ある不快な出来事

詳しくは書けないのでぼかして書く。

 

今日、会社でフォークリフトを使って荷を運搬して、パレットから下ろして、荷を加工する作業をした。終わらせるのに30分くらいかかる。その作業は自分の職場じゃなくて社内の別の作業場を借りてやる。で、やってたわけ。荷を下ろして空になったパレットは作業の邪魔だから離れた場所に置いておいた。30分ほど経って終わったので後片付けして、空のパレットをフォークリフトで持って帰ろうとしたら、そのパレットに別のフォークリフトの歯が刺さってるのに気がついた。どうやら借りていた作業場のメンバーの一人が、自分のフォークリフト停車場所と(勝手に)決めている場所に俺が空パレットを置いたのが気に食わなかったらしく、無理やり自分のフォークリフトを停めて、フォークリフトは歯が前に出るからその分はパレットにぶっ刺して、そのまま本人はどこかに去っていったらしかった。

 

それを見て、なんだこれ、と頭に来た。俺がやってるのは仕事だよ? 自分のためにやってるんじゃないよ? 会社のため*1にやってるんだよ? それなのに、ちょっと自分のスペース(そんなものはない、本人が勝手に停車場所にしてるだけ)に物を置かれたからって、わざわざそこにフォークリフトを無理に停めてパレットに歯まで刺すか? どうせ30分もすればいなくなるんだから、その間離れた場所に停めるとか、どうしてもそこに停めたいなら空パレットどかすとかすればいいじゃん。あてつけみてえな真似しやがって。パレット持って帰るのにわざわざ相手のフォークリフトに乗って動かさなくちゃいけないし、マジなんなのと思った。意地が悪すぎる。

 

もう何年も前、短期間ではあるが同じ職場で一緒に仕事をしていた時期があったので相手の素性は知っていた。50代の独身男、気分のムラが激しくて、べらべら話しかけてきたかと思えば別のときには挨拶してもそっぽ向くような難のある性格。社内の評判も悪い。もちろん俺も嫌い。一緒に仕事していたころより気難しさというか性格の異常性が増しているように思えた。言いたかないが独身中年を拗らせているような。

 

でさあ、何がムカつくって、向こうは人見てそういうことやってんの。自分の方が年齢も勤続年数も上で、俺がヒラ社員で(相手もヒラだが)、前の職場では後輩だったから、「こいつにはこういう仕打ちをしてもいいんだ」と思ってやってる。俺が長と付く立場だったら絶対してこない。彼のような上下関係に強いこだわりがあるタイプは、上には従順な代わりに下には横暴に振る舞う。たとえ相手が部長だろうと、気に食わねえことするやつには好き勝手に振る舞うっていうなら、お、本物のマッドネスだな、と思って感心するけど、相手見て出したり引っ込めたりの風見鶏マッドネスじゃあ、俺のこと舐めやがって、見下しやがって、とムカつくばかりだ。俺がいい歳こいていまだにヒラという無能だからそういう扱いをされるんだと言われたらそれまでだけど。

 

あんな大人気ないことやって、本人は自己嫌悪とか感じないのかね。俺は一回りも年下の後輩やパートの人や派遣の人*2に対してそんなことしないけど…というかそもそもそんな発想が出ない。あー、なんかあいつら作業やってんな、フォークいつもと別のとこ停めとくか、で終わり。普通そんなもんでしょ? ああいう変なのがいるから独身中年は狂うとかいう言説があるあるっぽく語られるんじゃないか。俺も自分では正常と思っているだけで狂っているかもしれないが*3あそこまでじゃない。マジで勘弁してくれ。あんなのと同じカテゴリで括られたくない。

 

以上のことがあって、やっぱ会社って嫌なもんだな、と今日改めて思った。変な人間に不快な思いさせられながら労働しなくちゃならないから。会社内には俺に対して好意的に、または少なくとも敵意を(表面的には)見せずに接してくれる人が大半だから、悪い例を引っ張ってきて会社を語るのは間違いなんだろうけど、なぜ、ただ金を稼ぎに来ているだけなのに、業務とは直接関係のない、「同じ会社に勤めている人間のクソみたいな人間性」に不快な目に遭わされなくてはいけないのか。不快さって白いシャツに付いた墨汁みたいなもので、一度遭わされたらなかったことにはできない。一生その不快な記憶を抱えて生きていかなくてはならなくなる。いわば傷だ。魂に傷を付けられたのだ。この傷は一時的に存在を忘れることはあっても癒えることは決してない。クソみたいな人間関係の職場に何年もいたら病むのはだから当然なのだ。傷つきまくってぶっ壊れた魂は二度と元通りにならない。本当、やらずに済むならやるべきじゃないよ、労働なんて。

 

給料に不快手当付けてほしいわ。誰かに不快な思いさせられたら申告して手当がつくって給与体系、どうだろう。原資は相手の給料から引くようにすれば経営的な負担は減るんじゃない、知らんけど。それにそうなればみんな互いを不快にさせないよう気遣うようにもなるから職場環境もよくなるんじゃないの。

 

会社で舐められたくなかったら出世するのが一番ですね。それが無理ならそういう「評価(マウンティング)し合う」ゲームから降りる。どうやって降りるか? 金融資産を増やして経済的に自立すればいい。経済的自立には、会社内でしか通用しない「評価」なんて入り込む余地がない。

 

目指すべきは経済的自立、これに尽きる。会社を辞めようと思えばいつでも辞められる自由と、他者からマウンティングされようが意に介さない強さの確保。俺はふだん倹約生活を送って金を浮かせ、毎月少なくない額でオルカン積み立てている。そんな生活をもう8年送っている。これからも送る。今日、オルカンの基準価額が最高値を更新した。28,617円。トランプ関税ショックで大幅に下がった俺の資産額はとっくに復調して過去最高に増えている。春先に以下のエントリがはてブに上がっていたが、S&P500も最高値を更新している現状から振り返るともったいない気持ちになる。

anond.hatelabo.jp

 

上のエントリに触発されて書いた記事。

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

株式のリターンは下落するから得られる。だから怖がるのは誤り。もし怖いと感じるならそれは自身のリスク許容度を超えて投資してしまっている。インフレ基調の今後、資産を現金だけで保有しても価値は目減りする一方だ。うまく株式投資と付き合っていく必要がある、と思うが、投資はあくまで自己責任。お好きにどうぞ。

 

不快な出来事について書いていたのに最後は金の話になってしまった。金の話が好きなんだな。俺の金融資産は日々上下を繰り返しながら、多少嫌なことがあっても証券口座の資産額を見ると些細な問題に思えるくらいには順調に育っている。しかしまだまだ経済的自立には至っていない。FIREはたぶん俺にはできない。額が足りない。それにインフレが加速していくだろうこれからの時代、安定収入が得られるサラリーマンから早期リタイアするのは現実的な選択肢と思えない。ただ、FIREについて考えるのは好きなので、日々いろいろパターンを妄想してはいる。

 

 

 

普通の会社員でもできる 日本版FIRE超入門

普通の会社員でもできる 日本版FIRE超入門

  • 作者:山崎俊輔
  • ディスカヴァー・トゥエンティワン
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*1:それが回り回って俺の給与になるんだが

*2:相対的に当方の方が強い立場になる人たち

*3:自分の狂気を自覚するって原理的に不可能だ

夏の賞与で買いました

今年は去年より賞与が多少上がった。しかし税金と社会保険料をたくさん取られて額面の割に手取りがさほど増えていないのが腹立たしい。

 

例年、賞与が出たからといってとくに散財はしない。使わずに現金をキープしておいて翌年のオルカン購入資金に回すのが常。今年の夏季賞与もそうするつもりだが、タイミングよく欲しいものができたので一部をそれらの購入資金にあてた。

以下、買ったもの。フィギュアとブルーレイ。

 

ねんどろいど フリーレン

とうとうフィギュアに手を出してしまった! これまで500円ガチャの小さいフィギュアくらいしか買わずにいたんだけど、来年から2期が始まるのにテンションが高くなったか、急に欲しくなって買ってしまった。フリーレンはいいキャラですね。キャピキャピしてないし、性的でもないし、「〜だわ」「〜よ」みたいな女言葉を使わないし(今時は大概のキャラクターがそうかもしれないが)。少女でありながら年寄りでもあるようなユニークなキャラ。冬服Ver.と迷ったけど普段着で杖持ってる方がオーソドックスでいいかなと思いこっちにした。

 

投げキッスしててもお子様が背伸びしてるようにしか見えなくて微笑ましい。

 

ねんどろいど買うなら初恋の相手であるディードリットを買うべきかもしれなかったが、フィギュアの出来としてフリーレンの方がよくできているように思えたのでこっちにした。すまんディード。

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

あまり大きいサイズだと圧迫感があるのでねんどろいどくらいがちょうどいい。

 

 

ケリー・ライカート ブルーレイBOX

発売されたばかりの6枚組BOXセット。ケリー・ライカート作品は配信でこれまでに三つ見ている。『オールド・ジョイ』『ミークス・カットオフ』『ウェンディ&ルーシー』…どれもよかった。今年1月にはスクリーンで初めてライカート作品を見ることができた。

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『オールド・ジョイ』や『ウェンディ&ルーシー』で描かれるアメリカ郊外の風景が好き。どちらもストーリーは切ない。

 

配信全盛のこの時代に決して安価ではないブルーレイBOXを買うのは贅沢すぎる出費かもしれない。けれどもこの機会を逃したらいずれ品切れになって買えなくなるだろうと思い(そういうBOXセットはたくさんある)、購入を決意。『リバー・オブ・グラス』と『ライフ・ゴーズ・オン』は未視聴。夏季休暇に見ようと思っている。

 

 

『羊たちの沈黙』『セブン』『シャイニング』ブルーレイ

Amazonのほしいものリストに入れておいて値下がりを期待していたディスクがプライムセールで安くなったので購入した。自分は少し前に17年間入会していたプライム会員をやめたばかりである。プライムセールの価格は会員限定。諦めかけたが、1ヶ月間会費無料だったので再入会して会員価格で買うことができた。無料期間が過ぎたら更新はしない。

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

3作とも俺にとってのオールタイムベスト映画。

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ちょっとだけ見るつもりで再生したところ見入ってしまった。何度も見ているのに。『羊たちの沈黙』と『セブン』は複数の日本語吹き替えが収録されている。

 

ケリー・ライカートといいディスクを買ったのは年単位でサブスク入会はしない、と決めたから。物理メディアで所有し、サブスクに頼らず好きなときに好きな映画が見られる環境を整える。サブスクは急にラインナップから外れたり、吹き替えが見られなくなったりと、生殺与奪の権をプラットフォーム側に握られている感が強くて落ち着かない。と言っても光学メディアの寿命は10年かそこらとも言われるからいつまで整えた環境が保つかはわからないが。

 

ULTRA HDなんて俺の15年もののDIGAでは再生できないし、4Kディスク一枚にしてその分値段を安くしてくれたらいいのに、と思わずにいられない。奮発して高画質なディスクを買ったけれども、本当のところ俺は映像マニアではないので、通常のブルーレイ程度の画質で十分満足できる。どれほどディスクが高画質であっても、記憶の中で反芻する「影」には、画の美しさは影響しても画質の高低はさほど影響しないようにも思う。

 

俺のDIGA、読み込みエラーが頻発するのでそろそろ買い換えが必要。しかしもうこれ以上夏の賞与を使う気はない。買い換えるなら冬の賞与でだ。

 

 

最近読んだ本(2025年6月)

5月は小説ばかり読んで飽きた。なので6月は小説以外のジャンルを読んだ。本はいい。読むジャンルがいくらでもある。嫌になれば途中で放り出せばいい。それを書いたのが歴史上の偉人だったとしても関係ない。会社ではこうはいかない。しょうもない話でも上司がするなら拝聴拝聴。それと比較すると読書がいかに民主的な営みであるかを実感する。

結果的には今自分が関心ある、薬物と東日本大震災についての本ばかりを読んだ。

 

キメねこ『キメねこの薬図鑑』

LSD、大麻、脱法ハーブ、マジックマッシュルーム、アヤワスカ、市販薬などさまざまなドラッグの体験記。ドラッグでどう身体や精神が変容するかをかなり具体的に言語化、ビジュアル化して伝えている。自分は煙草もアルコールもやらない人間だが、本書を読み、まったりした多幸感に浸れて感受性が増大するという大麻を体験してみたくなった。いやできないんだが。大麻のためにオランダへ行くほどの行動力もないし。

 

LSDをやると「指先がうっすら痺れ皮膚全体が突っ張る」「意識そのものに集中線をかけたようなスピード感」「瞳孔が全開になるせいで世界が異常に明るい」「空間把握能力が狂い物体の遠近がハチャメチャになった」「瞼の裏で広がる壮大な万華鏡」「しだいに手足の感覚も曖昧になっていき」「やがて宇宙とひとつになった」。変性意識状態は8時間続き、やがて疲れて眠ると、翌日は5時間程度の眠りでも信じられないほど寝起きがよかったという。著者はこのLSD体験を「インスタント禅」と呼んでいる。ヨガの行者は修行によって血中の二酸化炭素濃度の上昇やアドレナリンの分泌等人体の化学反応を人為的に起こして脳のリミッターを解除する=無の境地に達する。薬物の力を借りて手っ取り早く同じ境地に達しようとしたのがハクスリー『知覚の扉』である。キメねこさんの姿勢もハクスリーと同じ薬物による精神変容の実験と見える(愛読書が『正法眼蔵』)。もちろんこのような実験を日本で一般人が行えば罪に問われるので本書の終盤は留置場体験記となる。

 

「図鑑」のタイトルどおり薬物に関する情報量がすごい一冊。かつて横田基地そばの雑貨屋で合法ハーブがお香として売られていたとか、映画『ミッドサマー』の幻覚描写はかなり実際に近いなど豆知識も得られて楽しい。

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キメねこ『キメねこの断薬記』

『薬図鑑』の続編。大麻取締法違反で執行猶予となった著者による断薬の記録。メロンブックスで購入。

 

当初は違法薬物がだめでも合法薬物ならいいんだろと起きてる間は1時間おきにブロン10錠をアルコールで流し込む生活を送っていたが、購入に困難が生じる&金がかかりすぎるため断薬を決意。当初は離脱症状に苦しむが4日目から落ち着く。「薬物依存は薬物そのものに対してではなく他に何か問題を抱えていてその苦しみから逃れようとするために生じる」とは依存症専門の精神科医松本俊彦先生の見解。キメねこさんの場合薬物摂取は実験的な面が大きいからか、すんなりやめられている。描かれていない葛藤があったのかもしれないが。

 

キメねこさんは2024年時点で33歳。「年々、麻薬に対する情熱が冷えていく」という。理由は、体力の低下、耐性がついて楽しくない、睡眠薬に凝りだした、神秘はシラフでも探求可能なことに今さら気づいた、の4点。この最後のが気になる。

 

青山正明は『危ない薬』に、さんざんドラッグを紹介したあとで、知識を学ぶことの快楽はほかのあらゆる快楽装置を凌駕するとか、良心の刺激こそ超ド級の快楽である、と書いていた。曰く、朝、顔を合わせた隣人に「おはようございます」と声をかけるだけでハッシシ一服分くらいの快楽は容易に得られる、この快楽の素晴らしい点は自分だけでなく周囲をも幸せな気分にすることであると。大麻、憧れてもいざやってみたら意外と「あ、こんなもん?」となるかもしれないし、とりあえず代用(?)的に毎朝職場に着いたらでかい声で「おはようございます!!」とかますことで満足するとしよう。

危ない薬

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本書の最後にキメねこさんの父親の話が出てくる。重度のアル中でヘビースモーカーで病院には一切行かない不摂生の極みのような生活を送っていた彼は50代で小脳出血が原因で亡くなる。「人間は不摂生を重ねると血圧が高まり、やがて血管が破れ死ぬ」、「不摂生を究めし人間は50代で命を落とす」、「私はこの年齢(50代)を「不摂生限界」と呼ぶことにする」。逆に言えば50代まではメチャクチャな生活をしてても体はもつということでもあるか。

 

finalventさんは以下の記事で無謀な人生でも50歳までは生きられると書いているし、どうやらそのあたりの年齢が分水嶺のようだ。俺は独身のくせに長生きしたいと思っている珍しい人間(?)である。理由は世の中で起きることを観察したいから(自分が生きている時代にカルト団体によるテロや大震災や感染症パンデミックや手製の銃による元首相暗殺事件が起きるなんて想像もしなかった、世の中は次から次へと不可思議なことが起きる、いずれは第三次世界大戦か?)。望みを叶えるため今以上に節制した生活を送ろうと気持ちを新たにした。

 

finalvent.hatenadiary.org

 

 

松本俊彦『身近な薬物のはなし』 

以下、ブクログに書いた感想をコピペ。

依存症の専門医による薬物の依存性と歴史の話。初めて知る話が多く面白かった。

 

ユーラシア大陸にはアルコールと茶、アフリカ大陸にはコーヒー、アメリカ大陸にはタバコ、人類は薬物とともに生きてきた。

 

本書の主張は以下の3点に集約される。
・薬物の違法/合法は医学的にではなく、政治的に決定される
アルコールが合法で大麻が違法なのは薬学的ではなく政治的な理由による。
・「よい薬物」も「悪い薬物」もなく、あるのは「よい使い方」と「悪い使い方」だけ
所謂「よい薬」であるはずの処方薬や市販薬も使い方次第でさまざまな健康被害を引き起こす危険性がある。
・「悪い使い方」をする人は何か別に困りごとを抱えている
労働環境や家庭環境や戦争など過酷な状況に置かれている人がそれを耐えるために薬物に頼っているケースが少なくない。

 

「人類に最も大きな健康被害をもたらしている薬物のビッグスリー」はアルコール、タバコ、カフェイン。ビッグスリーほどの深刻な問題をもたらしていないにも関わらず厳しい規制の対象とされてきたリトルスリーがアヘン(オピオイド類)、大麻、コカ。本書を読むと大麻の規制はめちゃくちゃ政治的な理由で呆れる。大麻よりアルコールの方が有害な薬物なのに(「あらゆる違法な薬物をしのいで、「最悪の薬物」」)合法なのは政治的、社会的理由による。

 

アルコールにせよ、カフェインにせよ、タバコにせよ、歴史上幾度も施政者が規制しようとして失敗してきたのには理由がある。大勢で集まって酒やコーヒーを飲み、タバコを吸うことは「同士や部族の結束を固く」する。人は社会的動物、互いにつながろうとする。そのよい触媒となる薬物を規制しようとするならば猛烈な反発を招くのは必然で、施政者の失脚にもつながりかねない。また規制したところで人々は別の、場合によってはより危険な薬物で代用しようとするため効果が薄い。

 

最終章で紹介される幻覚成分シロシビンによるうつ病治療の研究が進んでいるという報告は「よい薬物/悪い薬物」の区別がいかに的外れかを示す。シロシビンには人為的にマインドフルネス状態を作り出し、人間の意識を改変する効能がある。すでにオーストラリアでは治療薬として承認されているという。

 

自分は酒は月に二三杯、タバコはやめて8年。摂取するとだるくなる、吸える環境が減る一方、金がもったいないなどの理由から、今後の人生でこの二つの薬物と深く付き合うことはもうないと思っている。カフェインだけは別で、寝起きに飲まないと頭が回らない。ルイボスティーに変えて断とうとしてみたがぼーっとしてしまいつらかった。本書を読むと長生き効果や心臓疾患への罹患リスクを減少させるなど養生効果があるみたいなのでやめなくていいのかなと。うまく付き合っていきたい。

「よい薬物」も「悪い薬物」もなく、あるのは「よい使い方」と「悪い使い方」だけ。このことは忘れずにいたい。

 

タバコも酒もコーヒーも、みんなで集まって雑談するのをスムーズに助けてくれる面がある。そしてコロナ禍で判明したように、人間は社会的動物であり基本的には大勢で集まりたい生き物である。人間嫌いな俺ですら一人夜勤を三日も続けていると無性に人の顔が恋しくなったりする(親しい人の顔ね、嫌な野郎の顔なんて見たくもない)。だからタバコ、酒、コーヒーを禁止するってのは人間の本性を否定するのに等しい。不可能に決まってる。

 

シロシビンについては少し前にはてブにも上がっていた。幻覚剤はうつ病やPTSDの治療に効果があるとして現在研究が進んでいる。オーストラリアでは治療薬として承認されている。

gigazine.net

 

 

松本俊彦 横道誠『酒をやめられない文学研究者とタバコをやめられない精神科医が本気で語り明かした依存症の話』

以下、ブクログに書いた感想をコピペ。

タイトルの二人による往復書簡。
松本俊彦さんの依存症に関する専門家としての知見は自分には新鮮で、依存症に対する「本人の意思の弱さ」的なステレオタイプを覆されて目から鱗の連続だった。

 

・人は皆何かしらに依存している弱い生き物
・依存性薬物使用経験者のうち依存症の診断基準に該当するのは1割程度。人間は飽きっぽい動物。どんな気持ちがいいものでもすぐに飽きてしまう。「一度やったら人生終わり」は大げさ。

・薬物、ゲーム、ギャンブルに執着する人たちは快感からではなく苦痛の緩和からそうしている。快感は飽きるが苦痛の緩和は飽きない。
・「最大の悲劇はひどい目に遭うことではなく、ひとりで苦しむこと」。自助グループの効果は仲間たちとつながれることにある。
・レバーを押すと麻薬が投与される檻にネズミを入れるとネズミはレバーを押し続けるが、これは薬物に依存してそうしているのではない。檻の中で孤独だからそうしている。仲間たちと同じ檻に入れると麻薬には見向きもせずに仲間とじゃれ合ったり交尾したりする。麻薬の摂取経験があってもそう。この実験は、依存症の本質は孤独にあることを示している。
・発達障害やPTSDの人たちは依存症に対して親和性が高いが、そういう人たちはえてしてコミュニケーションに困難を抱えているため人とつながるのが苦手で孤立しやすい。
・「自立とは依存先の分散」
・依存症は人を死に追いやる危険性があるものの、それがあるからこそ「しんどい今」を生きられている面もある。「アディクションは長期的には自殺の危険因子だが、短期的には保護因子として影響する」
・今や薬物依存症外来を訪れる患者の半数は、医薬品という「逮捕されない薬物」「取り締まれない薬物」で困っている人たち
・一般に薬物規制をむやみに強化すると、闇市場が繁盛するとともに、以前よりも危険な薬物が流通するようになる。
・依存症問題を家族だけで解決しようとするのは危険。
・「家族は病気の温床」
・「死にたいくらいつらい現在」を生き延びるのに依存症になるのは最悪ではない。少なくともただちに死ぬよりはマシ。しかし依存症に頼って延命するだけでは長期的には死が近づいてしまう。

 

ネズミがドラッグにハマるのは孤独だから。仲間とわちゃわちゃすることはドラッグよりも覿面に「効く」。

 

依存症は何か別に問題を抱えていてそれから目を逸らすため、つらい現実を生きていくために生じる。たとえば毎夜部屋に父親が入ってくることに苦しんでいる少女はリストカットや薬物摂取することで今日を生き延びられる。しかしそれを長く続ければやがて事故かODで死ぬ。依存症が「長期的には自殺の危険因子だが、短期的には保護因子」と言われる所以である。対症療法であって根本的解決ではない。そういう人に対して第三者が「リストカットやドラッグなんてやめなよ」と「アドバイス」するのがいかに無意味で残酷であるか。中島らもは『アマニタ・パンセリナ』で鎮咳薬だかをやめられずに自殺してしまった高校生にふれ、「死ぬくらいなら続けりゃいい」と書いたがその通りだと思う。依存症の治療をしようにもまず生きてないと始まらない。生きてこそだ。

 

 

「家族は病気の温床」という話もよかった。家族、本当にそんなにいいものでしょうか? 結婚すれば、出産すれば「おめでとう」、大半のケースではそうなのかもしれないですが、日本の殺人事件の半数以上は親族間で起きている現実から考えるに、距離が近すぎるがゆえに生じる問題というのもまた多々あるように思います。

 

 

オルダス・ハクスリー『知覚の扉』

ペヨーテからとれる幻覚剤メスカリンの摂取記録。サイケデリクスムーブメントの火付け役になった一冊。

 

ハクスリーが依拠する説によると、人間は本来偏在精神を受信できる存在である。偏在精神とは宇宙で起きている事象を知覚することを指す。しかし偏在精神は膨大な情報量のため人間にとって多大な負荷となる。そのため生存に必要な情報だけを選り分ける減量バルブが要る。脳や神経系がそれである。メスカリンはその減量バルブを解除する。すると途端に偏在精神が意識に流れ込んできて、通常の知覚では捉えきれない神秘体験が可能になる。偉大な芸術家は生まれつきこの減量バルブを解除できており、その状態で創作活動を行なっていた。宗教家が神秘体験に至るのも過酷な肉体的・精神的修行により人為的に減量バルブ解除を行うからである。この境地へ薬物の力で手っ取り早く至ろうというのがハクスリーの姿勢。メスカリン摂取後、テーブル上の花に永遠を、椅子に無限を、履いているズボンに絶対を見る視覚と意識の変容。キメねこ『薬図鑑』のLSD体験、ベッドのシーツの皺がグランドキャニオンに見えたという報告とよく似ている。幻覚剤も一度試したくなる。いや、だから無理なんだが。

 

 

リチャード・ロイド・パリー『津波の霊たち』

東日本大震災の津波で多数の児童及び教職員の犠牲者を出した石巻市立大川小学校で起きたこと、震災後に東北地方で頻繁に目撃されるようになった幽霊についての考察、二つの話題が中心。両方の話が飛び飛びで記述されているのでちょっと読みづらさがある。

 

被災者たちの忍耐や自制心を称える一方で、そんなに我慢しなくていいのではないかと訴えるなどの視点は外国人記者だからこそと思える。被災者に対してそんなふうに述べている意見を目にした記憶がなかったので新鮮だった。

 

大川小の出来事は、津波はここまでこないという油断、津波からの避難場所を事前に考えていなかった怠慢、教員たちの防災意識が低く避難してきた地区住民の声に引っ張られてしまった、判断に時間がかかりすぎた等が原因と思しい。最終的に教職員と児童たちは自ら津波に向かうかのように三角地帯へ進んでしまう。多大な犠牲が出、今も見つかっていない児童がいる。

 

幽霊については大事な人を失った悲しみから心を癒すための物語として機能しているのかなという印象を持った。喪失感、自責の念、怒り、悲しみ…残された人がそうしたものを受け入れ、立ち直り、生きていくために。あとで読んだ『呼び覚まされる霊性の震災学』によると、幽霊を自然と受け入れるような懐深い土地のメンタリティもあるようだ。

 

 

河北新報社報道部『止まった刻 検証・大川小事故』

以下、ブクログに書いた感想をコピペ。

『津波の霊たち』でも震災発生時の大川小学校での出来事が資料をもとに再現されていたが本書はより詳細にそれがされている。のちに一部の遺族が起こすことになる訴訟は、当日何が起きていたのか真実を明らかにすることにあった。しかし当事者の大半が津波で亡くなってしまったのと、唯一大人の生存者である教務主任が病気で姿を見せないため、真相解明には限界があった。

 

大川小学校は海から4km近く内陸にあり、ハザードマップの津波浸水予想区域外だった。当日非常時の指揮をとるはずの校長が不在だった。学校は津波発生時の避難経路についてマニュアル化していなかった。学校は地震発生時の避難先だったため近所の住民が避難してきていた。以上が、地震発生から50分間校庭に留まり続け避難しなかった原因だろう。裏手に1分もあれば子供の足でも登れる山があったのに、広報車が決して近づくなといった堤防へ避難を始め途中で津波に襲われる。時系列で当日を再現していく過程は結果を知っているから読んでいて恐ろしくなる。学校側が避難場所について把握しておらず地域住民の言葉に従って、山ではなく堤防へと向かって被災したようにも見える。子供たちの命を守る意識が低いと言われても仕方ない。

 

のちの学校側や市の無神経な対応を見ると遺族側が不信感を募らせるのは当然。校長が学校に来るのが遅すぎる。しかも捜索に参加せず職員室の金庫を探すなんて。この校長が就任して以降、学校と地区とのつながりが弱くなったみたいな指摘がある。防災意識も低い。市教委が遺族への説明会で口に指を当てて迂闊に喋らないようジェスチャーするとか、病気を理由に最初の説明会以降教務主任が姿を見せないとか、第三者委員会も市寄りだし、メモやメールは廃棄され、学校や市教委は遺族感情への配慮より組織の保身を優先している感が強い。遺族が真相を知りたければ訴訟しかなかった。

 

マニュアルの不備による学校側の過失を認めた高裁の判決は妥当と思える。真実を知っている教務主任は裁判にも姿を見せなかった。2018年時点で休職中、休職期間は通常3年が最長というから異例の長さ。その間給料は出ていたのだろうか。2018年以降は退職したのか、それとも休職のまま定年を迎えたのか(2025年で63歳)。いつか姿を現し真実を語ってほしい。

6月初旬、大川小をはじめとする東日本大震災の震災遺構を見学してきた。被災から14年が経つ今も大川小の献花台には花が供えられていた。夏のような強い日差しの中、遺構となった校舎はスズメたちの栖になっているのか囀りが賑やかだった。グラウンドの向こうには鬱蒼とした山。ここに全員で避難できていれば…。一方で三角地帯は北上川のすぐそば、津波が来た事実を知った今では、どうして、としか思えない。後からならなんとでも言える。

 

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

 

東北学院大学震災の記録プロジェクト『呼び覚まされる霊性の震災学』

以下、ブクログに書いた感想をコピペ。

震災後の幽霊現象、慰霊碑、震災遺構、二つの墓、被災のコールドスポット、遺体の改葬、消防団の活動、原発避難地区での狩猟。どれも大きく報道されることはない、しかし被災地の住民の生活に関わる話題についての論考集。貴重なフィールドワーク。

 

すべて興味深かったが、とりわけコールドスポットの話が印象的だった。当時の自分も連日報道を見るにつれ情緒不安定になった過去があった。直接的には被災していなくても自分もある意味では被災したのだ、と当時の心理に説明がつくように思えた。
「あの時のつらい体験は、死んだ人の内訳や数ではない。被災した・しないも関係ない、みんなその人の中でのMAX(最大のもの)だったの」

 

被災地で幽霊現象が増えるのは生存者が亡くした人たちを想うから、そして気持ちを整理する必要があるからだろう。コリン・ディッキーの『ゴーストランド』にも、ハリケーン・カトリーナの被災地で幽霊がたびたび目撃されたという話が出てくる。

 

 

震災遺構の保存に関して原爆ドームを例に挙げる箇所がある。原爆ドームとなった元広島県産業奨励館は、戦後間もない時期、アメリカから撤去の圧力があり、また3割以上の市民が解体を望んでいた。しかし復興を優先していたため保存か撤去かの合意形成は先延ばしになり、結果的に長い間放置された。遺構として永久保存が決定するのは1966年、終戦から19年後のこと。この決定が出るには、19年の間に起きた少なくない数の住民の心情の変化──「悲惨な過去を思い出すから見たくない」から「二度とあのような戦争を起こさせない」ための象徴への変化──があったのではないか。もちろん、この19年間にも多くの方が被爆後遺症で亡くなっている。

 

阪神・淡路大震災のあと、食事も睡眠もとらずに連日テレビ報道を見続けた妻が、理由を一切告げずにある日突然失踪するという村上春樹の短編がある。それを読んだとき、彼女がなぜその行動をとったのかわかる気がした。俺がやったのもそれに近い。

独身中年、北へ - 生存記録

どう「わかる」のかについて書いていないので今ここに書くと、あれほどの大災害を見てしまった以上、もう昨日までと同じ自分ではいられない、と感じたのである。たぶん失踪する妻も同じ気持ちだっただろう。彼女が日々感じていながら自分の中に封じ込めていた違和感や疑問が災害をきっかけに雪崩れた。もう夫とは暮らしていけない。そう思ったから去った。俺も似た行動をとった。突発的に会社を辞めた。だが同僚たちからすれば俺は、誰もがつらかったあの時期にさっさと逃げ出した卑怯者としか見えなかっただろうことも、あれから14年が経つ今は理解できる。

 

直接自分は被災していなくても震災によって両親を失った塩竈市の女性は自らも被災したのだと自覚する。そして災害で家族10人を失った人と2人を失った人のどちらがより「哀れ」であるのかを比較することの無意味さを述べる。なぜなら被災とは「その人が生きてきた中でMAX(最大限)の不幸を経験したこと」としか表現しようがないものだからだ。あの当時、連日、テレビに映し出される津波の映像に恐れ慄きながら見入っていた、東北から遠く離れた場所にいた自分もまた被災していたのだと思う。いや、あのとき日本中の人が被災し、傷ついていたのだ。福永武彦は被爆をテーマにした長編小説『死の島』で登場人物の一人にこう言わせている。

戦争が終わってからだって、日本人はみんなクライシスの中にいる筈よ、世界中の人間はみんなその筈よ、

あの震災もまたクライシスだった。あれからずっと「震災後」を生きている。

 

今振り返ると東日本大震災は俺にとって人生の転機だった*1。だから何だって話だが、そして14年も経った今更かよって話でもあるが、かつての被災地へ行きたい気持ちは何年も前からあったように思う。行けば何か気持ちに整理がつくとでも思ったのか。わからない。気持ちをうまく言語化できない。

独身中年、北へ - 生存記録

上の記事を書いてからずっと「気持ちをうまく言語化」しようとしてきた。多少は練れた。まだ、こうだからと言い切れはしないけれど、これまで怖くて直視できなかった傷跡を時間の経過によってようやく見られるようになったのだと思う。だから行った。今月も行く。

 

 

銚子で初・日の出を拝み、成田山新勝寺に圧倒される

一泊二日で銚子へ行ってきた。銚子へ行くのは初めて。千葉には行ってみたい場所がいくつかあるのだが埼玉からだとアクセスが不便なため行けていない。

 

土曜朝9時出発、圏央道経由で最初の目的地である一山いけすに昼過ぎ到着。広い駐車場に車を停めて降りたとたん、目の前の海から磯の香りが強烈に鼻をつく。海だ、と実感する。猛烈な日差しと暑さ。夏だ、と実感する。まだ一応6月なのに。

 

混んでいたので20分ほど待たされた。店内には店名のとおり大きないけすがあってユニーク。鉄火丼と焼牡蠣をオーダー。忙しいらしく提供に時間がかかった。食べてみると魚介はもちろんだが米が旨く感じた。牡蠣、俺は生より加熱調理されてる方が好き。安心感がある。

 

地球の丸く見える丘展望館へ向かう。紫陽花がたくさん植えられていてちょうど見頃だったのは予期しなかった収穫だった。

 

展望台からの眺望。

 

館内、アマガミの展示が目についた。タイトルだけは聞いたことがあるが内容は知らない。銚子はゆかりの土地らしい。なぜUFO? と思いあとで調べると銚子はUFOの目撃情報が多いんだとか。スタンプカードがあったので何も考えずに押す。

 

展望館を出る。犬吠埼灯台へ向かう途中にあった満願寺に寄ってお参り。

 

犬吠埼灯台。大勢の人で賑わっていた。99段の階段を上る必要があるので入るのはやめておいた。体調万全ならともかく長時間の運転と日差しと暑さでだいぶ疲れていた。

 

東映映画のオープニングで流れる荒磯に波が砕けるシーンはこの灯台下で撮られた。失念していたので当該場所の写真はない。近いイメージのが一枚だけ。

 

灯台のすぐそばにある絶景の宿犬吠埼ホテルにチェックイン。広縁のある和洋室。広縁はいい。温泉に入って汗を流す。露天風呂からは君ヶ浜がよく見えた。眠くなったので夕食まで少し横になった。

 

夕食はコース。各品が少量ずつ、だが食べているうちに腹が膨れていく。胃が強くない独身中年、量が食べられない。切ない。二人だったので気が大きくなってレモンサワーを頼んだ。一人旅のときと違い体調がおかしくなることはなかった。が、ソフトドリンクでもよかった、とあとで思った。あえて酒を飲む理由がない。

 

食後、部屋に戻るとすぐに猛烈な睡魔に襲われ、深夜2時過ぎまで爆睡。海からの日の出がみたく、4時頃支度を整え、車を出し、ホテルから目と鼻の先の君ヶ浜へ。ここは本州で一番早く日の出が見られるスポット。到着するとすでに先客が何人もいた。三脚構えた人も数人。この日の日の出予想時刻は4時24分。

 

日の出が近づくにつれ徐々に空がグレー→ピンク→オレンジへと染まっていく。思えば俺は本当の日の出を見たことがない。本当の、というのは海から今まさに昇ってくる瞬間の太陽のことで、埼玉には海がないから日の出が見られる海まで移動してさらに早朝にその場に居合わせなくてはならないわけで、それをやる機会が47年間の人生になかった。この歳になって初の日の出鑑賞体験である*1。地球にとっても太陽にとっても、人類が冬のある一日を元日として設定し一年のリセット日としたことなど無関係である。暦があろうがなかろうが天体は運行する。元日の日の出だからいっちょ頑張って綺麗なのを見せてやるか、なんてことは起きない。この日の日の出も元日の日の出も同じ日の出。そう考えれば6月29日の日の出を初日の出と俺が思い込もうと自由なのではないだろうか。そう思おう。この日君ヶ浜で、俺は人生で初めて初日の出を拝んだ。初・日の出。

日の出8分前

日の出5分前

日の出

みるみるうちに昇ってくる



念願の日の出を拝んだあとはその足で銚子電鉄の外川駅へ。レトロ感溢れる駅舎の写真を人がいないうちに撮っておきたかった。趣深い。素晴らしい。


外川駅からすぐの場所にある長九郎稲荷神社へも行くつもりだったがすっかり忘れていてホテルへ戻ってしまった。朝風呂に入り、朝食までの間、一日のプランを同行者と練る。

朝食はバイキング。かなり充実したメニュー。あれもこれもと欲を出して取ってしまう。食いまくって満腹。

 

この日の予定は、昨日地球の丸く見える丘展望館でなんとなく押したスタンプラリー(EeeE銚子 運気上昇の旅スタンプラリー)が5箇所を制覇するとグッズが貰えるそうなのでこれをやって、そのあと帰り道の途中にある成田山新勝寺へ寄って帰る、に決まる。

 

スタンプラリーの5箇所は地球の丸く見える丘展望館、犬吠テラステラス、飯沼観音、犬吠駅、銚子駅。このうち最初の二つはすでに押印済み。車で回った方が効率がよさそうだが、「崖っぷちライン」である銚子電鉄を応援したい気持ちがあり、あえて電車で回ることにした。

 

ホテルをチェックアウトし、最寄りの犬吠駅へ。車を停め、Suicaは使えないので一日乗車券を購入。三つめのスタンプを押す。犬吠駅は銚子電鉄のお土産が買えるほか、撮影用映えスポットや岩下の新生姜ミュージアム別館や写真展示やジオラマなどがあって楽しい。

 

電車は線路際に生えた木の枝を擦りながら走行する。窓の外にはトウモロコシ畑。ローカル感に和む。宣伝費として回収しているのか、各駅に妙な駅名表示あり。

 

観音駅で下車、飯沼観音へ。

日常風景に風車が溶け込んでいる


午前中なのに暑さと日差しがやばかった。観音駅周辺は住宅街で、店はシャッターが下りていて眠ったような町。人の姿はほとんどなく車だけが走っている。本堂で四つめのスタンプを押す。一服できるような店が見当たらず、早めに駅に戻り、自販機でドリンクを購入してベンチで休んで電車を待った。

 

次の目的地は銚子駅だったが一つ手前の仲ノ町駅で下車。ここもレトロな駅舎なので写真を撮りたかった。降りるとすぐにヤマサの醤油工場。かなりの広さ。醤油か原料が入っているのだろうタンクがたくさん並んでいた。

仲ノ町駅から銚子駅までは650メートルなので徒歩で向かう。


銚子駅へ到着。駅舎に表示されているJRの緑の文字を見て見知った場所に帰ってきたような安堵を覚える。駅前とはいえたくさん店がある感じではない。いや、あったのかもしれないが暑さで探す気になれなかった。犬吠駅へ戻る電車まで50分。待っている間座って一服したく、待合室という喫茶店に入る。入るなりタバコの臭い。喫煙可の店らしいが、入れ違いで喫煙していた客は出て行き、あとは誰も吸わなかったのでよかった。やはり近くにお茶ができる店はないらしく、店内は満席、入店したものの諦めて出ていく客が数人。自分たちは運がよかった。アイスコーヒーを飲んで体力を回復させる。

 

銚子駅で最後のスタンプを押し、ミッションコンプリート。Xで調べたところマグやエコバッグなどが貰えるみたいなので期待していたが…残念ながらすでにグッズは頒布終了しており巾着をいただく。グッズが終了したならキャンペーンもやめるべきでは…とちらと思ったが、銚子電鉄へのお布施だと思い直した。何かと窮屈な今の世の中、これくらいのユルさでちょうどいいのかもしれない。

銚子駅で宇宙人の木の葉パンを購入

犬吠駅へ戻り、お土産にぬれ煎餅とまずい棒チーズ味10本を購入。まずい棒チーズ味はまんまカール。関東では食べられなくなった貴重な味。全然まずくないどころか旨い。車に戻って出発。ナビによると新勝寺まで下道で60kmほど。

 

道中スムーズに走れた。途中で成田空港のすぐ横を通過。こちら方面へは来る機会がまったくないので新鮮なドライブ。仙台から石巻へ行ったときと違い勝手知ったる自分の車だから知らない土地を走るにしてもストレスは少ない。朝食をたらふく食べたので昼食は抜く。というか俺は犬吠駅を出てからずっと胃のあたりがムカムカして気持ち悪かった。じじいだなあ。胃薬を持ってこなかったことを後悔。

 

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JR成田駅を出たあたりから長い参道に入る。立ち並ぶ店々には活気がある。参拝客も多く観光地として賑わっている。適当なコインパーキングに駐車し目的地へ向けて歩き出す。

 

しばらく歩くと到着。


初めて来たけれどここはすごかった。仁王門を潜り石段を昇って大本堂を見た瞬間、「すげえ」と思わず声が出た。広く開けた空間に佇む白と茶と薄い緑の大本堂の荘厳さ。「すげえ」と言ったきり言葉を失ってしばし立ち尽くした。陳腐な形容、その発語を禁じる厳粛な沈黙を纏っているかのような圧倒的な存在感。これまでたくさん神社仏閣を見てきたけれども、その場に建築物がただ在るだけで圧倒されるような経験は成田山新勝寺大本堂のほかには記憶にない。すでに15時を過ぎていたので内部の観覧は終わってしまっていたのがとても残念。中に入ってみたかった。

 

歴史、デザイン、スケール感。ここほど敷地が広い神社仏閣は日本にもそうそうないのではないか。その広い敷地内にたくさんのお堂や塔が建っている。こんなにすごい場所と思っていなかったので到着が遅くなってしまったのが悔やまれる。一つ一つ見学していたら半日くらい余裕で過ごせそう。

 

お参りを済ませ来た道を引き返す。新勝寺が閉まるのに合わせているのか、参道の店のいくつかも店じまいを始めていた。暑さで着ていたシャツが汗だくだったので、涼みたく、甘味処に入り、白玉あんみつを注文。同行者はわらび餅と抹茶。食べながら、ここから100km以上運転か、だるいな、旅行はいいが運転はだるい、などと考える。


店が17時までだったので少し前に出て、お土産を買い、車に乗る。終わってしまうと一泊二日なんてあっという間だった。せっかく温泉に入って体の強張りをほぐしたのに、帰りの圏央道の運転で首と背中が硬くなり、元の木阿弥。まったく、行きたい場所ややりたいことや調べたいことが人生には多すぎて、労働なんてやってるほど暇じゃないのに、生きていくために稼ぐ必要から働かねばならないのがただただつらい。

今回の旅行はなかなか充実していた。事前のリサーチをしっかりやってプランを立てておいたのが奏功したのだろう。やはり事前リサーチは大事だ。ぶっつけ本番では厳しい。何より、銚子が適度にローカルで、見どころの多いいい土地で、けれども人は多過ぎず、快適に過ごせたのが充実感につながっている。来た甲斐があった。

 

写真を撮るとき、老眼のためファインダーで合わせられないのでモニタで設定を確認しているのだが、だんだんモニタも見づらくなってきている。加齢とともにできることは減っていく。長時間の車の運転もだいぶ消耗するようになった(長時間運転をするたびに顔が老けていくような気がする)。40代、まだ体が動くうちに行きたいところへできるだけ行っておきたい。性欲も食欲も物欲も衰えていく今、かろうじて残っているのは美しいものや珍しいものを見たいという欲望と何か表現をしたいという欲望だ。それがある限りは旅行やカメラ趣味は続けられるものと思うが、それもいつまで可能かはわからない。できることはできるうちにやっておく。悔いの少ない人生のために。

 

*1:毎年元旦は起きるのが遅いのと寒い中出かけるのが嫌いなので人生で一度も初日の出を拝んだこともない

夏の郷愁、あるいは感傷と追憶のインターネット

6月半ばというのに雨はろくに降らず、連日30度を超える夏日が続いている。

夏といえば、今はすっかり疎遠だが、2ちゃんねるまとめサイトの夏画像スレを好んで見ていた時期があった。

こういうの。

mamesoku.com

とっくに更新は止まって久しいが、まめ速は露骨なPV稼ぎの煽り記事みたいなのがない、品のあるまとめサイトだから好きだった。

 

長い間、夏画像を見ると郷愁が込み上げてきて切なさを覚えたものだった。入道雲、海、白いワンピース、麦わら帽子、半袖の制服、放課後のひとけのない教室、遠くから聞こえる吹奏楽部の演奏、グラウンドから聞こえる運動部のかけ声、ヒグラシ、ひまわり、浴衣、花火…。ブルーライト*1な「象徴」が次々に連想され俺の古傷(架空)が疼きだす。今も昔も陰の者、エモエモな夏を過ごした経験なんてないのに、想像が妄想となって膨れ上がり、ありえたかもしれない過去を捏造するのだった。幼なじみの少女か年上の従姉に淡い恋心を抱いていた、美しく、ほろ苦い、ひと夏の記憶を。

 

そんな感傷的でマゾヒスティックな快楽に溺れるのが可能なのも若いうちだけである。40歳前後から感性が衰え、夏画像を見ても何も感じなくなった。見すぎたせいもあるかもしれない。生命の危険すら覚えるほどに暑い現実の夏は言うまでもなく、概念としての夏にさえロマンを感じる感性は失われた。小説や映画に全身全霊でのめり込めなくなったのと同じ老化現象だ。かつて空想した幼なじみの少女や年上の従姉はもう死んだ。

 

大抵の夏画像スレに登場する定番ともいうべき写真がいくつかある。その中にとくに好きだった写真が3枚あった。

以下転載。問題あるようでしたら削除します。

 

この3枚の共通点は何か。女の子が写ってる…はそうなんだけどそれは措くとしてロケーションが素晴らしい。いかにも夏って感じがする。とくに3枚目。古びた駅名表示がえも言われぬ情緒を醸している。そして3枚とも女の子たちの表情が見えないことが却って想像力を刺激するというか、「物語」を感じさせる。ドラマのワンシーンだとしても違和感がない。

 

これらの写真が撮られた場所はどこか。今更といえば今更だが調べてみた。

 

1枚目は神奈川県鎌倉市。七里ヶ浜へ至る坂道。ここは調べるまでもなく知っていた。ストリートビューで見てみるとこんな感じ。

Googleマップより

画像中央あたりにモデルが立って、それを望遠レンズで撮ったのではないかと思われる。この写真は創作だろう。女の子が乗っているのは小径車。坂道が多い町で通学用として乗るには不自然だ。それにしても望遠レンズの圧縮効果はすごい。肉眼だったら1枚目のようには見えない。写真のマジック。ここ、かなり以前に一度行っている。うろ覚えだが写真のような素晴らしい景色が見られるものと期待して行ったらそうでもなくて落胆した記憶がある。過去の写真フォルダを探しても出てこないので自分では撮らなかったのかもしれない。そのときに撮ったのだったか、鎌倉高校前駅の写真なら見つかった。2013年。

最近はスラムダンクの聖地として外国人観光客が大勢訪れているとか。鎌倉や江の島、観光地として好きだし圏央道が繋がって埼玉から行きやすくなったから行きたいんだけど、小町通りといい江ノ電といい混雑するとわかっているから行けない。

写真の初出については不明。2006年頃にはネット上にアップロードされていたようだ。

 

2枚目。場所は佐賀県唐津市。JR唐津線の鬼塚駅。ここ、調べて驚いたんだけど駅の前に広がるのは海ではなくて松浦川という川。てっきり海だと思っていた。ストリートビューだとこんな感じ。

Googleマップより

写真で見るよりだいぶこじんまりしている。ストビューの画像と写真を見比べると同じ場所なのに全然違う印象を受ける。対岸が写っていないから水の広がりが写真の外にまで広がっているように思えてしまう。この写真もまたマジックだ。

初出は以下のブログ。2005年撮影。

www.sanzai.net

 

3枚目は駅名が書いてある。北海道小樽市。JR北海道函館本線の張碓駅。この駅は2006年に廃駅となり駅舎とホームが解体された。石狩湾に面した秘境駅でありストリートビューでは見られない。wikipediaによると明治時代に炭鉱鉄道の駅として作られたのち、海水浴客が訪れる夏季限定の臨時駅となるも、駅から海へ行くのに線路を横断しなくてはならないため人身事故が絶えず、やがて臨時駅としても使われなくなり、2006年のダイヤ改正に伴い廃駅となった。

写真の初出は以下のホームページ。1997年撮影。

moving.la.coocan.jp

 

現在の張碓駅跡の様子は以下の動画で見ることができる。0:30あたりに映る海水浴客の写真はインパクトが強い。そりゃあ人身事故起きるわ。というかJR北海道*2がよく立ち入りを許可したものだ。令和の今では考えられないおおらかさ。

www.youtube.com

 

10年か15年かあるいはそれ以上前からこの3枚の写真に惹かれてきた。今回この記事を書くにあたって画像検索により2枚目、3枚目を撮影した方のブログ、ホームページを見つけられたのはよかった。どちらも久しく更新されていないが、まめ速同様、インターネット上に残っていてくれているのがありがたい。

 

一時期、インターネットには無限のアーカイブ性があると期待された。一度発信された情報は永遠に保存され、いつでも誰でもアクセスできると。後になって管理やコストの問題からそんなのは夢物語だったと判明するのだが。

 

PV稼ぎの誇張や煽りやフェイクやヘイトまみれの情報が跋扈する2025年のインターネットに慣れた目には、個人が自分の趣味を探求し、体験や知見を発信している2000年代のブログやホームページのシンプルさが清々しく見えた。

 

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

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人が撮った写真ばかりでもアレなので自分が撮った写真からノスタルジックな夏を思わせるようなのを挙げるとしたらこれかな。

JR四国予讃線の下灘駅。1999年の青春18きっぷのポスターで知られるようになったが、俺が行った2013年はまだ知る人ぞ知るって感じで訪れる人は多くなかった。少なくとも俺が行ったときは単独の数人しか来ず、来てもすぐ去ってしまって、ベンチを思う存分独り占めできた。よく「海に一番近い駅」と言われるけれど、実際には海との間に国道があり、結構距離が離れている。

 

Googleマップより

わかりづらいけど画像左の高台にあるのがホーム。上の写真と見比べると印象が変わるのではないだろうか。Xで検索すると今は観光客が大勢来るみたい。有名になりすぎる前に行けてよかった。こういうローカルな場所に人が押しかけてるのを見ると興醒めする。

会社勤めだと夏季休暇は学校の休みとかぶるからどこへ行っても大抵混雑するので、というかそもそもそこへ行く道中の新幹線なり高速道路なりからすでに混むから、人混みが大嫌いな自分は夏はあまり遠出しない。だから夏の旅先の写真はほとんどない。

 

加齢により概念としての夏にノスタルジーを感じられなくなったのは寂しい。喪失感がどういうものだったか、頭ではなんとなく思い出せても実感できない。死んでしまった大好きな犬の写真を見ても懐かしさとその不在に寂しさは覚えるものの、悲しくはならない。かつては胸を抉られるようだった『秒速5センチメートル』が今では退屈に思えてしまう。これが中年だ。わが心、石と化す。

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郷愁や感傷の甘さには賞味期限がある。でも中年になっても追憶は楽しめる。あの頃はああだった、こうだったと思い返してしみじみする楽しみは今も残されている。そして年をとるごとに思い返す材料は増えていく。人生、最後に残るのは思い出だとも言うし、後から振り返る楽しみのために今色々やってみる生き方はありだと思う。独身中年の生きる意味って、将来の追憶くらいしかないんじゃなかろうかという気もする。

 

 

トナラーについて

少し前にはてブを見ていたらこんなエントリが上がっていた。

ヤフーニュースはすぐ消えるからリンクするの気が乗らない。

news.yahoo.co.jp

 

これに対して付けた俺のブクマコメントはこれ。

どうして「トナラー」現れる? 「隣に駐車」は故意or偶然? 対策方法はある? ガラガラでも「トナラーする謎」 元警察官が解説(くるまのニュース) - Yahoo!ニュース

コロナの頃4人しか客のいない映画館で俺が事前予約したとき一人もいなかったのに当日隣に来たおっさんがいて気持ち悪かった。ワンチャン女の隣かもって可能性に賭けてたのかな。

2025/06/06 23:37

 

コメントでは映画館での体験を挙げたがトナラーといえば駐車場だろう。というわけで俺の駐車場でのトナラー体験がこの写真。

 

左の白いのが俺の車。プライバシー保護の観点から画像に加工を加えております。気持ち悪い写真になってしまい申し訳ない。

 

写真の場所はイオンモールむさし村山の駐車場。他にいくらでもスペースがあるのにこうもぴったり並んでいるとまるで友だち同士で遊びに来たみたいだがもちろん知らない相手である。言うまでもないが俺の方が先に停めていて、店から戻ってきたらこれだったのでつい記念写真を撮ってしまった。さらに言うとこの列が最前列ではない。手前にも列があり(一本だけ停止線が見えている)こっちも空いていた。そっちの方が店に近い。

つまりこの黒い車は明確な意志をもって俺の隣に駐車している。

 

撮影日時は2023年7月16日14時頃。うろ覚えだが昼頃、同行者と買い物ついでに飯を食ったんだったと思う。

 

この駐車場は店舗近くではない。むしろ離れている。イオンへ行くのに道路を横断しなくてはならない。俺はトナラーが嫌いなので(万が一にもドアパンチされたくない)長時間停めるときは大抵店から離れた場所に停める。

Googleマップより

俺が停めたのは写真右下の駐車場。「1丁目」とある右側。列の位置まではさすがに覚えていない。この写真でもガラガラだが詰めて停めてる車が何台かいるな。

 

このことから少なくとも二点言えることがある。

・店舗の近くに停めていなくてもトナラーは来る。というか、わざわざ離れた場所に停めているにも関わらず隣に来るからトナラーと言われるのだ。

・停止線がはっきり見えているので「隣の車を目印にして駐車している」はあり得ない。停止線が薄い年季の入った駐車場とは違いイオンモールむさし村山の停止線はご覧のとおりはっきり見えている。この停止線「だけ」を目安に駐車できないなら危ないから車の運転なんてしないほうがいい。

 

記事についたコメントをひととおり読んだけど三分の一くらいは的外れなことを言っている。とくに入り口付近に停めたら隣が埋まるに決まってる的なことを言ってるのはトナラーが何なのか全然わかってない。隣に来てほしくないから入り口から離れた場所に停めてるのに隣に来るから謎だ、気味悪いという話をしている。写真、黒い車が一枠空けて奥に停めたところで何か不都合があるだろうか? 店まで歩く距離が変わるか? むしろ一枠空けた方がお互いドアの開閉や乗り降りがしやすくなっていいとは思いませんか?

 

イオンモールむさし村山の件は一例で、他にも駐車場で何度も似たような体験をしたり見たりしている。そのたびに、え、ここに停めるの? とびっくりする。

 

で、今俺が考えるに、トナラーやってる人は悪気なくやっている。乗り降りやドアの開閉がしやすいから一枠空けて停めた方がいいよなあとか、たぶんそんなことまったく考えてない。なんとなく、人の車が停まってるからその横でいいや、くらいのノリで駐車している。

スーパーとかでレジ待ちしてるとたまにいませんか? こっちに触れそうなくらい接近してくる距離感おかしい人。あれもこっちは不快だがたぶん本人は何も考えてない。トナラーするドライバーはそういうタイプの人なんだと思う。

 

体感的にいい車はトナラーしてこない。大事に乗ってるから傷つくリスクを避けているのだろう。失礼かもしれないが大事に乗ってなさそうな車や古い軽自動車がしてくる傾向にあるように思う。

 

トナラーが嫌で入り口から離れた場所に停めてるのに隣に来られるからトナラーが印象に残りやすいというのはあるかもしれない。他人からしたら「気にしすぎ」と言われる所以だろう。俺が神経質なのはたしかだが、実際写真のように意味不明な停め方されてるんだから印象もくそもない。これはリアルなんだ。

 

トナラー、他人のすることだから防ぎようがないし悪気がないなら注意してもたぶん効果ないし*1運だと思って受け入れるしかない。入り口から離れた場所に停める、片方が塞がってももう片方でドアの開閉がしやすいよう角っこに停める、自衛策として取れるのはせいぜいそれくらいだろう。

 

駐車場でのトナラーの話は以上。俺のブクマコメント、映画館でのトナラーの話を少し。

4人しか客のいない映画館で隣に来られた時は気持ち悪さを通り越して恐怖を感じた。50代半ばくらいの冴えないおっさん。最後列*2の中央、スクリーンからは遠い位置。4人のうち俺が最初の予約客だったのでそいつは俺がいると知っていながら隣の席を取ったことになる。ワンチャン、女の隣と思ったのか? 昔の映画館は自由席だったから一人で来ている女性客の隣を選んで座る男がいたらしい。でもそうだったら男の俺が座ってるのに気づいた時点で空けるよな。「すみませ〜ん」とか言いながら隣に座ってきたからギョッとした。いけないことかもしれないけど気持ち悪いからひとつかふたつ横にずれた。なんで俺が動かなきゃいけないんだと思いながら。結局なんだったんだろう。本人にとっての専用席だったのか? 他人の思考なんてわかりっこないんだから考えるだけ無駄だ。

 

なぜトナ「ラー」なんだろう、というコメントがあった。たしかに。主義でやってるならトナリストが適当だろうが、何も考えていないなら主義ではないので該当しない。ラーだとちょっと見下すような、小馬鹿にするようなニュアンスがあるからそうなったのかな。

 

 

 

証明のためとはいえ気持ち悪い車の写真を載せてしまったので目の保養に伊香保で撮ったケンメリの写真を載せておきます。

 

 

 

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*1:俺は他人と揉めるのは面倒くさいのとどう転んでも不快な気持ちが残るとわかっているので絶対に関わらない主義

*2:後ろから蹴られるのが嫌なので

好きな本は何冊でも買う、それが自由というものだ

はてブを見ていたらこんなエントリが上がっていた。

anond.hatelabo.jp

 

これに対して付けた俺のブクマコメントはこれ。

やっぱ電子書籍じゃダメなんだよ!

ふつういい本だと思ったら紙と電子両方買うよね

2025/06/09 18:47

 

電子書籍のよさは思いついたら本屋へ行かず通販で届くのも待たずその場で即購入/読めること、データとして持ち運べるからかさばさらないこと、品切れ本でも買えるケースが多いこと、明確な記憶に基づいた検索性が高いこと。

一方で紙の本のよさは読むのに電池も電源も不要なこと、物体として所有する満足感があること、人と共有できること、曖昧な記憶に基づいた検索性が高いこと。

 

内容を読むだけならいつでもどこでも読める電子書籍の方が効率がいい。でも読書ってただページに書かれている文字を読むだけの営みではない。40年近くコミックスを含む紙の本を買ってきた(また手放してきた)人間として、多少は本を読み紙の本を好んできた人間として思うのは、

それに読書って、ただ書いてあることを読むだけじゃない。本屋で本を探すこと、選ぶこと、買うこと、所有すること、書棚に並べること、装丁を撫でること、ぱらぱらめくって内容を想像すること、これらもまた読書だと俺は思っている。読むことは読書という営みのうちのひとつに過ぎない。読書っていうのはとても懐が深いものなのだ。

ということ。

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「本を手放すこと」も読書に含めるとか言い出したらさすがに倒錯が過ぎるな。

 

俺のブクマコメント、「ふつう」なんて言っちゃってちょっと煽ってる感が出てしまったのはよろしくない。まだまだ精進が足りない。本を読んでも賢い人間にも善い人間にもなれなかったし、年収が増えたり女にモテるようになったわけでもない。それでも本を読む人間として生きられてよかったと思っている。人生のうち読書に費やしてきた時間をもっと別の何かにあてていれば…とは微塵も思わない。

Q.なぜそう思うんですか?

A.本を読むのは楽しいからです!

 

Kindleの本棚。

 

読んでいい本だと思ったらあとから電子版を買ったり紙の本を買ったりする。上で挙げた両者のメリットをことごとく享受するために。

 

長い間、同じ本を一冊しか買ってはいけない、所有してはいけない、と思い込んでいた。でもあるとき、古本屋で、すでに持っているが状態のいい同じ本を見つけて衝動的に買ってしまったあと、家に帰って本棚に並べて気がついた。いい本は何冊持っていてもいいんだ、どうして複数冊買ってはいけない、所有してはいけない、なんて思考の檻に囚われていたんだろうと。好きな本は何冊でも買っていいんだと思えるようになってから、人生が少しだけ豊かになった気がする。いつだったかラジオで、具は忘れたので仮に鮭とするが、鮭おにぎりを大好きな人がコンビニでおにぎりを買うとき、毎回鮭は買うとして、一つじゃ足りないからもう一つ買うとなると、何おにぎりを選ぶか悩んでいた。しかしあるとき、鮭おにぎりが好きなんだから鮭おにぎりを二つ買えばいいんだ! と気づき、それが革命的な閃きだったという話をしていた。本も同じですね。おにぎりや本の他にもあるでしょう。好きなら同じものであってもいくつでも買えばいいんじゃないでしょうか。それが自由というものではないでしょうか。

 

ネルヴァルの短編集『火の娘たち』、とりわけ「シルヴィ」を好んでいるので古本屋で状態のいい文庫を見かけるとつい買ってしまう。野生の希少動物を見かけて保護する感覚に近い。俺が守ってやらねば…みたいな。頭イカれてるか?

 

 

 

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