映画『コーダ あいのうた』を見た

今年最初に見た映画。タイトルは音楽の用語(終尾部)だと思っていた。鑑賞後たまむすびでの町山さんの紹介を聞き、Children of Deaf Adlut/sの略だったと知って驚いた。聴覚に不利のある親をもつ聞こえる子供。そういう境遇を指す言葉を知らずに生きてきた鈍感さが恥ずかしくもなった。この町山さんの紹介では、本作がフランス映画『エール!』のアメリカ版リメイクであること、主人公の家族を演じる三人の俳優が皆聴覚障害者であること、母親役のマーリー・マトリンは1986年に『愛は静けさの中に』で当時最年少の21歳でアカデミー主演女優賞を受賞したこと、しかし当時は聴覚障害者の役は少なかったためその後出演機会に恵まれなかったこと、ようやく近年になってアメリカ映画界の状況が改善されつつあることなど教えられてめちゃくちゃためになった。

 

聞こえない家族を支える健聴者の主人公には歌の才能があり、それを見出した教師は名門の音大へ進学するよう勧める。しかし通訳である自分がいなくなってしまったら家族は暮らしていけない。人を雇う余裕はない。その葛藤がメインテーマとしてある。テーマがテーマだけにシリアスな映画だろうと思っていたら案に相違してかなりコミカル。冒頭、なんでPG12なのか妙に感じていたが下ネタ連発で納得。前半はユーモラスに、終盤になると前半が嘘のように重くなるのかなと思っていたがそんなこともなく。しっとりとした落ち着きある展開ながら最後まで軽やかさは失われず、爽やかな気分でエンドロールへ。ラストシーンの手話、クールだった。「愛してる」の意味だそう。

 

この映画は障害のある人たちを、特別な、かわいそうな人たちとして描かない。健聴者と同じように、いや、主人公のボーイフレンドの発言から考えるにむしろ健聴者よりもよっぽど幸福に生きている人たちとして描いている。というか障害が人生の幸不幸を決めるのではなくその人がどう生きているかが幸不幸を左右する、というふうに描いている。だからこそのあのコミカルさなのだろう。『愛は静けさの中に』と比較すると随分と明るい。父親がコンドームの装着を手話で表現するシーンに吹き出してしまった。あれは即興の演技だったそう。わからないけれど手話にも言葉や文章のようにその人のオリジナリティが出るものなのだろう。

 

主人公の才能が見出されたことが彼女自身の成長に、また彼女に頼りきりだった家族の成長に繋がっていく。崖から飛び降りるシーンは通過儀礼を意味している。流木につかまりながらのキスはロマンチックにもほどがある。『愛は静けさの中に』にもプールの中で男女が抱擁するいいシーンがあった。同じ水のイメージ。主人公にとって一番の重荷になっているのは母親。内向きだから自意識過剰で、「外の世界を知りなよ」と娘に説教されたり、最後まで彼女の進学に反対したりする。出産のときには聞こえない子供であってくれと願ったという。でもそれは、それだけ健聴者と聴覚障害者との断絶があるから。家族なのに心が通じ合わないかもしれないことが怖かったから。彼女とて若い頃はミスコンだかで健聴者を抑えて優勝したことがある人で今でもお洒落にこだわっている(実際美貌の人だし)。彼女とて逆境をバネに強く生きようとした人なのだ。それほどの人であっても、耳が不自由だというハンデは重くのしかかるものなのだ。小さい頃から家族の通訳をして、漁師だから朝が早くそのせいで高校で居眠りしている主人公をヤングケアラーと見ることもできる。色々な見方のできる懐の深い映画。

 

家族にとっては可愛い娘、大事な妹なのに彼らは主人公の歌声を聞けない。主人公の歌は一番聞いて欲しい人たちに届かない。そのことの切なさ。聴覚障害者が抱える圧倒的な孤独、外界との断絶を表現するシーンが終盤にある。このシーンで息を呑んだ。彼らの生きている世界はこんなにも過酷なのかと。ここ何年か見た映画で最も圧倒されたシーンかもしれない。この映画は絶対に映画館で見るべき。映画館という音響が整備された環境で見るべき。

 

主人公を演じたエミリア・ジョーンズは素晴らしい。容姿端麗で演技がうまくて歌もうまいとか天は何物を彼女に与えたのか。彼女を指導する教師も個性強くていいキャラだった。犬の真似のシーン、声出して笑った。『セッション』もそうだったが音楽の世界ってめちゃくちゃ体育会系なんだな。最後は根性が物を言う世界。

 

大江英樹『となりの億り人』を読んだ&自分が影響を受けたお金関連の本5冊

 

2019年の調査によると日本で1億円以上の金融資産を持っている世帯は133万世帯。これは一般世帯の2.4%に当たる。世帯主100人のうち2人から3人は「億り人」がいることになる。そんなにいるのか、と驚くとともに、直近の10年間でその数が6割も増えている事実に格差社会が進んでいるのでは、とも思った。本書では彼ら億り人の思考や生活について紹介する。『となりの億万長者』というアメリカのミリオネアに取材した本があるがそれの現代日本版といってもいい。

 

億り人に共通する点は二点。

・地位財より非地位財を重視している

・支出を最適化している

前者の地位財とは「他人との比較優位によってはじめて価値の生まれるもの」。非地位財とは「他人が何を持っているかどうかとは関係なく、自分にとって、それ自体に価値があり、喜びを感じるもの」。資産家はお金の使い道として後者を優先する傾向がある。自分にとっての優先順位を把握しており支出の管理が徹底している。彼らにとっては、

お金の心配をしないですむことのほうが、世間体を取り繕うよりもずっと大切

なのだ。見栄や、マウンティングや、なんとなくでお金を使わない。だから貯まる。増やせる。取材を受けたある億り人はこう語っている。

世の中にはたいして満足していないものに、お金を使っている人がいかに多いかということだと思うんです。さらに言うと、そういう無駄なお金を使わせる仕組みが世の中には一杯ありますね。

 

私、人間が無駄にお金を使ってしまう原因は『物欲』と『恐怖心』にあるんじゃないかと思うんですよ。世の中には物欲を刺激して買い物をさせようという広告が溢れていますよね。そこにつけ込んでお金を持っていない人にカードローンを利用させようとするし、誰もが持っている『健康や大切な人の死』に対する恐怖心をエサにして保険に入らせようとする。結果として無駄なお金を本当にいっぱい使ってしまうことになっている気がします。

 

 

肝心の億り人になる方法については…本書には4人の億り人に取材しているが、あまり参考にならなかった。皆レベルが高すぎる。投資信託を毎日9万円購入しているとか住んでいる世界が違いすぎて…。資産を増やすには時にリスクをとる必要があること、給与天引きで貯めるなり投資するなりしないとまとまった額を捻出するのは困難なこと、その二点くらい。著者はインデックス投資はリターンが小さいためそれだけで億り人になるには相当の入金力が必要で容易ではないとシビアに見ている。確かに年利5%で20年かけて1億円に到達するには毎月24万円以上積み立てる必要があるわけでこれはかなり厳しい、日本の平均的な年収の人では不可能か、できても日々かなり節約しなくては達成困難な数字だろう。

 

著者は昨今流行のFIREについて、大事なのは経済的自立であって早期退職ではない、と述べる。経済的自立を果たせば人生の選択肢を増やすことができる。しかし今の仕事が嫌だから億り人になって早期退職したい、というのなら仕事を好きになるよう努力するか転職するかして解決すべきで、それと資産運用とは別の話だと。論理的な意見だと思う。自分も含め本書を読む人は資産を増やすことに関心があるのだろうが、そもそも何のために大金が必要なのか、今一度考えるよう促す。人生は一度きり。時間は不可逆。資産を増やすことも大事だが日々を大切に生きることはもっと大事。金とは何かをするための道具に過ぎない。その道具に振り回されては主従の逆転である。

 

資産運用についての本書の結論。

自分の収入と支出の管理をきちんとやり、無駄な支出を抑えてその分を投資に回す。そして投資をしていく中で揺れ動きがちな自分の気持ちを制御して淡々と続けていく。それが継続できれば自然と資産は積み上がっていくものです。

 

結局のところ、資産形成に近道はなく、その人に合ったやり方で支出を適正化し、地道に貯蓄や投資を続けていくことでいつのまにか億り人になっていたということなのです。最初から1億円を目指していたというのではなく、気が付けば1億円になっていた。そしてほとんどの人は、1億円はゴールではなく単なる通過点に過ぎず、その後も着実に資産は増えています。それは「自分にとって合理的なポリシーを持っている」「そしてそれをずっと続けている」からなのです。これは誰でも理解できるし、やれることではありますが、誰もがなかなかできないことでもあります。

 

至極真っ当で地に足のついた金銭管理の本。とくに目新しさがなかったのは自分の金銭に対する意識も至極真っ当だからだろう。FXも仮想通貨も自分には無理。勝てるはずがない。だから銀行預金の延長線上で(リスクを承知で)インデックスファンドをひたすら積み立てる。優先順位に則って支出を適正化する。仕事を(できる範囲で)頑張る。これを続けるしかない。もちろん今10億円あればさっさと労働から解放されたいが、それは夢想だから。現実は現実としてやっていくしかない。

 

 

以下、余談。

リーマンショック東日本大震災の不況下で1年の無職期間を経て今の会社に就職したとき、自分の資産は7000円だった。金がない、という恐怖。それまであればあるだけ使ってしまっていた金銭感覚は無職になったことで大きく変わった。その後、運よく就職できたとき、とにかくまずは100万円貯めようと決意した。当時、すでに30代半ばだった。家計簿を付けて支出を見直し、なんとなくで買い物するのをやめた。結果、一年後に目標達成できた。100万円という額に深い理由はない。キリがいい数字で、大抵の突発的なトラブルが起きても対応可能な額だったから100万円としただけ。貯めるのにある程度時間がかかる額だからその間に支出の見直しをするようになる。試行錯誤の末に支出を適正化した生活パターンを構築することは現金100万円以上の価値がある、と自分は思う。実際、この10年間ほぼ同じ生活パターンで暮らし続け資産を少しずつ増やせているので。思うに一度100万円を貯められた人はそこからさらに200万、300万と貯められるだろうし、必要があって100万円を使ってしまったとしてももう一度貯めることができる。そしてそのどちらも、0から100万円を貯めたときよりずっと楽にできるようになっている。だから自分はお金を増やしたいと思っている人には、まず100万円貯めるのを目指してはどうでしょう、と言うことにしている。言ったことはないが。

 

 

余談ついでに自分がいいと思うお金関連の本を5冊挙げる。このジャンルの本はこれらを読んでおけば十分と思う。お金に関しては似たようなことを書いている本が多すぎる。

アメリカのミリオネアについてのレポート。社会制度や税制の面で日本とは違っているが資産家の質素堅実なメンタリティはアメリカも日本もよく似ている。

 

給与の4分の1を天引き貯金して残りで生活したとか、投資の話とか。不動産投資の話なんかは追い風が吹いていた時代背景もあり現代で真似するのは無理があるだろうがメンタリティは通用する。資産が増えても生活水準を上げてはいけない。

 

自分はこの本を読んで投資を始めた。『臆病者のための株入門』『ほったらかし投資術』『お金は寝かせて増やしなさい』などでもいいと思う。要はインデックスファンドの長期投資、そして一度設定したら投資はほったらかして人生を楽しめ、と。

 

ウォール街のランダムウォーカー』と並ぶインデックス投資家のバイブル。『ランダムウォーカー』は分厚いので読めていないがこちらは読んだ(原著第6版)。どちらか片方読んでおけば十分では。インデックス投資家がインデックス投資を推奨する類書を読みまくっても発見は少なく持論を補強することにしかならない。だったらバイブルを読んで、あとは再読でいい。

 

上に挙げてきた4冊とは異質。著者は徹底的に金を遣って、大金を費やさねばできない体験をしている。これもまたひとつの金との付き合い方。成金趣味ではなく教養をバックにした趣味のよさがあるのが好ましい。節約だの資産形成だのの禁欲や効率性追求に疲れたときの清涼剤として。

 

 

稲生平太郎『アクアリウムの夜』『アムネジア』を読んだ

 

 

 

書影はアマゾンだがDMMブックスでポイント還元セールをやっているのでそちらで買ってiPadminiのアプリで読んだ。以前、マーカーした箇所が消えてしまう不具合があると書いたが、アプリの設定で「しおりの同期」をオフにすると起きないようだ。同期する際にマーカーしていない方に上書きされてしまうのか? よくわからない。電子書籍KindleとDMMブックスしか使っていないが文字の本の読みやすさは断然Kindleの方が優れている。専用端末があるしマーカーした箇所はサイトでまとめて参照できる(記事を書いたりメモをとるときコピペすれば済む)。漫画を読む分にはどちらも大差ない。

 

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

アクアリウムの夜』にはカメラ・オブスキュラこっくりさん、霊界ラジオ、新興宗教チベットの理想郷、秘密の地下室、そして…と小道具や装置がてんこ盛り。主人公は高校生の男子で序盤はちょっとオカルトチックな青春小説の趣がある。前半は退屈、というかもうおっさんなので十代の少年少女たちの話を読むのがしんどい。「いいかい」「何々なんだ」と読者に語りかける一人称と、自分を名前で呼ぶヒロインに違和感を覚える。理系の友人がオカルトにハマった挙句狂気に絡め取られていく過程は怖い。中盤の文化祭での惨劇あたりから物語のスケールが広がっていく感じがして楽しくなった。語り手が暮らす町の小さな水族館には霊的な秘密があるらしい。ストーリーの進展とともに語り手の周囲にいた普通と思われていた人たちの本当の姿が明らかになっていくあたりは読み応えあり(小さい町なのにこんなに強烈な連中が集まってるのかとも思うが)。接点のなさそうだった女性二人の因縁が明らかになる意外な挿話は本書中の白眉。Aが語り手にBに気をつけろと言えばBは語り手にAは精神を病んでいるから言うことを信じるなと言う。このやりとりには慄然とした。終盤は難しい。語り手は表題のとおり水族館の秘密を解明すべく深夜に乗り込むのだが、そこで何が起きたのか読んでいてよくわからない。迷宮に迷い込み、そしてSF的展開に…。SF? いや何が何だか。当方の頭の都合なのだろうが文章の意味は理解できても脈絡をつけようとすると繋がらないのだ。謎は解明されず情報の断片が残るのみ。水族館侵入以後は人が狂気に陥るプロセスを読者に追体験させようとする思惑も感じられる。結びの文章とか。いや、自分は全然見当はずれなことを述べているかもしれない。理解できていないのだから何が書けよう。読み終わってえらい疲れた。

 

アクアリウムの夜』が面白いか面白くないかと言えば面白くはない。感銘を受けなかった。でも途中で放棄せず最後まで読み通せる、そのくらいの面白くなさであって部分部分ではのめり込んだところもあった。読後、答えを求める渇きのようなものが残る。これを書いた人は他にどんなのを書いたのだろうと興味を持った。調べると小説は二作しか書いていない。『アクアリウムの夜』から15年後に書かれた『アムネジア』は80年代の大阪を舞台にした闇金融をめぐる話と知り、面白そうと思った。上記のとおりセール中だったのもありこれも購入。

 

『アムネジア』は20代後半の男性の一人称ということもあって『アクアリウムの夜』とは異なり文章にジュブナイル的臭みがないので読みやすい。序盤はバブル期の日本の闇金融をめぐるミステリめいた展開。戸籍上すでに死んでいるはずの男の死体が新たに発見されたりクセのありそうな新聞記者が出てきたりとわくわくする導入で普通のリアリズム小説的に話は進んでいく。ところが喫茶店で語り手が闇金融の大物と思しき人物と対話するシーンからそれまでの雰囲気が一変。幻想か妄想か、こっち側からあっち側へと向かい始める。このシーンに登場する変な女の気味悪さといったら。大物と語り手は会話がぜんぜん噛み合わず、語り手と同じようにこちらも困惑。しかもタイトルのとおり語り手は何かとても大事なことを忘れているようで彼が信頼できない語り手であるのも明らかになっていく。中盤には永久機関の発明や超能力(ワープ?)がどうしたとか、ゲームのようにリプレイ、コンティニューのある人生とか(リプレイやコンティニューはこの本を読む読者のメタ的言及かとか)それまでのリアリズム形式から逸脱していき、終盤は現実と夢・狂気の境界が消失あるいは融合してもう何が何だか。語り手の一人称を脱し三人称で書かれたエピローグによって彼がした凶行が明らかにされるという、『アクアリウムの夜』同様後味の悪い終わり方。中盤以降のブッ飛び具合、まともじゃない人間の怖さ、『アムネジア』の方が『アクアリウムの夜』よりも上と自分は見る。

 

二作とも箇所によっては熱心に読んだけれども終盤は何が起きているか文字を追ってもついていけず、俺向きではない、という印象。二作とも多くの謎が提起されるのにそれを解明しないまま投げっぱなしで終わってしまうのがもどかしい。手品と同じで真相を知ってしまえば「なあんだ」と白けておしまいだからあえて外しているのか。いや、この話に整合性をつけられるか? 二作とも最後まで読んだのに読み終えたという気が全然しない。まだ終わってないかのように。

 

ハイジ・J・ラーソン『ワクチンの噂 どう広まり、なぜいつまでも消えないのか』を読んだ

 

新型コロナウイルスの対抗手段としてワクチンが開発され接種されている。しかし接種を拒否する人たちも世界中に数多くいる。著者はユニセフやWHOのワクチン関連部門で要職を務めた経歴を持つ人類学者で現在はロンドン大学の教授。なので本書はワクチンが伝染病に対して有効であることを前提に書かれている。ワクチンが有効であるのになぜ接種を拒否する人々がこんなにも多いのか、その理由は何か、という疑問に対する分析・考察。立場は推進派だが公平な視点で書かれていると自分は感じた。

 

科学は人類の叡智の結晶、進歩の証明。それなのにワクチンの効果を信じてもらえないのはなぜか。エビデンスの欠如? 説明不足? いや信頼の欠如が第一にある、と著者は述べる。感染症が流行の兆しを見せ始めているのに「市民がパニックに陥らないよう」との配慮で事実を隠蔽した政府があった。事実を知りたいという市民の声を無視したり、専門家が疑問に答えずただ上から権威的に、黙ってワクチンを接種すればいいと言わんばかりの対応をとるケースもあった。ワクチン接種を進める行政や専門家のこうした態度が市民の不信を招いたり、我が子の健康を心配する親たちに無力感や反感を抱かせたりする。

ワクチンを受け入れるかどうかは、ワクチンを開発する科学者、製造する業界、配布する医療専門家、そして規制する諸機関との信頼関係にかかっている。この信頼の鎖こそ、ワクチンを受け入れる上でどんな情報よりもはるかに重要な要素なのだ。厚い信頼がなければ、科学的に立証され、十分に周知された情報だとしても、信用されないおそれがある。

 ワクチンに疑念を抱き、接種に反対する活動の原動力には、尊厳を奪われたという思いや不信感もある。(略)予防接種キャンペーンやワクチン試験への抵抗運動は、計画段階で意見を聞かれることさえなかった、情報の透明性が欠如している、参加の申し出を無視されたなどの思いから生じたものだ。言い分を聞いてもらえず侮られているという憤りが、反対の声の高まりを加速させた。

 わが子に害があるのではとの不安からワクチンについて質問し、相手から「無知」呼ばわりされた親は自尊心が傷つけられる。しかし、自身の尊厳が危機にさらされていると感じるのは親たちだけではなく、医療関係者もまた、かつては全幅の信頼がおかれていた自分たちの権威が損なわれ、脅威にさらされていると感じている。

 ある神経学者は、辛辣な言葉や中傷をいたるところで目にする現実を指摘するとともに、次のように医学雑誌に書いている、「かつて医療専門家は、その無条件の権威を盾に患者や研究対象の権利を踏みにじることができたものだが、いまやオンラインサイトで医師が(レストランと同じように)ランクづけされるありさまだ」。共感の欠如、耳を傾けて欲しいという渇望が、多様なアイデア代替医療がもてはやされる土壌と噂の温床を作った。

 

わが子の健康が心配のあまり母親がワクチンについての不安や質問を医師にしてもまともに取り合ってもらえない。考えを否定された、「締め出されている」と感じた母親はそれまではワクチンに懐疑的ではなかったのに、そういう経験をしたことで接種にはリスクや真実が隠されているのではないかと疑念を抱くようになる──これはワクチンに消極的な母親たちに見られる共通点だという。スマホが生活費需品となった現在、疑念を抱けば即座に手元で検索できる。すると似たような経験をした人たちがSNSで発信している。そしてそこにはワクチンの信憑性を疑うような噂が書かれている。たとえばMMRおたふく風邪、麻疹、風疹)ワクチンを接種すると自閉症を発症する、というふうに(著者によるとMMRワクチンと自閉症の発症は無関係で、「自閉症の兆候が初めてあらわれるタイミングが、通常MMRワクチンを接種する時期と一致することが多いため、その兆候の原因がワクチンだという認知が高まることになる」)。新しいデジタル技術は情報やデマの拡散するスピードを増し範囲を拡大しただけでなく、遠く離れた場所にいる同じ思想の人同士が組織を作ることも容易にした。ワクチン反対派の声が大きくなればなるほどより目につくようになり、参加する人も増えていく。噂が拡大していく過程はまさに伝染病が拡大していくときのそれとそっくりである。

 世界各地で行われた予防接種キャンペーンやワクチン試験は、何度も行き詰まったり、中断されたりしてきた。個人や集団が、自分に意見を聞かれたことも、自分の意見が尊重されたこともないと感じたからである。多くの人々は、(略)カヤの外に置かれることを不快に感じ、破傷風やポリオワクチンのキャンペーン主導者の動機を怪しんでいた。それは尊厳、敬意の問題であり、発言と対話への切望だった。彼らは自分たちの不安を聴き、自分たちのことを、予防接種キャンペーンに貢献する見識を備えた信頼できるコミュニティのリーダーとして敬意を払ってくれる「耳」を求めていた。

 

自分が物や数字としてしか認識されないことへの反発が反ワクチンの根底にある。人間の意思決定や行動の原動力となるのは、欲望、理性、尊厳であり、これらはどれもワクチンに関する決定に影響を及ぼす。

ワクチンに関する決定は、もはや信頼のおける専門家の意見を盲目的に受け入れるのではなく、(略)自己決定を望む感情が原動力となるプロセスである。

 

自分が一人の人間として尊重されていると感じられる尊厳はその人の生を支える土台である。しかしワクチン接種という大規模なキャンペーンにおいてはしばしば個人の感情や信念は閑却される。「個」より「群れ」の利益が優先されるからだ。科学者は論理で市民を従わせればいいと思うかもしれない。しかし、市民の恐怖心や不安を無知ゆえと決めつけ、専門家の上から目線で「合理的」に論破したところで感情が問題なのだから解決しない。むしろさらに市民の反感を買い事態をこじらせるだけだ。

親の恐怖や不安に対しては、意見ではなく共感が必要なのだ。

対話が必要なのだ。ワクチンでなくても、たとえばちょっと具合が悪くてクリニックに行ったとする。待合室は混雑していて一時間待ちだと受付で言われる。しかし実際には一時間を過ぎても呼ばれない。ようやく呼ばれて診察室に入れば、医師はろくにこちらの顔を見ようともせずパソコンと睨めっこ、こちらの話は途中で遮られて診断され、傍の看護師から追い立てられるようにして診察室を後にする。その間3分もない。あれだけ待たされてこれかよ、と不快感と不信感が募る。そういう経験はないだろうか。自分は約二年間月に二回整形外科に通院していたが毎度こんなで(予約しているので診察を待つことはなかったが会計で30分待たされたり、クリニックへの往復に車で40分かかったり、しかし診察は1分かそこら)馬鹿馬鹿しいと感じていた。物じゃねえんだぞ、とも。症状を見て人間を見てないというか。医師にしてみればそんな余裕はないのだろうし、診察をさっさと終わらせて次の患者に行けるから多くの人を助けられるという側面もあるのだろうが、今苦痛を感じている人間の心情としてはいい気はしない。

 

というわけでワクチン推進派の著者による本書の結論。ワクチンは有効である。しかしそれに反対する人たちにも彼らにとって合理的な理由がある。尊厳や感情の大切さ。だから対立ではなく対話を志向しよう。大規模な接種キャンペーンであればあるほど対話は重要になる。むろん個人には思想信条の自由がある。彼らの意思を否定せず尊重しながら根気強く対話をしていかねばならない。どれだけ対話をしても噂は決してなくなることはない。いつまでも何度でも続けていくしかない。

 

以下は訳者の言葉。

 ワクチンは打たれる側にとってはわけのわからない液体である。自分の体に入ってゆく液体がただの生理食塩水か、劇薬か、それとも未来の自分と他者を守る液体かを確かめるすべはない。自分がある病気に罹らなかったのはワクチンのせいなのか、単に運がよかったからなのかを確かめるすべもない。そのような不確かな状況においてもなお、その液体を体内に入れることを決断させるのは、注射器の中の液体が自分にとっても他人にとっても意味があるという暗黙のあるいは意識的な確信である。その確信は、ワクチンを接種する医師、配布する行政、それを作り出す企業、そして社会全体へと続く期待と信頼によって生み出され、支えられる。だからこそ、そのどこかに亀裂が入れば期待と信頼は一瞬にして不信となりワクチンという液体に逆流し、それはそのままワクチンに関わる人々、組織、そして社会全体への疑念となって注射器の外に流れ出す。

 「ワクチンに意味をもたせる」とは人間とそれが生み出す社会への信頼を取り戻す作業に他ならない。

信頼は金で買えない。信頼は得るのに時間がかかる、しかし失うときは一瞬。そして一度失えば二度と元のようには戻せない。信頼超大事。

 

このエントリでは書ききれなかったが、ワクチンをめぐる分断(たとえばワクチンを打たない親の子供と、その子供たちのせいで我が子がリスクを負わされていると感じている親の対立)や、ワクチン問題に便乗して政治的な過激派が混乱を作り出そうとしたりホメオパシーや自然療法を主張するグループが支持者を集めようとしている話や、市民感情を優先してワクチン接種キャンペーンを中断したところ信頼を失くしてしまい再開後は何年にもわたって接種率が低迷した話や、ポピュリズムと反ワクチン派の相関といった話題も興味深かった。

 

 

「噂」関連として。

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自分はワクチンを打つメリットとデメリットを秤にかけて打つ選択をした消極的容認派。

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町山智浩『それでも映画は「格差」を描く』を読んだ

 

近年、世界各国で経済格差や貧困をテーマにした映画が増えてきているという。カンヌ映画祭パルム・ドール受賞作品だけでも、16年『わたしは、ダニエル・ブレイク』、17年『ザ・スクエア 思いやりの聖域』、18年『万引き家族』、19年『パラサイト 半地下の家族』。2020年のアカデミー作品賞は『ノマドランド』。受賞こそしなかったが19年の『ジョーカー』もこの系譜に連なる。本書はこれらの映画に反映された現実やテーマを横断的に論じている。なぜ各国で同じテーマの映画が作られるのか。それは今や世界中の人々が「ひとつのグローバル経済のなかに生きているから」である。

 

町山さんの映画評論は読みやすく面白いのでわりと読むのだけれど、本書のような新書のシリーズで多数の映画を取り上げたものっていい内容の章とあらすじや監督の過去作品について紹介しているだけの章が混在していてムラがある。本書もそうで、作品理解の助けになる背景について説明してくれる『パラサイト』(90年代の韓国に存在したバラックのような住居サンドンネや、主人公一家が住む半地下はかつての地下シェルターである等)や『ノマドランド』(アマゾンの倉庫での労働の描写は嘘で、実際にはもっと過酷で低賃金であり、監督は撮影させてくれた企業へ配慮している)や『バーニング』(主人公やヒロインは金融危機後の韓国の格差社会で「負け組」となり、貧困のために恋愛も結婚も出産も諦めた「三放世代」)や『わたしは、ダニエル・ブレイク』(中国の工場では昼間はブランド品のスニーカーを製造し、夜になると材料の品質を落とした偽物を同じ工程で製造して売っている)の章は面白い。が、『ザ・ホワイトタイガー』の章はあらすじがだらだら書いてあるばかりでテーマの分析はほとんどされておらずつまらない。

 

本書で別格の扱いをされているのがケン・ローチ監督である。『キャシー・カム・ホーム』『わたしは、ダニエル・ブレイク』『家族を想うとき』と三作も選ばれてそれぞれ語られている。これらの作品に通底するのがいわゆる「貧困問題は自己責任」論への反論である。結婚・出産してすぐに夫が大怪我で働けなくなってしまい幼児を抱えて住む家を転々とするキャシーも、パソコンが使えないから生活保護申請ができないダニエルも、家族団欒のために買ったマイホームのローンを払うために必死で働くがために団欒の時間を失ってバラバラになっていく『家族を想うとき』の一家も、みな彼ら自身のせいで失業や貧困に苦しめられているわけではない。ひとつボタンの掛け違い、歯車が狂えば一瞬で奈落へと突き落とされる、それが現代社会である。セーフティネットが弱く人間関係も希薄な先進国においては誰もがいつ彼らと同じ境遇に陥ってもおかしくない。それが恐怖となって、今は人並みに生活できている人間たちからも心の余裕を奪い(いつ転落してもおかしくない)、困窮し助けを求める人たちに知らんぷりしたり下に見て叩いたりといった行動につながっているのではないかという気もする。自分自身が、余裕がないときは他人がどうだろうが知ったことじゃねえという気持ちになるクズ人間だからそう思う。不思議というかおかしいというか、弱い者たちこそ団結して格差社会を倒そうと団結すればいいのにできずに互いの足を引っ張り合うんだよな。強い連中こそ目的のために団結している(ように見える偏見)。

 

少し前に『アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した』という2010年代後半のイギリスの低賃金労働体験ルポを読んで感銘を受けたのだが、今回改めて『家族を想うとき』の町山さんによる評論を読んで、両者が重なる部分が多いのに驚いた。ケン・ローチ監督はかなり取材したのだろう。こういう厳しい現実をしっかり描いて観客に訴えるケン・ローチ監督は偉大だ。厳しくおぞましい現実をユーモアを交えつつ描くポン・ジュノ監督も偉大だ。日本でも昨年は『あのこは貴族』や『東京自転車節』など格差社会をテーマにしたいい映画が公開された。新型コロナウイルスによって格差はますます明確になっている。上級ホワイトカラーはテレワークができるのに下流ブルーカラーは感染リスクに怯えながら出勤して現場仕事をしなくてはならない。むろん自分も後者。なんとかならんかな。選挙には毎回行ってるんだがな。

 

 

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ジェームズ・ブラッドワース『アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した』を読んだ

 

イギリスのジャーナリストによる最低賃金労働現場の体験ルポ。原題はシンプルにHIREDなので邦題はだいぶ盛っているというか煽ってるというか。著者が体験したのはアマゾンの倉庫(フィルメントセンターと呼ばないといけないらしい)のピッカー、訪問介護、コールセンター、ウーバー(イーツじゃなくて配車サービスの方)の四つ。著者はこれら四つの仕事にそれぞれ別の都市(町)で就いている。仕事内容についてのみならず働く土地の現状や歴史についての記述もかなり多い。

 

アマゾンの倉庫があるのはかつて炭鉱で栄えた町だった。この町は鉱山の閉鎖により大量の失業者を出した。おそらく土地が安かったのだろう、アマゾンはここの土地に倉庫を建て、失業者たちを雇った。雇われた人々は最低賃金でろくに休憩もとれないような仕事を、それでも仕事がないよりマシと受け入れた。しかし現在(本書の執筆は2017年)ではアマゾンで働いている人の大半はイギリス人でなく東欧からの移民だという。

これらの町は、だいたい次のような道をたどることが多い。炭鉱が閉鎖され、多くの住民たちがしばらくのあいだ失業保険で食いつなぐ。最後には経済的な「再生」が訪れるが、それをもたらすのは往々にして、不安定で低賃金の仕事を提供する多国籍企業だった。これらの共同体にとっておそらくより屈辱的なのは、仕事を必要とする住民たちが、アマゾンのような企業にぺこぺこ頭を下げるだろうと見くびられていたことだった。

アマゾンの倉庫での仕事は辛い。最低賃金で、週ごとの労働時間の定めがないゼロ時間契約。ピックする数が少なかったりトイレから戻ってくるのが遅かったり、いやそれどころか体調不良で休んだり交通機関の遅延による遅刻をしたとしても、ピッカーを管理するマネージャーによって評価を下げられ、一定値以下になれば契約を打ち切られる。バスが渋滞にはまって遅れたのだから自分のせいではない、そんな言い訳をしたところで通じない。雇う側にしてみれば代わりの労働力などいくらでもいるのだ。著者は倉庫での労働(労働自体の肉体的過酷さもさることながら休憩時間に広大な倉庫内の移動が含まれるため実質的に短い)により、帰宅後は疲れ果てて何もする気にならなかった、と述べる。一日中時間に追い立てられて動き回った後で、帰宅して料理を作る元気は出ない。自然と食事はジャンクフードや冷凍食品など手軽だが健康的とは言えない、しかも金のかかるものになる。食事だけではない。「単純労働による身体的・感情的な消耗を、何かで補う必要に迫られ」、酒やタバコに手を出すようになる。これは「残された数少ない喜び」だから。また、彼ら最低賃金で働く低所得者には時間もない。仕事が終わってもマイカーがないからバスの発車まで待たねばならない。書類を提出する必要があれば印刷できる店を探さねばならない。派遣会社の明細がしょっちゅう間違っているので(ただし支給額が実際より多くなる間違いは絶対に起きない)問い合わせの電話をしなくてはならない。それらすべての用事を終えたあとようやく家に帰れる、ただし徒歩で。日曜日、中流階級の人であれば昼には多めに調理してそれらをタッパーに移し、家事を時短する丁寧な暮らしを送れる。一方で低所得者は日曜日も生活のために出勤しているか、疲れ果てて家で死んだように眠っているか、安い酒を飲んで酔っ払っている。丁寧な暮らしなんてのは余裕あるブルジョワにのみ許された贅沢なのだ。

 中流階級の人々を驚かせるのは、悲惨で哀れな仕事そのものではなく、そのような仕事に就く者たちが示す態度のほうだ(そういった態度を引き起こす原因がしばしば陰鬱な仕事そのものにあるという事実はとりあえず置いておこう)。ロンドンのオフィスという繭のなかで専門的な仕事をする中流階級の人々は当然のようにこう考える。労働者がジャンクフードと油と砂糖をたらふく食べるのは、彼らが怠惰で優柔不断だからにちがいない、と。結局のところ、中流階級の人間が同じようなことをするのは、心が弱ったときか、あるいはカロリー計算をきっちりしたときだけだ。つまり、彼らは自分が食べるに値すると感じたとき、チョコレートバーやケーキで自らにご褒美を与える。(略)一方、労働者階級の人々は、現実からの感情的な逃げ道として脂っこいポテトチップスを買う。ある午後にニルマールが私に言ったように、「この仕事をしていると無性に酒が飲みたくなる」のだ。

 まったくそのとおりだった。アマゾンの倉庫での仕事は、肉体的にきついだけでなく、精神的にもうんざりするものだった。1日の終わり、赤く腫れて熱を帯びた足に絆創膏が必要なのと同じように、この仕事には感情のための緩和剤が必要だった。専門的な仕事にはたいていなんらかの楽しい側面があるものだが、アマゾンの倉庫のような社会の底辺で働くのはまったく楽しいものではなかった。(略)シフトが終わって真夜中ごろ家に着くと、私はブーツを蹴って脱ぎ、マクドナルドの袋と缶ビールを手にベッドに倒れ込んだ。家に帰って30分ほど台所に立ってブロッコリーを茹でようなどとは思わなかったし、似たような仕事をする人のなかで、そんな行動をする人物に会ったことはなかった。

かなり長い引用になったがこの部分は自分には堪えた。貧困層ほど肥満率が高いといわれるのも上記のような生活と関係しているのだろう。労働がその人の人生を規定する。労働が原因で人が死ぬことだって決して珍しくはないほどに。この箇所を読んで、やはり労働は呪いだ、労働は悪だとの思いを一層強くした。

 

アマゾンの倉庫のような職場で働きたくないから若者は奨学金を借りて大学に行き、卒業と同時に借金を背負う。しかし今日、イギリスの大卒者の58パーセント以上が本来は学位を必要としない仕事に就いているのだという。政治家たちはこれ以上専門的な仕事を創出する経済状況を作ることができなくなり、結果、奨学金という借金を背負った何千人もの大卒者たちが、現場仕事をしたりコールセンターのクレーム処理をしている。まったく希望がない。

 

ウーバーもまたアマゾンと同じように労働者をいくらでも代わりがきくものとして扱う。彼らは言う、ドライバーはウーバーに雇用されているのではない、プラットフォームを貸しているだけの自営業者だと。ケン・ローチ監督の『家族が想うとき』の主人公と同じく、契約のときには「この仕事は自分が自分のボスになれる仕事だ」と綺麗なことを言う。しかし実際には自営業者の自由はウーバーにはない。一旦アプリをオンにしてしまえばウーバーのアルゴリズムの指示に従うのみ。客のいる場所が遠いなどの理由でキャンセルすればペナルティとしてそのあと何分かアプリが利用できなくなる。キャンセルを何度もすれば指導、しまいにはアカウントの永久利用停止。ウーバーが言うとおりドライバーが自営業者ならば料金や客の乗車に関しての裁量権は彼らにあるはずだ。しかしそんなものはない。客を乗せるまで目的地がどこかわからないし、距離が近いからとか客が泥酔しているからとか至極もっとも理由でドライバーが乗車拒否すればペナルティが、さらに先にはクビが待っている。自営業者がクビになるとは?

 

ウーバーのような仕事は「ギグ・エコノミー」と言われる。ギグとは「単発の仕事」。ギグ・エコノミーという経済形態は2008年の世界金融危機後に起きたものだという。2008年、イギリスには380万人の自営業者がいた。それが2016年には過去最高の470万人に増えた。

金融危機が起きてから自営業者の数は100万人近く増えた。楽観的な見方をすれば、積極的に独立して事業をはじめようとする起業家が増えていると考えることもできる。しかし、そこにはある疑いがあった。経済の多くの領域で利益率が低下するなか、企業は彼らが従業員ではないとうまく見せかけることによってコストを抑えてきたのではないか?

現代の資本家は、かつてディケンズが描写したような、シルクハットをかぶって葉巻をふかし、気に入らない労働者は蹴りとばす肥満体の紳士ではない。現代の資本家の多くは「ワイシャツの襟元のボタンを外し、袖をまくり上げ、多様性について熱弁を振るうような人々」──夢やら愛やら自己実現やら、美しい言葉を用いた爽やかな弁舌で巧みにこちらを魅了するような人々なのだ。だから恐ろしいのだ。

 

ウーバーは市場のシェアを拡大するために価格を低く設定する。客の中にはドライバーを人間扱いしないような不届き者が多数いる。低価格のサービスであることが客のそういった態度を助長している、とドライバーたちは口を揃えて言う。

「安い仕事だからだよ」とアマンは言う。「残念なことではあるけど、低賃金の仕事をしているとまわりから見下される。誰もこちらに敬意を払おうとはしない」

一日の大半を費やしてしたくもない労働を生活のために我慢してやっているだけでも苦痛なのに、さらに他人から屈辱を与えられるとは。

 

本書を読んで、繰り返しになるが、労働は呪い、労働は悪との思いを強くした。前述したが仕事のみならず土地に関する記述も多く、とくにコールセンターの章はかつてあった炭鉱の話が長かったので読み飛ばした。訪問介護の章も著者はほとんど仕事をしていない(就業許可が下りなかった)。なのでアマゾンの章とウーバーの章だけ読めば、多国籍企業による労働者の搾取、人間性の剥奪といった問題は読み取れると思う。遠い外国の話とは思わない。多国籍企業のやることはイギリスだろうと日本だろうと同じだろうから。他人事とも思わない。自分も五回転職をしているし、震災後は一年近く仕事がなく何十社も面接を受けて落ちた経験があるから。今多少は余裕ある暮らしを送れているのは偶然に過ぎない。著者の結びの言葉どおり、

 インターネット・ブラウザーを通して出前を頼み、クラブからの帰りにタクシーを呼び、紅茶を飲みながら商品を注文する──その便利さを謳歌する人物が、いつギグ・エコノミーの世界の住人になってもおかしくはないのだ。

この記事にアマゾンの商品リンクを貼る欺瞞よ。

 

 

読んだのが何年も前なのでもう内容は忘れたがこの本も低賃金労働の体験ルポで結構よかったような記憶が。

 

 

ケン・ローチ監督は偉大。

家族を想うとき (字幕版)

家族を想うとき (字幕版)

  • クリス・ヒッチェン
Amazon

 

年末年始は『メトロイド ドレッド』をやって過ごした

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年末年始の休暇はゲームをやって過ごしたい気分だった。ゲーム機はSwitchしか持っていない。『ホロウナイト』を達成率MAXになるまで遊び尽くした自分、同じメトロイドヴァニアで何かいいのないかとググったら『ENDER LILIES』が評判よく、トレーラーを見ると自分好みの退廃的な雰囲気だったので購入。二時間くらいプレイしたが動作がもっさりしているのと、キャラの当たり判定がイマイチ掴めず、スタンドみたいな特殊能力も種類は多いけれど攻略に役立つワクワク感がなく、棍棒を振り回すボスを倒したところで飽きてよしてしまった。で、メトロイドヴァニアがやりたいなら本家本元である『メトロイド』をやればいいのでは、ちょうど新作が出たばかりだし、と思い『メトロイド ドレッド』のダウンロード版を衝動買い。アマゾンだと定価より少し安くて6800円くらいだった。『メトロイド』をプレイするのは初めて。初代のプレイ動画を有野課長の番組で見たことがあるだけの超初心者。

 

冒頭、ストーリーの説明がムービーとともに流れ、金かけてんなあと感心。もともとゲームをやる方でもなく、ここ一年くらいはメジャーなソフトは買っていなかったので感覚が古い(ロマサガ3サガフロを買ったものの放棄してしまっている)。『ドレッド』は伝統的な2Dの横スクロールアクション。昭和の初代ファミコン世代にとってはスタンダードなデザインのザ・テレビゲームという印象。エリア内のステージはシームレスにつながっており移動はスムーズ。主人公サムスのアクションはどれも早く、操作のレスポンスもよく、動かしているだけで気持ちいい。スライディングや2段ジャンプはかっこいい。カウンターが決まると敵を一撃で倒せてさらに報酬が増えるシステムは楽しい。各ボスはどれも強く初見では倒せなかった。後半になると何もしてないうちに瞬殺されることも。でもどのボスも攻撃の前に予備動作があったり、攻撃のあと隙が生じたり、決して理不尽な難易度になっていない。初見で瞬殺されたラスボスも一時間もコンティニューしていると余裕で倒せるようになった。なんならノーダメでもいける。プレイが上達した実感が得られるのがアクションゲームの醍醐味だろう。

 

途中で攻略サイトや攻略動画のお世話になった。とくに終盤のボス戦で助けられた。慣れてしまえばなんてことないのだが最初はなんで死んだかわからないくらいのラッシュを食らっていたので。一度目のクリアタイムは11時間。アクションが下手な自分は途中何度も、多分100回以上死んでいるので、実際のプレイ時間はもっと長い。ボスよりも終盤のE.M.M.I.に何度もやられた。もしかするとE.M.M.I.だけで100回は死んでいるかもしれない。

 

終盤の紫E.M.M.I.とそのゾーンの構造にムカついたくらいで(あれはもはや恐怖ではなくストレスでしかなかった)あとは詰まることはなく、動画を見て「こんなのできねえ…」と諦めることもなく、死にながら覚えて、三日でクリアできた。ボリューム的にこのくらいがちょうどいい…いやこれでも少し長いかも。ノーマルモードでクリアすると、被ダメージが倍増するハードモードが解放されたのですぐにそちらもプレイして今度は7時間でクリア。年越しの瞬間は『メトロイド ドレッド』だった。サムスの軽快で機敏な動作、快適な操作性、徐々にパワーアップしていく楽しさ(グラビティスーツを入手したときは興奮度最高潮)、E.M.M.Iという恐怖(戦うとき動悸がやばかった)、アクションに凝ったボス戦など、自分はゲームをあまりしない人間だけれどめちゃくちゃ楽しめた。『ゼルダの伝説』をやったことなかったのに『ブレス・オブ・ザ・ワイルド』にハマりまくったように、『メトロイド』をやったことなかったのにこの『ドレッド』にどハマりした。自分が一番ゲームをやっていたのは十代の頃で、その頃はスクウェアの全盛期だったのもあり、SFCや初代PSのRPGばかりをやっていた。ドラクエとかFFとかロマサガとかクロノトリガーとか。アクションってほとんどやったことなかった。がっつりアクションをやるようになったのってSwitch買ってブレワイにハマって以降、それこそ四十歳になってからだと思う。ブレワイは、アクションゲームって面白え、と気づかせてくれたゲームでもあった。そのあとビジュアルが自分の好みにどストライクな『ホロウナイト』をやって、死んで死んで死にまくって(何百回も)、それでも真エンドを見られる程度にまでは上達した。このゲームにはサントラを買うくらいハマった。『ホロウナイト』の難易度に慣れてしまったので『ドレッド』で何回死のうが理不尽さは感じなかった。何回も死んでなおスムーズなゲームだなあ、開発した人たちすげえなあと感心していた。紫のE.M.M.I.を除いては。

 

自分が感じたこのゲームの欠点は紫E.M.M.I.(以下で述べる)と連続ジャンプのスティック判定、エリア間を移動するのにロード時間が長いことくらい。連続ジャンプのスティック判定が厳しいのかスティックを倒しているのにその方向を向いてくれないことがたびたびあってストレスだった。ラスボス戦で壁際から連続ジャンプで脱出しようとしているのにできなくてはまってしまいゲームオーバーになったことも。

 

以下、自分が苦戦した、それだけに思い出深い敵キャラについて。

・紫E.M.M.I.

なんと言ってもまずこいつ。こいつの出現ゾーンは水場が多くこっちはもっさりしか動けないのに壁を貫通するソナーを持ってすぐ検知して追いかけてくるのはずるい。ゾーンの構造的にこちらが入ってすぐの場所をうろうろしていることが多いのもムカついた。発見される前提でフラッシュシフトやスペースジャンプで逃げるしか対応策はないのかもしれない。ファントムクロークで透明になって逃げ切ろうとしてもちょうどジャンプするポイントに浮いている小さい敵が邪魔したり、前述したが水場も多いし、E.M.M.I.もゾーンも両方とも凶悪。こいつに何回殺されたか。それだけに倒したときは嬉しかった。

 

クレイド

第一形態のツメ飛ばしが早くてムカついた。ミサイルで対応。第二形態の腹から出る玉が、時々チャージビームの隙間をすり抜けて食らうのもムカついた。カウンターのタイミングがわからなくて30回はやり直した。こいつを倒したときのムービーがかっこいい。

 

・実験体Z-57号(ハードモード)

ハードモードだと被ダメージが倍になる。第二形態移行寸前の四箇所の砲台? をミサイルで破壊するのが遅れるとこっちの体力が満タンでも一瞬で死ぬ。ノーマルモードでも30回は死んだがハードモードでも慣れているはずなのに同じくらいやられた。こいつにカウンターしたときのムービーもかっこいい。ミサイル撃ちまくり。

 

鳥人兵士(盾)

第一形態は余裕。イカスミみたいなのと、ジャンプして突き刺してくるののダメージがでかく、動きも機敏で、単純な力比べで及ばず負けまくった。20回くらい。

 

・黒くて小さい群体(ハードモード)

黒い怪獣が口から吐くやつら。ビームで倒しきれなかったのが高速でまとわりついてきてハードモードだとすぐ死ぬ。水中エリアだったか、通路の先にこいつらがいて死にまくったことがあった。ビームではなくミサイルでまとめて対処。

 

 

 

エリアでは深海っぽいバルエニアが怖くて綺麗でプレイしていて楽しかった。深海はいい。

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あと、ゲームに疎いからなのだろうが、狭い箇所や敵に接近するとカメラ? が寄ったり、ムービーからアクションにシームレスに移動したり(ボス戦とか)、ムービー中なのに操作できる(ボス戦のカウンターやラストのイベントバトルとか)に技術の進歩すげえなあと感心した。サムスは女性だが本編中ほとんどそうと意識させる場面はなく、萌え(古い?)的な方向にいかないのも硬派で好印象。ストーリーは十分に理解できたとはいえないので、情報を求めて公式サイトへ行ったら過去作のストーリーやキャラクターの略歴など充実していて読んで面白かった。今はアイテム回収率100パーセントを目指してノーマルモードで3回目のプレイ中。ボス戦が近くなるとエリアの背景にさりげなくボスが登場している演出に3回目のプレイで気づいた。凝っている。