押井守『シネマの神は細部に宿る』を読んだ

 

 

押井監督が自身のフェティシズムの観点から映画を語る。まえがきがいい。世に数多ある名作傑作の類いはせいぜいが数度見ればもう繰り返し見ることはない。その一方で、褒められた出来ではないのに特定のシーンを見たいがために幾度も繰り返し見てしまう映画がある。何度も何度も繰り返し同じ映画を見る動機とは何か。それはそこにフェティッシュがあるからだ。

 映画を観て感動することにさしたる労力も情熱も要らない。

 感動したと他人に伝えることも同様だ。

 がしかし、なぜ感動したか、どこに感動したのか、そしてその感動の本質とは何だったのかを語ることには、それなりの労力と情熱を要する。なぜそんな面倒なことをするのかと言えば、それを語ろうとする動機のなかに、紛れもない自分の正体が含まれているからだ。

 フェティッシュを語ることは自分を語ることであり、自分の正体と向き合うことであるのだろう。

 

「フェティッシュを語ることは自分を語ること」。というわけで、以前読んだ『50年50本』とはまた違う、押井監督の趣味全開の内容になっている。そのため押井監督と趣味が近ければ近いほど楽しめるだろう。テーマは「動物」「ファッション」「食事」「モンスター」「携行武器」「兵器」「女優」「男優」。自分は押井監督と映画の趣味が全然違う。押井監督はSFやミリタリーや吸血鬼が好きなようだが、自分が好きなのは猟奇殺人とかのサイコサスペンス、お化けじゃなく人間が怖いホラー、社会問題がテーマのドラマ。なのでまったく趣味が合ってない。にも関わらず楽しく読めるのは押井監督の語り口が面白いから。映画監督だからこその着眼点や、撮影時のエピソードや、ミリタリー関連の蘊蓄。文章だったらきついかもしれないが語りだから重くならず読みやすい。まあ本書後半の銃器や兵器に関する蘊蓄は読み流しているのだが。それにしても文章にするなら調べたり推敲したりできるから蘊蓄も披露できようが、対談という即興的な場面で本書にある蘊蓄を語れるというのは(書籍化するにあたり加筆しているかもだが)並の知識量じゃない。自分なんて押井監督が本書で戦車やヘリについて語るのと同程度に語れるもの、何もない。毎日やってる仕事くらいしか。

 

ロバート・アルトマンの『ロング・グッドバイ』のイントロダクションを『イノセンス』で真似たとか、今の日本映画で脇役に動物がほとんど登場しないのは撮影現場が過酷すぎてドラマを撮るのに精一杯で動物を出すほどの余裕がないからだとか自身の経験から語る押井監督。

「人類は戦争とセックスだけは飽きたことがない」(自分としてはそこにギャンブルも追加したいが)とか、「(ジョン・ウィックは)自分のイヌも守れない間抜け」とか、「戦車は市街戦にこそ映える」とか名言を放つ押井監督。

『戦争の犬たち』の主人公に影響されて冷蔵庫にモデルガンをしまったり、『ブレードランナー』のデッカードが持っていたのと同じ四角いウイスキーグラスを合羽橋で買って愛用したりする押井監督。

以上は一例だが押井監督のキャラがかなり強く出てくるのはフェティッシュについて語る本だからだろう。

 

後半の「携行武器」編および「兵器」編は映画そのものよりテーマについて語りまくる。日本刀については、

押井 そうです。よく日本刀の表現で「ぶった斬る」というのがあるけど、あれは日本刀を分かってない人が使う言葉。日本刀はこする、擦り斬る、擦り上げる、擦り下げる。要するに刃筋を使う。そうじゃないとすぐに刃こぼれしますから。まず、叩いちゃいけない。西洋のスウォードの場合は両手で持って叩き斬る。打撃武器に近くて、日本刀はまるっきり違います。

 

ライフルについては、

 というか、みなさんスコープをつけさえすれば命中率が100パーセントに上がると思ってません? それは大きな勘違いです。スコープをつけたところで、ヘタはヘタ。魔法のアイテムじゃないんです。だいたいスコープをつけて狙うというテクニック自体が大変。映画じゃみんな、スコープを覗き込んでいるけど、あんなことしていたら、撃った瞬間、その反動で目玉が潰れちゃいます。あれは目から離して見るのが正解。たまに着脱したりする描写もあるけど、それもウソ。突然つけて当たるなんてこともありえないし、そもそもスコープはつけっぱなしで使うもの。

 

こんなのほんの一部で、他にもヘリの滞空時間は二時間くらいしかないとか、戦車の底部にある穴は死体から何から洗い流すためにあるとか、そういうリアリズム的観点からシーンの(映画の、ではない)良し悪しをジャッジするから、本当、インタビュアーが言う通り、「おたくじゃないほうがラクですねえ」。可笑しいのは、押井監督が熱く語る「携行武器」や「兵器」テーマの映画のいくつかについて、監督自身が映画としては大したことないとか、「無能な監督が作った文句ナシの駄作」とまで言い切っていて、フェティシズムに全振りしているところ。ただ、ひとつ気になったのが、『フューリー』でブラピが半裸になって体を拭くシーンについて、兵士は身体を清潔に保つのが基本、なぜなら清潔にしておけば怪我をしても化膿しにくいからと説明しているのだが、自分はこの映画を見ていないからアレなんだが、これはインタビュアーの「サービスショット」説が正しいんじゃないかなと。なんかブラピってやたら脱ぐから。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』でも全然必要ないのに半裸になるシーンあったし。

 

押井監督とインタビュアーで同じ映画を見ているのに、一人は細部について熱く語り、一人は「観たのに覚えてない」。二人ともその映画自体は大好きなのにそういう食い違いが起きる。まさにフェティッシュだろう。感度のある人には強烈に記憶に残り、ない人にはスルーされる。また、『50年50本』で「映画を見た経験はその映画について語ることによってはじめて成立する」と言っていた監督が、実際にはないシーンを(先輩とした話として)語るくだりは、まさに映画を通じて自分を語るという意味でとても興味深かった。記憶違い、別の映画との混同、大袈裟に盛る、ないものを付け足す、そういう語り(騙り?)によって映画を見た経験はより人間臭い面白いものになる。『50年50本』でも本書でも、スウェーデン映画『ぼくのエリ』の吸血鬼エリが主人公に性器を見せるシーンが話題になるのだけれど、自分はそんなシーンはなかったと思っていて、見返せば確認できるのだろうが、この食い違いが愉快なのであえて確認せずそのまま放置している。

 

フェティシズムの観点で映画を見る/語るって自分にはなかった。繰り返し見る映画、繰り返し見るシーンはあるけれど、フェティシズムからではなく映像と音による快感を得たくて見ていた。『Fate HF Ⅲ』のライダー対セイバーオルタとか、『秒速五センチメートル』の山崎まさよしが流れるシーンとか、『デスプルーフ inグラインドハウス』の最後のカーチェイスとか、『T2』のハーレー乗ったシュワちゃんがショットガン撃つシーンとか、『8 1/2』のラストのダンスとか、どれも音と映像の相乗効果で気持ち良くなるから見返していた。フェティシズム…俺は何のフェチなんだろう?

 

 

本書のインタビュアー渡辺麻紀さんの登場する以下の対談記事で押井守監督について色々語っている。滑舌が悪いとか捏造癖があるとか独自の造語を使うとかの指摘が可笑しい。「快感原則」が押井監督の造語とは知らなかった。『50年50本』を読んで以降自分も使うようになっていたが、押井監督くらいしか使わない言葉なんだ。なんかありそうな言葉に感じたけど。

business.nikkei.com

 

 

映画本としてはフェティシズム控えめな『50年50本』の方が読みやすく自分の好み。

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『Qアノンの正体/Q:INTO THE STORM』を見た

U-NEXTで。Qアノンと呼ばれる陰謀論アメリカ国内で次第に影響力を増していく過程を追ったドキュメンタリー。全六話。ヘイトと分断を扇動するQとは誰で、その目的は何か、という謎を追うミステリ的要素の引きが強く、一晩で一気見。加齢により物語に熱中する能力が枯れつつあると自覚しているのだが、(自分にとって)面白いものはちゃんと面白く感じられるのだと再確認。ゲースロもかなりのめり込んだし、HBO制作って打率高い。まだ二つしか見てないが。

 

アメリカ議会を襲撃するまでに過激化したQアノンの最終的な出所は8kunという匿名掲示板サイトである。このサイトの由来を遡ると日本の2ちゃんねるになるのは驚いた。2ちゃんねるのサーバーがアメリカにあり、その管理をしていたのがジム・ワトキンスという実業家。彼はその後2ちゃんねるのオーナーとなりサイト名が5ちゃんねるに変更される。アメリカには4チャンネルという2ちゃんねるを元に作られた匿名掲示板サイトがあり、当初Qはそこに書き込みをしていた。やがてQはそこを去り、より自由で過激な発言が可能な8チャンネルという匿名掲示板へ移動する。書かれるのは暗号めいた内容。予言とも称されるその書き込みが一部のマニアに注目され、Qチューバーを名乗る解説者たちが登場してQの言説がネット上で拡散されるようになる。その言説の中身はというと、政界や芸能界の権力者・セレブは幼児を殺してその血を啜り若さを保っている、その秘密のアジトがピザ屋の地下室であるとか、妄言かひどい誹謗中傷としか思えない幼稚な陰謀論。しかし世界は広いのでQの陰謀論を真に受ける人も大勢いる。アメリカのみならずニュージーランドやオーストラリアにまで。

 

Qによる陰謀論や匿名掲示板のヘイトに感化されて現実に銃乱射事件が起きたことで、Qアノンは社会問題にまで発展する。8チャンネルのような無法地帯の匿名掲示板には広告がつかないため、サイト管理人は赤字に喘いでいた。ジム・ワトキンスは管理人から8チャンネルを買い取ってオーナーとなり、息子ロンが新たな管理人となる。Qとその言説が世間の注目を徐々に集めていくとサイト訪問者の数もうなぎ上りに。Qは遂に当時の大統領ドナルド・トランプから言及されるほどに存在感を増す。熱烈な──ほとんど信者と言っていい──Qアノンの支持者たちはアメリカにはびこる悪の全てをトランプが一掃すると信じ、彼が大統領選でバイデンに敗北すれば開票に不正があったと喚き立てる。遂には暴徒化して議会を襲撃する。

 

問題の中心にいるQとは何者で、何を目的に陰謀論を撒き散らし、アメリカ国内の分断を煽るのか。これがこのドキュメンタリーのキモである。監督は三年間に及ぶ取材の中で幾人かに的を絞りながら決定的な証拠を最後まで掴めない。というかQ本人が自ら名乗り出ない限り決定的な証拠にはなり得ない。ただ恐らくは彼と狙いを絞った人物は、最後の最後でさりげなく、まるで口が滑ったかのように自分がQだったと口にする。第六話まで見てきた人間なら、ああやっぱりねという感想を抱くだろう。と同時に、トランプの側近あるいは軍の関係者等々大仰なベールに包まれていた謎の予言者が、言っちゃ悪いが、こんなつまらねえ人物だったという落ちに、ネットde真実なんてあり得ないんだと教えてくれる。非常に示唆的、啓蒙的なドキュメンタリーだと思う。大体、ペドフィリアのサタニストなんてB級ホラー的設定は論外として(今時B級ホラーでもそんな設定ないだろうが)一般人に知られないような陰謀のネットワークが仮に実在したとして、そんな超重要な情報がどうして一般人が簡単にアクセスできるインターネット上に転がっていると思うのか。あり得ないだろ、常識的に考えて。

 

自分が想像するに陰謀論にハマる人というのは、まず現状に不満がある、その不満のはけ口としての敵を求めている、わかりやすい(二項対立的な)世界観を持っているか求めている、そんな感じではないか。カール・シュミットは政治の本質は敵と味方を作ることだと喝破した(仲正昌樹『悪と全体主義』より孫引き)。8チャンネルの最初の管理人は身体障害者で、彼は匿名掲示板を初めて読んだとき、そこに書かれた歯に衣着せぬ差別的な書き込みが人間の本音だったんだと衝撃を受けたと語っていたが、どうだろうか、人間ってそんなふうに割り切れた単純な存在だろうか。朝は差別主義者で夜は博愛主義者になる、人間ってそういう不安定な天秤のような存在ではないだろうか。どちらか一方だけというのは、なくはないだろうがレアケースで、匿名掲示板でヘイトしまくっていても実社会では常識ある社会人やってるとか、そっちの方が大半のケースではないかと思うのだが。そういう複雑で不安定な人間たちが相互に影響し合って複雑で不安定な社会を形成している。ゆえに陰謀論が提示するシンプルな世界なんて空想の中にしか存在しない、と自分は思う。逆に、その人の願望がその人の世界観を形作るのではないか。陰謀論を信奉する人は、世界が陰謀に満ちた場所であって欲しいと望んでいるのかもしれない。

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陰謀論は現代のカルト。ハマる人は家族や友人から次第に孤立し、孤立した者同士が連帯してバイアスを強めていく。カルトにハマる人と学歴の相関ってどうなんだろう。でもオウム真理教には高学歴者が多数在籍していたんだっけか。一つだけ確かなのは、どれだけ漁っても、少なくともYouTubeに真実はないということ。Qチューバーを名乗ってQアノンをばら撒いていた配信者たちって、要するに動画の広告収入で生活している無職の一般人なわけで、そんな彼らが何を知り得るというのか。彼らだって俺たちと同じくらいに何も知っちゃいない。

 

このドキュメンタリーで中心的に描かれる人物が三人いる。8チャンネルを創設したフレドリック・ブレンナン、彼から8チャンネルを引き継ぎオーナーとなった実業家ジム・ワトキンス、彼の息子でサイト管理人のロン。Qを追跡する過程で、ヘイトをばら撒く8チャンネルを閉鎖したいブレンナンVS続けたいワトキンス父子の戦いが展開される。三人とも綺麗事言いながらやってることは保身最優先、やり口は姑息でどっちもどっちの泥試合。最終的には8チャンネルはサイト変更して8kunとなる。ブレンナンは小心な常識人という印象。ロンは典型的なオタクの風貌(チェックシャツ、指抜きグローブ)で言動が幼稚。ショップの美少女フィギュアを逆さにしてスカートの中を覗く場面は気持ち悪かった。マーシャルアーツの稽古と称してしょぼい杭を殴ったり、杵担いで登山したりのイキリっぷりは見ているこっちが恥ずかしい。彼らと比較するとジム・ワトキンスは遥かに存在感がある。この人は怖い。平気ですぐバレる嘘をつくし(政治に関心がないと言っていたのに実はニュース配信をやっていたとか)、どんな時でも決して目が笑わない、取材のたびに風貌を変えたりファッションに凝るのは承認欲求が強い証だろう。最初はユーモアのある豪腕ビジネスマンなのかなと思ったけど、そういうんじゃない、なんというか、これが本物か、という感じがした。言論の自由を担保に匿名掲示板を継続すると言っておきながら、自分を非難するブレンナンの書き込みは名誉毀損だと訴えるんだからダブスタもいいところ。本人は矛盾を自覚しているのか、しているのかもしれないが、いや本物だからしていないかもしれないとも思え、得体が知れない。

 

ジム・ワトキンスは本業の養豚場を売却するほど金に困りながらも匿名掲示板を続けようとする。何でそこまで執着するのか、Qだってなんでそんな金にならない書き込みを続けるのか、見ていてずっと謎だったのだが、最後になって、インターネット上の言説が大統領にまで認知され、人々へ影響力を発揮し、遂には彼らを扇動して暴徒化させるほどにまでになったとき、ワトキンス父子が、Qが欲していたのはこれか、力か、と納得した。自尊心が刺激されまくってハイになったから、Qは最後に匿名でいられなくなったんだろうが、そういうところも含めて小物だよなあ、と。匿名の人物が顔出ししたら興醒めするに決まってる。まあそのこととは無関係かもしれないが最近はQアノンの影響力もだいぶ弱まっているとか。今度はまた別のカルトが登場するのだろう。

 

ワクチン接種1回目

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ようやく1回目のワクチン接種を受けることができた。ファイザー製コミナティ。どうせ受けるのだから半袖の季節に終えてしまいたかった。夏に職域接種を受ける機会があったが、本社のある都心まで電車で行くのが億劫で受けなかった。1回目、2回目ともに接種日は雨で、2回目は都内の新規感染者数が5000人の頃だったので結果的に受けなくてよかったと思っている。雨の中、傘持って電車に乗り、感染爆発している都内へ行くのはだるいし怖い。とはいえ自治体の接種がここまで遅れるとは予想外だった。8月中には1回目の接種が受けられるものと予想していた。自分は基礎疾患はない。前夜は酒を飲まずに寝た。4時間くらいしか眠れなかった。

 

当日。

接種会場の病院までは車で30分程度。正直予約は失敗した。自宅の近所のクリニックにすればよかった。予約サイトが激混みで重く、接種会場のページ送りするごとにフリーズするから選ぶのが面倒になってしまったのだ。急がなくても夕方頃にはサイトはがら空きになっていたのでそれからゆっくり予約すればよかった。まあこれは結果論で、接種希望者が枠に対してどれだけいるかなんて自分にはわかるはずもないのだから仕方ない。

 

会場の病院はかつて一度だけ来たことがあった。何年か前の夜、母親が肺炎になって救急車を呼び、その際搬送された病院だった。母はこれまでに四度救急車に乗っているがまだ生きている。それだけの回数救急車に乗ってまだ生きている人も珍しい。行き方はなんとなく覚えていたが前日Googleマップで確認し、駐車場の混み具合の予想がつかなかったので一時間前に到着する見込みで出発した。到着すると駐車場は割と空いていた。Kindleを読んで適当に時間を潰していると徐々に同じくワクチン接種予約者と見られる車が入ってきた。予約時間15分前に車を出たら、すでに建物に沿って行列ができていた。自分は20番目くらい。あとからも次々に人が並び始めた。

 

前から受付スタッフが名簿を持って確認に回ってきた。予診票と接種券を見せる。お薬手帳も持ってきていたので聞かれたら出そうと思っていたが、聞かれなかったので出さなかった。持病はないがコレステロール値を下げる薬を常用している。で、時間になり、前から順番に建物内へ入っていく。奇しくも、母親が担ぎ込まれたときに出入りした緊急搬入口が会場入り口だった。ああ、ここ通ったなあと何年か前の記憶が蘇った。あの時は手続きがなんだかんだあって帰れたのは日付が変わった後だったような。

 

15分ほど並んでようやく自分の番。院内へ入る。手指のアルコール消毒をし、受付にて名前を再度確認する。横にいた医師から軽い問診。アレルギーの有無とか二、三。で、案内されて椅子に座る。看護師がどちらの腕に打つかと聞くので左と答える。ポロシャツだったので軽く捲って肩を出す。「接種しまーす。チクッとしますよ」「はい」自分は注射が苦手である。つい身構えてしまう。痛み自体は大したことないが、今から針が刺さるとわかっているとどうしても緊張する。健康診断の採血のときに「楽にしてくださいね」と看護師に言われること多々ある。もちろん顔は注射から逸らしている。なんなら目をつぶっている。歯を食いしばるまではしないが…。今回も打つ瞬間身構えたが、全然痛みを感じなかった。あれ? と思ったときには「はい、終わりましたー」で拍子抜け。首から下げる番号札を掛けられ、次回三週間後の予約日時を教えられ、15分椅子に座って待機。次々に入ってくる人たちが接種していくのをぼんやり眺めていた。中規模くらいの病院で、これまでに何度も接種してきたのだろう、オペレーションがスムーズなので感心した。

 

とくに体の異変を感じることなく15分経過。スタッフに挨拶して病院を出る。外に出ると次の回の予約者が自分のときと同じように行列を作っていた。このとき、自分が駐車場に入ってきたときは前の回の行列がなかったことに気づく。とすると、自分は最初の回の予約だったのかもしれない。YOASOBIを聴きながら帰途につく。

 

ちょうど昼だったのでかつやに寄ってロースかつ定食を食べた。食べているときはなんともなかったのだが、会計を終えて車に乗ったら違和感が。若干の頭痛と、胃のあたりに不快感。1回目の接種は副反応が出づらいものと思っていたが、自分は例外か。帰る途中にドラッグストアがあったので寄り、ポカリ、ウィダーカップの雑炊、アイスクリームを購入。帰宅してすぐ体温を測ったら36.6度。平熱より少し高いが外出していたのでこんなものだろう。iMacを点けワクチンについて少し調べ、流れでだらだらネットサーフィンしていたら寝不足なのもあって眠くなり、ベッドに横になった。そのまま眠ってしまった。

 

午後6時半。目が覚める。3時間も眠ってしまった。体調は回復していた。夕食を食べ終わるとまた胃のあたりがムカムカしてきた。なんでか鼻水が出てきた。体温36.3度。まあこんなもん。

 

午後8時半。鼻水は止まるが頭痛が始まる。体温36.8度。少し高い。嫌な予感あり。

 

午後9時半。接種した上腕部分が痛くなってくる。腫れたような感じ。しかし四十肩と一年半以上付き合ってきた身なので騒ぐほどでは全然ない。体温35.8度。この体温計当てになるのか? という疑問。眠くなってきたので就寝。

 

深夜0時。目が覚める。腕が痛い。が、痛くて眠れないというほどではない。

 

午前1時。腕が痛い。頭が痛い。喉のあたりがムカつき弱い吐き気あり。やたらと尿意を催し、朝まで一時間おきくらいにトイレに行った。都度、尿が出る。そんなに水分とっていないのに。

 

翌朝になっても鈍い頭痛と倦怠感があり、寝過ぎたせいか腰や肩も痛く、会社に休みの連絡を入れる。頑張れば出勤できなくもないが、すれば健康体扱いされてフォローはなく、結局自分に返ってくる。そんな職場。まあ会社なんてどこもそんなもんだろう。無理しても自分が辛い思いするだけでアホらしい。自分の身は自分で守る。この日は午前、午後ともだいぶ寝た。いや、こんなによく眠れるなと自分で感心するほどよく寝た。疲れていたのかな。これまでの睡眠負債を少しは取り戻せたか。

 

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あと、二日目はやけに腹が減った。朝はバナナとヨーグルトと菓子パンと雑炊とウィダーを、昼は雑炊とおにぎりを食べた。朝あんなに食べるのは我ながら珍しい。

 

昼過ぎ、頭痛対策としてロキソニンを飲んだ。午後8時時点で体温36.4度。頭痛はなく、吐き気もなく、関節痛もなく、腕の痛みはほぼなくなった。しかし1回目の接種の副反応でこれだと来月予定の2回目はどうなることやら。丈夫な方じゃないので怖い。接種前日、当日、翌日と三日間酒を飲まずに済んだ。痛くなかったから2回目の接種のときは注射する瞬間を見てみてもいいかもしれない。

 

津野海太郎『最後の読書』『百歳までの読書術』を読んだ

 

 

『歩くひとりもの』から時が経った。あれは中年本だったが今度の二冊は老齢本。著者はすでに後期高齢者である。

 

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ともに老齢の読書や蔵書にまつわる話題がメイン。自分は今年44になる。思えば去年あたりからやけに目が疲れるようになっていたが、長時間の読書が続けられないほどしょぼしょぼするようになったのは今年に入ってから。休憩を挟まないと読み続けられない。元々かなりの近眼で普段は度の強い眼鏡をかけている。それで近くが見えにくいことはないから(ただし遠くを見てすぐ近くを見ようとするとピントが合うのに間が空くようになった)なるほど近眼は老眼が出にくいとはこれかと納得。ただし症状自体は出ている。近眼がひどくて老眼に勝ってしまっているのだろう。この間ホムセンで試しに老眼鏡をかけてみたがぼやけて見えなかった。

 

人生の先輩の読書に関する本で自分がもっぱら知りたいのは、視力の衰えた身でどう本と付き合っていくかと、人生折り返し点を過ぎて蔵書の整理をどうしているか、この二点。

 

前者については自分の想像の範囲のことしか書かれていなかった。歳をとると古い、焼けたページに小さい文字が印刷されている本はかなり読みづらくなる。今時の文庫本は昔のに比べたら大きい文字で印刷されているが、それでもきつい。一昔前の岩波文庫みすず書房の小さくて潰れたような文字は43歳の自分でも読む気にならない。著者も書いているが、岩波文庫がせっかく年に何度か一括重版してくれても本文の印刷は古いままだから買う気にならないというのはある。著者自身が編集者時代を振り返って、老眼の読者が読みにくい本が作られるのは、現場の人間が若くて、老眼に対する想像力が欠けているせいだという。宮田昇『図書館に通う』では、90歳の女性が文字が小さくて読めないからと読書を諦めていたところ、大活字本によってまた読めるようになりQOLが向上したみたいな挿話が紹介されていた。そういうのもありか。あとは電子書籍。文字の大きさやフォントが変更できる。Kindle Paperwhiteならe-inkで目への負担は紙の本と同程度に軽いと言われる。陽射しの下でも読める。ただページめくりが遅くて、ちょっと前を確認したいときなんかにストレスを感じるからまだまだ技術進歩の余地はある。でもラインナップに関してはかなり充実してきている。古めの本、特に翻訳書に関してはないもの多数だが、新刊に限れば電子化率は現在かなり高いのではないか。あとは権利の都合なのだろうが表紙や解説等も完璧に収録してもらえるともっといい。講談社文芸文庫電子書籍は年譜や解説が収録されていないのが不満。その分セールで安く買えるとはいえ。ただ、自分は子供時分から20代というもっとも本に親しんだ時期を紙の本を読んできたせいで脳が最適化されているのか、電子書籍は紙の本よりも記憶に定着しない。どのみち乏しい記憶力だが、それがさらに頼りなくなるので、電子書籍で買うのは(漫画を除けば)流し読みするつもりの本がほとんどで、海外文学の大長編なんかを買おうという気にはならない。

 

視力の衰えに関連して体力気力の衰えもある。高齢になればハードカバーを長時間持っているだけでもしんどくなるだろう。今自分は大半の読書をベッドの上でしているが、椅子に座って読むにしても、長時間同じ姿勢でいるのも難儀するかもしれない。また若い頃は多少の難所も辛抱強く読んだが、歳をとると頑張らなくなる。一、二度読んで了解できなければ放り出す。自然飛ばし読み、流し読み、放棄が増える。これは中年以降の読書あるあるで、加齢とともに加速していく傾向だろう。

 小説なら硬軟を問わず、つまらないと思ったらその場で読むのをやめるし、おもしろければ最後まで読み、たのしませてもらったことに感謝する。したがって、この種の内心の声──「いまさらそんな御苦労なことをしてもあの世まで持って行けるわけでなし」と古井さんのいう「内で制する声」をきくのは、おもに新しい知識を得たり、じぶんの考えをいくらかなりとも深めるための、どちらかといえば、ちょっと硬めの読書の最中ということになる。

 

『最後の読書』

 

 若者や壮年とちがって、老人の日常には「努力」の引き金となるような野心や欲望──「ねばならない」の責任感や「よし、やったぞ」という達成感によってきざまれる、つよいリズムは存在しない。むしろ心身ともにそのリズムで生きることがむずかしくなって、はじめて人は老人になるといったほうがいいくらい。

 

『最後の読書』

 

さらには記憶力の衰え──今だって読んだそばから内容を忘れていく、読み終えて目次を見返すと、あれ、ここには何が書いてあったんだっけともう思い出せないのだが──という問題もある。これについてはモンテーニュの意見が参考になる。

 わたしだって、できることならものごとについて、より完璧に理解したいと思いはするものの、ものすごく高い代償を支払ってまで買うつもりはない。わたしの腹づもりは、この残りの人生を気持ちよくすごすことにほかならず、苦労してすごすことではない。そのためならば、あたまががんがんしたってかまわないようなものなど、もはやなにもない。学問にしても同じで、どんなに価値があっても、そのためにあくせく苦労するのはごめんこうむりたい。わたしが書物にたいして求めるのは、いわば、まともな暇つぶしによって、自身に喜びを与えたいからにほかならない。

 

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所詮暇つぶし、これでいい。忘れようが読んだは読んだ、それで記憶に定着しないならそもそもが自分の血肉となりえなかった無縁の読書、無縁の言葉である──そう潔く諦めて、いたずらに自分を貶めたり嘆いたりすることはよそうじゃないの。ピエール・バイヤールならそれでも立派に読んだことになりますよ、と言ってくれるだろう。

 

もう一方に蔵書の問題がある。自分などはせいぜいが300冊程度(定期的に整理している)、それでも狭い部屋の壁際の高さ1.5m幅2mほどのDIYした本棚には圧迫感がある。正直鬱陶しい。しかし鬱陶しくても本は死蔵せず本棚に並べろ、とは松岡正剛だったか、レコードやディスクがプレーヤーにかけることで再生されるように、本は本棚に並べることで再生されるとかなんとか、本はページを開くことで再生されるのでは? という気がするのだが…そんなことを言っていたのでそれに倣っている。本書の著者は数千冊を所有、学者には万単位で所有している人も珍しくないが、執筆とか研究目的のいわば専門的蔵書の処分は難儀だろう。昨今は図書館に寄贈したくても拒否され、仕方なしに二束三文で古書店に売却するのが大方のパターンという。100冊程度ならメルカリやヤフオクで売る手もあるが数千冊では手間がかかりすぎる。

 

蔵書を減らす方法は二つある。一つは売る、捨てる、譲るなどして今ある本の数を減らす。もう一つはそもそも本を買わない。前者に関しては体力のある六十代までに目処をつけておけという。後者に関しては、年金生活に入れば収入が激減するから否応なく現役時代のようには本を買えなくなるという。図書館を利用するのが経済的にも空間的にもベストな選択になる。実際、近所の図書館に行くと前期か後期かはわからぬが定年したと思しき高齢男性が新聞や雑誌のコーナーで読んでいる姿が目立つ。いい眺めだと思う。いずれ自分も彼らの仲間入りをさせてもらうことになるだろう。

 第一に、蔵書の大幅削減はできるだけ早くはじめること。できれば体力・気力のある六十代なかばまでに。

 第二に、いったん決心したら、思いきって一気にやってしまうこと。そうすれば、蔵書ロスの悲哀からたちなおる余裕も生まれるだろう。

 

『最後の読書』

 

 本を私蔵することに執着しない。読みおえた本、もう読みそうにない本を、売ったり捨てたりすることをためらわない。本を自室にとどまるものとしてではなく、ただ通過してゆくものと思いさだめ、はじめからそのつもりで本と付き合う。

 

『百歳までの読書術』

よく吟味された書物が200冊だか300冊だか書棚にあれば十分と言ったのは吉田健一だったか。吉健でその数なら自分など50冊でも多いくらいだろうが、たとえ300冊程度であったとしてもそのまま残して死なれると、残された人間は処分するのに疲弊すると著者は自身の経験から述べる。

 しかし、だからといって「勝手に処分してくれ」といわれても、そう簡単にはいかない。一昨年、私の母が九四歳で死んだ。職業的インテリではない。ふつうの主婦だったが、本が好きで、最後をむかえた有料老人ホームの自室にも三百冊ほど本があった。それを処分するだけで、正直、へとへとになった。

 家族にせよだれにせよ、死んだ人間の思いがこもった蔵書を、まだなまなましい状態のまま、捨て値で売ったり廃棄物として燃やしてしまったりする。実際に「思いがこもって」いたかどうか、怪談にでてくる鏡や櫛でないから、そこはわからん。でも、まわりの連中についそう感じさせてしまうようなお化けじみた一面が、電子本ならぬ「モノとしての本」にはたしかに存在するようなのだ。そのため本の廃棄が親しい人間の廃棄のイメージにかさなり、体よりもさきに気持ちのほうがへとへとにさせられてしまう。

 

『百歳までの読書術』

独身こどおじの自分の場合後に残される人って誰なんだろう? 4歳下の弟か? いやいや…。特定の誰かの顔が浮かべば申し訳ないからと処分に積極的にもなろうが、想像もつかない誰かのために頑張るかとはならないので、処分のモチベーションが今ひとつ出ない。所有のうち三分の一は積んでるのでそれを読み終えたいし、一度読んだけど再読したい本もまだまだある。ネットを閲覧してくだらん時間を費やさず読書に向かうべきだとわかってはいるのだが、読書って体力が必要なので、肉体労働でくたくたになって帰宅してさあ読もうとはなかなかならない。つい缶ビールを開けてスマホをいじってしまう。未読の「固い本」、読めるんだろうか。解説した新書かムック(100分de名著みたいな)を読んで終わるかもしれない。フーコー『監獄の誕生』とかアーレント『人間の条件』とか、俺には高級過ぎる。

 

他には、『最後の読書』では、河出書房新社の日本文学全集の現代語訳によって古典文学を楽しく読めるようになった話や、須賀敦子全集の詳細な年譜に想像力を刺激された話がよかった。『百歳までの読書術』では、スローリーディングへの反論、気になったテーマについてジャンルを越境して調べる個人的な「祭り」開催の話が面白かった。自分は定年退職したら、浮世を忘れて、動画配信サービスで昔の巨匠の映画を見て、昔読んだ海外文学の長編を再読し、万葉や今昔など古典の世界に沈潜し、疲れたら山本周五郎藤沢周平の大活字本を図書館で借りて読む毎日を送るんだ…と理想を描いていたが、こうして老齢経験者の話を読む限り、実際に老齢になってみればそんな甘っちょろい理想など木っ端微塵に吹き飛びそうな気がしてきた。

 読書にそくしていうなら、五十代の終わりから六十代にかけて、読書好きの人間のおおくは、齢をとったらじぶんの性にあった本だけ読んでのんびり暮らそうと、心のどこかで漠然とそう考えている。現に、かつての私がそうだった。

 しかし六十五歳をすぎる頃になるとそんな幻想はうすれ、たちまち七十歳。そのあたりから体力・気力・記憶力がすさまじい速度でおとろえはじめ、本物の、それこそハンパじゃない老年が向こうからバンバン押しよせてくる。あきれるほどの迫力である。のんびりだって? じぶんがこんな状態になるなんて、あんた、いまはまだ考えてもいないだろうと、六十歳の私をせせら笑いたくなるくらい。

 

『百歳までの読書術』

 

 

老眼や「祭り」の話はこの本の内容とも重なる。

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『最後の読書』は排泄に失敗してトイレを汚してしまう悲しさについて書かれている。中村光夫の本もそうだったが、排泄の問題について書かれている老齢本は信頼できる。

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最近眠れない

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ここ二週間程度どうにも眠れない。これまでは、日付が変わる前には自然と眠くなりそのまま翌朝6時頃まで、途中トイレに起きることはあっても大体毎日7時間程度眠る生活を送っていた。それが変わったのが先月のお盆休み頃から。コロナ禍によりステイホームが推奨され、お上に要請されずとも感染リスクを避けたいからほとんど外出しないで、毎日酒をだらだら飲んで夜更かしして、翌朝はいつもより遅い時間に起きる生活サイクルになってしまった。それが元に戻らない。今までも長期休暇中に従来の生活サイクルが崩れることはあったが、また仕事が始まれば自然と修正できていた。しかし今度は違う。仕事から帰ってきて、飯を食って、少し経つと眠くなってきて、洗っていない体なので嫌なのだが眠気には勝てないのでベッドに横になり、二、三時間そのまま眠る。起きて風呂に入ると目が冴えて、深夜になっても眠れない。部屋の明かりを消してベッドに入り、無理に寝ようとしても、うとうとすることはあってもふと目覚めてしまい、時計を見ると30分しか経っていなかいということがしばしばある。帰宅してすぐ眠ってしまうとその夜はなかなか寝付けない。大体2時か3時頃、わずかに漂う眠気に縋るような格好で横になる。そこから二時間程度眠れるときもあれば、結局うとうとしたまま朝を迎えて出勤、となることもある。飲酒してもしなくても変わりはない。飲酒といったって平日は350mlの缶ビール一本か多くても二本とかで深酒しているわけではない。もともとアルコールに強くない。

 

対策として耳栓とアイマスクをしたが効果は得られなかった。「睡眠の質を向上させる」という謳い文句のネルノダを飲んでみたが改善されず。昔、睡眠導入剤を飲んだことがあったが体質に合わなくてやめてしまった。

 

寝不足だと朝のテンションは高い。午前中は保つ。昼休憩中に20分ほど昼寝する。横になるだけのときもあればガチで眠ってしまうときもある。午後3時くらいでエネルギーが尽きる。眠気が襲ってくる。最近は仕事が暇でその時間になると片付け、清掃、事務仕事くらいしか残っていないのでなんとか凌げているが、繁忙期だったら事故起こすかもしれない。こういうとき現場作業はいい。現場なら適当に床にモップがけしたり設備拭いたりして眠くても終業まで凌げる。しかし事務員だったら一日パソコンの前にいなくてはならない。絶対船漕いでしまうと思う。

 

今週こればっかりじゃねえか。

 

やっぱり体力の低下が原因かな。眠るのにも体力が要る。眠り続けるのにも体力が要る。睡眠時間が短い人間ほど肥満になりやすく、短命だという。精神科医中井久夫先生は、二日で11時間眠って帳尻を合わせればいいと何かで書いていたが、それすら今の自分には覚束ない。

 

何年も前に交代勤務シフトをやっていたときも眠りは浅かった。まあこれは当然で、毎週生活サイクルが変わるのだから自律神経が乱れてもしゃーない。夜中に肉体労働をしていると確実に寿命を縮めている実感が湧く瞬間がある。動悸が早くなったりとか。多少手当がついたとしても交代勤務なんて人間の生活じゃない。それを十年も、それ以上も続けている人たちがいるのだから恐れ入る。若いうちはともかく中年以降は健康診断の結果が芳しくない人が多い。

 

ちなみに今日も夕食後7時頃から10時半過ぎまで眠ってしまい、さっき風呂に入ってきて、こうして書いているところ。さて、どうしたもんか。

 

映画『東京自転車節』を見た

この映画、気になってはいたんだが上映館が少なくて見る機会なく。動画配信サービスに来るまで待っていればいいか…と思っていたが、「たまむすび」で町山さんの紹介を聴いてどうしても見たくなり、ニコニコ動画のみ有料配信をやっているというので何年も前に退会していたニコニコ動画のサイトに久しぶりに行った。

 

自分がニコニコ動画を見ていたのって2010年頃かな。あの頃は楽しかった。新海誠監督の『秒速五センチメートル』や『涼宮ハルヒの憂鬱』を知ったのもニコニコがきっかけだった。アニメをほとんど見ない人間だったからこの二作の綺麗な絵とリアリティには当時びっくりした。ニコニコをきっかけにその後深夜アニメを見るようになったが、一二年くらいの話で、今はまた劇場版くらいしかアニメを見ない生活に戻った。最後に通しで見たのは『鬼滅の刃』。これも一回は序盤で脱落していて、大ブームになった頃もう一回トライして楽しく最後まで見た。二期がスタートしたら見るつもり。『ケムリクサ』も凄い面白かった。『Fate』と『まどかマギカ』は自分にとって別格というか。『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』や『進撃の巨人』は途中まで面白く見ていたのに急に飽きて見るのをやめてしまった。振り返るに自分が熱心にアニメを見ていたのは2011年から2012年にかけての短い期間だった。

 

いや、俺とニコニコ、俺とアニメについてはどうでもいい。それより『東京自転車節』である。ニコニコ動画で1500円で視聴可能。配信期間が今日(9/10)までなのでギリ間に合った。で、まず感想なのだが、いい映画。そしてやっぱり今見てよかった。コロナ禍による生活苦、ウーバーイーツでの日銭稼ぎ、明確になった経済格差という「今」の問題。それを当事者として描くリアル。一方で、画面に映し出される2020年春の、最初の緊急事態宣言下の閑散とした東京の風景は記録として貴重なもの。東京のみならず全国的に感染者数は当時と比較にならないほど増加しているのに、2021年9月の今、あの頃の緊張感はもはやない。

 

昭和めいた音頭が流れるのっけから、時代錯誤では? と驚き、さらに監督が小型自転車で甲府から新宿まで行くのにもう一度驚く。でもちゃんと到着する。いや、そりゃ漕いでりゃいつかは着くのが当然だけど、今ちょっと検索したら甲府から新宿まで下道で130キロ、自動車でも4時間かかる距離。ロードバイクならいざ知らずあんな玩具みたいな自転車でよく無事に着いたと感心する。幹線道路とか大型車が怖くて、仮に若かったとしても自分だったら絶対無理。本編の趣旨から外れるからか道中がカットされているが、この道中をもし撮影していたならこれはこれで別に動画をアップすれば需要はあると思う。普通の人が自転車で長距離を走るだけの動画なら興味は持てないが、この監督はキャラがいいので、この人のだったらぜひ見てみたい。

 

そう、この監督はキャラがとてもいい。真面目で、前向きで、失礼ながら27歳とは思えないほど純真? 幼稚? で、この監督のキャラだからこそこの映画が成り立っていると言っていい。ウーバーイーツと聞くと、自分は利用したことないのでイメージでしか語れないのだが、交通ルールを無視して危険運転をするとか、事故っても逃げるとかいうニュースのインパクトのせいであまりいい印象は持っていなかった。会社の保険もないのに配達仕事なんて事故が怖くないのかとも思っていた。が、この映画を見て少し見る目が変わった。もちろん人によるのだろうけど、一所懸命、誠意を持ってやっている人もいるんだと。監督が、食事を受け取りに行くお店の人に対しても、配達するお客に対しても、丁寧に接することで何かが変わる気がすると言って、お客がドアから手を伸ばすだけでそっけなく食事を受け取っても、ドアが閉まり切るまで「ありがとうございました」と頭を下げ続ける姿に感動する。ウーバーイーツは大変な仕事だ。雷雨の中であっても配達しなくてはならない(雨の日の方が稼げるまである)。その割に賃金は時給換算すると安い。注文が多い日もあるが大抵は時給1000円いってないんじゃないか。ある程度自分の裁量で仕事ができるのと、対人関係の煩わしさがないのが利点か。ただ、監督自身はむしろ人との交流を求めていたようで、「人と人とをつなぐ仕事だと思っていたのに、実際に働いてみると人と接する機会はほとんどない」みたいなぼやきを口にしている。ドローンなど機械では配達できず、コストも手間もかかるから、より便利により安く人間が買い叩かれている、そういう図。

 

配達の過程で明確になる貧富の差。一方に雨の中ずぶ濡れになってタピオカドリンク1個、ハンバーガー1個を池袋から早稲田まで届けなくてはいけない人間がいる。もう一方にはそれを注文する金銭的余裕のあるタワマンの住人がいる。「タワマンの人、注文多いなー」という呟き。序盤に映画関係の友人とケン・ローチ監督を話題にする場面があり(貧困層という言葉も出る)、もちろん監督も貧富の格差をこの映画で描く意図があったのだろうが、それを声高に主張することはしない。上記の呟きも、続く「それもいいんじゃなーい」という一言によって均されてしまう。本作はあくまで地べたでペダルを漕ぐしかない一人の配達労働者のドキュメンタリーとして撮られている。初めのうちは友人の家に泊めてもらっていたのに、いづらくなってネカフェ、さらには路上へと追い詰められていくのは見ていてきつい。

 

昼の注文は早く届けないとお客さんがお腹を空かせてかわいそうと呟いたり、自分の血を吸う蚊に「腹一杯食え」と話しかけたり、デリヘルで勘違いして7000円を無駄にした後で店に電話をかけてちゃんと女の子にお金がいくように念を押したり(しかしデリヘルってあんなに電話応対きちんとしてるんだ、一般企業の弊社よりちゃんとしてそう)、そういう発言・奇行をしても違和感なく、むしろ好感を抱いてしまうのは監督の人柄(これが演技や演出でないなら純朴すぎて心配になるが)。この人柄だからこそ初対面の人と打ち解けて撮影できたりしているのだろうし、描く現実の悲惨さが和らげられている面もある。いや、繰り返しになるがウーバーイーツって本当大変な仕事だと思う。金欲しいから副業でやってみっか、とかそんな軽いノリで務まるとは到底思えない。少なくとも自分には無理。それなのに金銭的に報われないのが本当辛い。代わりはいくらでもいる仕事(ブルーカラーの自分もそう)だからか。誰にでもできる仕事は買い叩かれる。

 

終盤、知らないおばあちゃんから東京大空襲の体験談を聞かされた監督は、コロナ禍の東京もまた焼け野原だと喝破する。ここから映画のトーンが変わる。それまでのユーモアが影を潜め、狂気が出てくる。ウーバーイーツという「システムを掌握する」ため、三日間で70件の配達をこなして報奨金がプラスされる「クエスト」に挑戦すると言い出す。しかしやる気を出せば出すほど、「システムを掌握する」どころか逆にシステム側に都合のいい餌食になるというのがまあ…悲惨というか滑稽というか。熱中するにつれ、呟きの回数も増す。雨の夜、坂道を自転車で登りながら呟き続ける姿はちょっと怖い。

 

ラスト、国会議事堂のショットは象徴的。やっぱりそうなるよな、と納得できる。自分もコロナ禍以前はなんとなく投票に行くくらいで政治にほとんど関心がなかったが、パンデミックにより全世界が同時に同じ困難に直面した際に、政府の対応次第で結果に大きな差が出るのをニュースで知るにつれ政治への関心が増した。コロナ禍は平和ボケした自分のような人間に政治への関心を持たせるきっかけになった。本作は労働ドキュメンタリーとして、東京の風景の記録として、とても見応えがあった。今日、仕事から帰ってきたらもう一度見よう。

 

映画『くじらびと』を見た

MOVIX昭島で鑑賞。土曜日昼の回で20人程度。上映開始5分前まではガラガラだったが時間が近づくにつれ人が入ってきた。外国が舞台のドキュメンタリーとしてはまあまあな入りではないかと。

 

舞台はインドネシアの漁村。火山岩が地盤の土地のため農作物が育たず、村人たちは何百年にもわたって漁で生計を立てている。獲るのはマンタ、ジンベイザメ、そしてマッコウクジラ。漁船はエンジンこそ搭載しているが船体は手作り、しかも宮大工と同じで鉄釘は使わない製法。使うとしたら木の釘。組み立ては真ん中から左右互い違いにして強度を保つ。船首には目が描かれている。船も生き物であり、人間と一緒になってクジラを探してくれるのだという。この漁船一艘に10人くらいが乗船する。漁は先祖から受け継がれてきた伝統の銛漁。ラマファと呼ばれる銛打ちは選ばれた者しかなれない。漁は常に命懸け、怪我や死と隣り合わせ。クジラの尾鰭の一撃をまともに喰らえば人間は即死する。仕留めたはずの獲物が逃げるのに巻き込まれれば流される。あるいは身体の一部を持っていかれる。冒頭近く、一艘また一艘と船が沖へと出ていく様子を俯瞰で捉えたショットは、船とそれに乗った人間たちが大洋と比較していかにちっぽけな存在であるかを強調する。紺碧の海は圧倒されるほど美しい。しかし果ての見えぬその広さ深さは恐ろしい。

 

貧しい村である。だが年に10頭クジラが獲れれば、週に一度立つ市で物々交換して、村人全員が暮らしていけるという。村には、以前バリ島で働いていたという男性がいる。当時の暮らしについて、賃金は悪くなかったがいつも支払いに追われる生活だったと回顧する。この人はこの村の出身だったのか、それとも奥さんがそうなのか、それとも伝手があったのか…よくわからないが、とにかくその男性はバリ島での暮らしよりこの村で漁をして暮らす方がいいと語る。

 

終盤にマッコウクジラを仕留めるシーンがある。本作のクライマックスだ。勇敢なラマファによって深々と銛を刺されたクジラは痛みにもがき、暴れ、傷口から溢れる鮮血が海をみるみる真っ赤に染めていく。周囲は血の海になる。一頭を仕留めて歓喜する人々の前にもう一頭が現れる。村の老人が言う。マッコウクジラは仲間がやられると助けに来ると。助けに来たもう一頭も仕留めて獲物は二頭。この漁の──狩りといった方が適切な気がする──シーンの迫力は凄い。暴れるクジラが無茶苦茶に体当たりして船は壊れんばかり、何人かは衝撃で海に転落する。尾鰭の一撃が海面に炸裂すればまるで爆弾が爆発したかのよう。そりゃあ人死にが出るわ、と見ていて納得した。

 

仕留めたクジラを捌いて功労のあった者から順番にいい部位が与えられる。漁に参加していないシングルマザーや貧しい家庭にも分配される。切り分けられるクジラの肉は真っ白な脂身が目立つ。自分が何度か食べたことのある鯨肉のイメージと全然違った。自分が食べたことがあるのは赤身の佃煮みたいなやつ。この村の人たちも赤身は同じように煮ていた。白身は干して燻製にするのだろうか。新鮮な肉は砂浜で血を洗うだけ、恐らく冷蔵庫のない家庭が大半。でもスマホは使っているから可笑しい。クジラには無駄になるところが一つもない。脳油までも灯油代わりに使えるからと村人たちは先を争ってバケツに汲む。さすがに龍涎香は取れなかった。

 

この村の人々にとってクジラは貴重な獲物、しかし敵ではない。彼らはクジラに感謝している。クジラなくして彼らの暮らしは成り立たないから。漁(狩り)と自然への畏敬という点で、メルヴィルヘミングウェイよりフォークナーの世界観が近いな、と思った(短編「熊」とか)。意外だったのは村人たちがカトリックを信仰していたこと。インドネシアカトリックとは知らなかった。伝来の際に土着の宗教を吸収する形で広まったというがどこも大概そんな感じだろう。漁の際に皆十字を切る。途中少しだれて眠くなったが終盤のクジラ漁のシーンは圧巻で、貴重な映像が見られて楽しかった。