシーンのソーニャのセリフは、コロナ禍や自然災害をはじめとする災厄に見舞われたとしても、それを乗り越えて生きていこうという呼びかけと受け取った。

 

演出家と妻はかつて幼い娘を亡くした過去を持つ。冒頭、妻はセックスの最中にまるでトランス状態になったかのように饒舌に「降りてきた」物語を語り始める。娘の死という喪失を乗り越えて生きるために、彼女は物語を必要としたのだろう。セックスの最中にのみ物語が「降りてくる」というのは一見奇妙なように見えて意味深だ。セックスによるオーガズムとは生の陶酔、だからこそその最中にのみ、生きるための物語を語ることが可能になる。予告動画でも使われている、「帰ってきたら話がある」という思いつめたような妻の言葉。彼女はあの夜、夫に何を言おうとしたのだろう。予想することはできるけれど何が本当かは彼女が死んでしまった後では永遠に謎のままだ。演出家は若い俳優に、自分は妻を愛していたと言い、彼女もまた彼を愛していると言ってくれたと言う。でもどうしても覗き込めない真っ黒い穴のような場所が彼女にはあった、と続ける。どんなに愛する相手であっても、他人のことは絶対にわからない。せいぜいが信じることしかできない。なぜなら他人だから。人と人との間にあるこの断絶について、語られなかった「物語の続き」を媒介にしながら問答し合う夜の車内のシーンは、岡田将生の鬼気迫る演技と「物語の続き」の怖さが相俟って見応えがあった。プルーストの「逃げ去る女」を連想したりもした。でも他人のことが絶対にわからない、というのは絶望であると同時に希望でもある。最初から何もかもわかるならそこには自分も他人もない。わからないからこそ、人は他人をわかろうと努力する。コミュニケーションする。この、車内で男二人が問答し合うシーンもまた、本作の宥和というテーマと関わっているようでもある。

 

三時間と長いがテンポがいいので見ている最中はあまり時間を感じない。ちょっと稽古のシーンがだれるくらい。何年ぶりかで見ている最中トイレに立ってしまったが…。『寝ても覚めても』のようなユーモアはあまりなかった。ロケーションが素晴らしく、それを撮影した画も見ていて飽きない。舞台は広島。瀬戸内海が目の前に見える宿や、いい塩梅に栄えた地方都市の風景。海辺の国道をひた走る真っ赤なサーブ。小物としてのタバコがいい味を出している。あんなに格好いい画を見ると、影響されて夜のドライブに出かけたくなる。夏の終わり、好きな音楽をかけながら夕暮れの高速を当てもなくひたすら走って、夜になったらSAに入って、ベンチでコーヒーを飲みながら通り過ぎる知らない人たちをぼんやり眺めて…。まあ実際には仕事から帰宅したら即ビールを飲んでしまうから夜のドライブなんて平日にはできないけど。それにしても広島から北海道まで、途中フェリーも利用するとはいえ車で行くのにはびっくりした。無表情なドライバーが最後の最後で見せた笑顔は、彼女もまた悲しみや怒りや自罰感情を乗り越えて生きていくことを示していたのだろう。いい笑顔だった。ラストは観客がそれぞれ好きなように想像できる開かれたエンディング。三浦透子さんが『天気の子』で「グランドエスケープ」を歌っていた人だったとは見終わってから知った。

 

本作は『あのこは貴族』と並んで現時点で今年のベスト。劇場でもう一度見られたら見たい。

 

 チェーホフの戯曲は有名な四篇すべて一度読んでいるけれど「桜の園」以外昔過ぎて内容を覚えていない。「桜の園」が悲劇じゃなく喜劇だと言うのがチェーホフのセンス。短編小説では「大学生」「すぐり」がよかった記憶がある。