映画『イニシェリン島の精霊』はよきボーダーコリー映画だった

スリー・ビルボード』の監督と知り見に行くことに。

見ているときは全然わからず*1後で知ったのだが舞台は1923年のアイルランドの架空の島。本土では内戦が続いている時代。小さい島だから住民は皆顔見知り。

 

ブレンダン・グリーソン演じるバイオリン弾きがコリン・ファレル演じる主人公に絶交を言い渡す。理由は人生の残り時間が少ない今、彼の無駄話に付き合っている暇はないから。退屈な話を聞くより作曲に時間を使いたいと。

 

昨日までは一緒に飲んでいた親友からの突然の宣告に主人公は合点がいかず付き纏い続ける。小さい島だからそのつもりがなくてもどうしても顔を合わす羽目になる。教会もパブも商店も一つしかないような島なのだ。主人公のしつこさに堪忍袋の緒が切れたバイオリン弾きは今後話しかけてきたら自分の指を切り落としてお前にくれてやると啖呵を切る。

 

この二人の諍いがアイルランドの内戦の歴史のいわば寓話になっている、というのを町山さんのたまむすびでの紹介を聞いて理解した。内戦とは顔見知り同志の争い。昨日までの隣人や友人が、もしかしたら親類も打倒すべき敵になる。やらなければこちらがやられる。寓意とすると島から出立する妹はさしずめ亡命者か。

 

終盤までは戦況? はバイオリン弾きが優勢だった。しかしある事故のせいで形勢が逆転する。序盤のユーモアはなりを潜めシリアスな展開に。以降は見応えがある。愛する者を殺されたらこっちだって黙ってやられちゃいない。報復してやる。すでに手垢まみれとなった言葉だが、争いの空しさ、しょうもなさが描かれていく。中盤までは八の字眉でおろおろしてばかりだったファレル演じる主人公が決然たる意志を持った闘士に豹変、序盤の見ていてイライラしてくるほどの間抜けっぷりとのギャップがすごい。でも情は残っている。バイオリン弾きの飼っているボーダーコリーを殺すことはしない。ダンスの相手をしたり、巨大な鋏を咥えて外へ出たり、暖炉の前で主人公に吠えるでもなく撫でられるままになっていたり、この映画ではボーダーコリーの可愛さがよく描かれており見ていて幸せな気持ちに。『LAMB/ラム』では殺されたからこの映画でももしかしたら…と不安になったが主人公は「あいつはいい奴のままだったから」と馬車に乗せて逃してやる。えらい。

 

ラストの浜辺のシーンは戦争の終わりの暗示か、それとも小休止に過ぎないのか。戦争は終わったと言ったところで大切な家族を殺された人間にとっては死ぬまで終わりなんてありえず喪失を抱えて生きていくしかない。その感情は憎しみにたやすく転化しうる。

 

原題はイニシェリン島のバンシー。バンシーとは人の死を叫びで予告する妖精。「死神」と形容されるマコーミックさんを指しているのだろう。実際彼女は死を予告してそのとおりになった。「犬は殺すな」と言い、「入れ知恵するんじゃねえ」と主人公に返される。教唆? 出番は多くないが独特の風貌のせいもあって強烈な存在感がある。

 

中盤まではユーモラス、しかし面白くもない会話のシーンが多く退屈。終盤の怖い展開と対比させる意図だったのか。ドミニクの存在する必要性がわからなかった。物語に何ら寄与していなくないか? 持て余したのか最後死なせちゃってるし。死んだ理由は? 彼がいるせいで映画が散漫になってしまったように思う。

 

自分にとってこの映画はアイルランドの孤島の美しいロケーション、それを捉えた数々の素晴らしいショット、そしてかわいいボーダーコリーを堪能する映画だった。

 

 

我が家のボーダーコリーについて少し触れている。

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人間は殺していいけど犬は殺すな。

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*1:古い時代なんだろうなあ、くらいの認識で見ていた

pha『持たない幸福論』『どこでもいいからどこかへ行きたい』を読んだ

『人生の土台となる読書』がよかったのでphaさんの本をさらに2冊読んだ。

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3冊を通じてphaさんの主張は一貫している。

社会の同調圧力より自分がしたいことや好きなことを優先しよう、大事にしよう。

孤立せず気が合う仲間とゆるやかにつながろう、自分の居場所を作ろう。

 じゃあ生きるにおいて本当に大事なことは何かというと、「一人で孤立せずに社会や他人との 繫 がりを持ち続けること」と「自分が何を好きか、何をしているときに一番充実や幸せを感じられるかをちゃんと把握すること」の二つだと僕は思う。

 

持たない幸福論

 

 ニートやひきこもりが働いていないことで抱える問題というのは二つあって、それは「お金がないこと」と「社会や他人とのつながりがないこと」だ。どっちも深刻なんだけど、僕はどっちかというと「つながりがないこと」をなんとかするほうに興味があって、働いていなくても友達や知り合いや居場所がたくさんあればそこそこ楽しくやっていけるんじゃないかと思っている。

 

『どこでもいいからどこかへ行きたい』

 

 

持たない幸福論』は世間一般で「普通」とされている人生へ疑いの目を向ける。就職して結婚して子供を持って家を買って定年まで勤める──それができて一人前の社会人だとする価値観が日本に広まったのは戦後のたかだか数十年前からに過ぎない。しかしその価値観は現代ではもはや高い理想像と化してしまっているのではないか。時代は変わっているのに古い価値観に縛られ続け、及ばない自分とのギャップに苦しんでいる人は少なくないのではないか。現状と合っていない価値観からは逃げてもいい。世の中に居場所はいくらでもある。

 

phaさんは述べる。

労働については働き過ぎるのも働かないのにこだわり過ぎるのもともによくなくて自分のペースで柔軟に働けるのが理想。家族という関係だけで人間が求めるものを全て何十年も満たしていこうというのは難しい。もっと柔軟でゆるい人と人とのつながりがあってもいい。お金がなくても毎日を楽しむコツや趣味はたくさんある*1。気の合う友人たちがいればお互いに助け合えるのでお金が多少なくてもなんとかなる。

 

phaさんは他人と自分を比べないことが幸福に生きる要諦だという。他人と自分を比べなくても平気でいるためには自分の価値基準をしっかりと持つことが必要になる。それを可能にするために重要なのが読書だ。「知識は人を自由にする」。多様な価値観が世の中に存在することを知ったり考えたりすることで世間と合わない自分であったとしてもそれを責めず肯定することができるようになる。さらに同じような友人たちとつながれれば孤立を避けられるからなおいい。

 

この本のいいところは押し付けがましくないところ。phaさんは自身のような生き方は万人に勧められるものではないとも、伝統的な価値観が自分にとって有用なら利用した方がいいとも述べる。それを選択するのは読者一人一人の価値基準次第。誰にも誰かの生き方を決めることはできない。自分で選択するしかない。

 今は古いものから新しいものまで、いろんな価値観やいろんな生き方が溢れていて選択肢がたくさんある時代だ。そんないろんな概念やシステムの中から、自分の状況に合うものを自由に選び取って柔軟に組み替えて生きていけばいい。「標準的な生き方」なんてものは存在しないし、標準的な生き方っぽく見えるのは単に多数派の持ってる価値観に過ぎなくて、多数派に乗っかるのは有利な面も多いけど、それが自分には合わない場合もあるし、多数派の生き方が絶対なわけじゃない。家族でも家族以外でもなんでも、孤独にならないためにありとあらゆるツールを利用して生きていけばいいんじゃないかと思う。

 

 

 

『どこでもいいからどこかへ行きたい』は旅または移動にまつわるエッセイ。日常に飽きたら用もなく安いビジホに泊まりたくなるというphaさん。泊まっても何か普段と違うことをするわけではない。普段行っているのと同じチェーン店やテイクアウトで食事を済ませ、部屋ではテレビを見たりネットをしたりして過ごす。停滞した精神に刺激を与えるためのちょっとした非日常。まったく同じことを自分もかつてよくやったしなんなら今でもやっているが*2だんだんと刺激がなくなり飽きてきつつあるのは加齢のせいか、泊まり過ぎたのか。それどころか最近だとちょっとした旅行や初めての土地へ行くのすら億劫に感じられてきて、どこか遠くへ行くより近所を散歩している方が気楽で楽しい…とまでなってきつつある。何十年も住んでいる土地でもちょっと知らない路地を入ったりすると新しい発見があったりして面白さは尽きない。コロナ禍で旅行から遠ざかっている(もう3年遠出していない)うちに旅行の仕方を忘れたというのもあるかもしれないが。

 

サウナにはまった話を読んでもう一年近く行っていないスパ銭へ久々に行きたい気持ちが出てきた。「ととのう」とかちょっとしたサウナブームが起きて以来人が増えたように思え、コロナ禍で大勢の他人と同一空間にいるのを避けたい気持ちもあり、以前なら休日は本屋・古本屋か映画館かスパ銭で時間を潰したものだがすっかり行かなくなってしまった。前の二箇所には相変わらず通っているがスパ銭の代わりとして近所や近場の低山を歩くことが増えた。

 

友人たちと3人で熱海に別荘を買った話が面白かった。世の中、うまい話はない。温泉が利用できる別荘はかなり魅力的だが所有するとなると経済的・心理的負担が大きい。それより都度ホテルに宿泊する方が一回の利用が多少割高になったとしても気楽そうではある。

 

 ひきこもりは別に部屋にこもるのが好きでひきこもっているわけじゃない。一日中部屋から出ないのも精神的にかなりキツい。だけどそれでもひきこもっているのは、いてもいい場所が他にないからだ。働く働かないとは別の問題として、家以外にもゆるく人に会って話したり、のんびり過ごしたりできる場所があればちょっとは楽になるだろうと思う。「社会や他人とのつながりがなくなってしまう」というのは別にニートやひきこもりだけの問題ではない。専業主婦や定年後の老人なども抱えてしまいやすい問題だ。

 要は、家族と会社以外にも、居場所になるような空間が社会の中にたくさんあったほうがいいと思うのだ。趣味の集まりでもネットの知り合いでもなんでもいいから、家族と会社以外で他者とのつながりを持つチャンスが生まれるようなゆるい場が必要だ。今の時代は家族も会社も昔ほど一人一人の面倒を見てくれるものじゃなくなりつつあるので、小さな居場所をたくさん街なかに作っていくことが大事なのだと思う。

社会的/物理的な「居場所」の重要性。橘玲さんは人間の幸福を規定する要素として「金融資産」「人的資本」「社会資本」の三つを挙げたがphaさんは社会資本を豊かにすることに意識的なように思う。

 

 

 

*1:お金がかからない趣味として料理と読書を挙げている

*2:自分の場合実家暮らしなので定期的に一人になりたくなりちょうど近場に綺麗で安くて便利な立地のホテルがあるので年に何度か泊まる

pha『人生の土台となる読書』を読んだ

 

 

著者は冒頭で述べる。読書には「すぐに効く読書」と「ゆっくり効く読書」の2種類があると。

前者は仕事術やライフハックなどの実用書の読書。今の状況をちょっとだけ改善するのには有効だが大きく人生を変えるのには向いていない。

後者は小説やノンフィクションや学術書などの一見実用性がなさそうな読書。根本的な生き方を変えるにはこちらの読書が有効だ。

 「すぐに効く読書」が今まで知っている枠組みの中で役に立つものだとしたら、「ゆっくり効く読書」は、その枠組み自体を揺さぶって変えてくれるものだ。

 

 「ゆっくり効く読書」は、すぐに効果は表れないけれど、読むことで自分の中に何かが一滴ずつ溜まっていって、少しずつ自分の人生を変えていく。

ただ知識を得るだけでなく、根本的に物事を考えるための価値観や枠組み、人生の土台を得るために「ゆっくり効く読書」が必要になる。本書は著者がこれまでに影響を受けてきたそういった本を紹介する自伝的なブックガイドだ。

 

テーマごとに4章に分かれている。分かれてはいてもphaさんという人の人となりというか、興味関心というかが共通の底流としてある。自分がとくに面白く読んだのは2章「読書で「世界を動かすルール」を知る」。phaさんはこれまでずっと「どうやったらもっとラクに生きられるか」ということばかりを考え続け、そのヒントを求めて本を読んできたと述べる。ラクにさせてくれない原因のうちには人や社会との齟齬や違和感だったりが含まれているのだろうと推察するが、それらを解消する、「自己責任を弱めて、ダメな自分を肯定するための視点」を得るための本として、社会学脳科学、進化論、宇宙科学などの分野が選択される。生育環境が人生に及ぼす影響、自由意志や人間至上主義への疑念、進化論の基本である「突然変異」と「適者生存」による自己責任や努力の有効性の限界、138億年もの時を経ている宇宙の歴史と比較すれば些細な悩みは消失する、など。これらの本が「人間の行動を、少し引いた目」で見る助けになる。

生育環境によって人の行為や価値判断が方向付けられているとしたら。

人間に自由意志などなくあるのはアルゴリズムだけだとしたら。

生物が淘汰のプロセスを生き残れたのは意志や努力ではなくランダムな仕組みの結果に過ぎないとしたら。

自己責任なんて言葉は安易には使えなくなる。

こういう学問から新たな視点を得ることによって自分や他人や社会を責めたり恨んだりする苦しみからラクになれる。

 人間には、自分と違うタイプの人に対する拒否反応がある。

 それは僕たちが部族社会で生きていた頃に脳の中に刻み込まれた性質なので、そう思ってしまうこと自体はしかたがない。

 しかし、人間は知識を得ることで、自分と異なる他者への理解が生まれ、寛容さを持つことができる。それが勉強や読書の大事な効用なのだ。

 

本書で紹介されるのは著者自身の好奇心や問題意識から選択され読まれてきた本の数々である。ジャンルは漫画、エッセイ、小説、ノンフィクション、学術書、歌集、評論など多岐にわたる。

 自分にとって切実な問題、それは自分という存在のコアにあるものだから、決して手放してはいけない。

 

 幼い頃に感じたような自分の中にある根源的な問題意識が自分の人生を作っていく。

著者の問題意識は、自明とされている社会のルールへの違和感、死や虚無への恐怖心、「だるさ」の原因追求などだろうか。顧みて自分の場合は何だろうと考えた。自分は何か問題意識を持って本を読んでいるだろうか。充足しているとき、人はおそらく本を読まない。不足を感じるからこそその渇きを満たしたくて読む。自分の場合は、普通じゃないもの、奇異なものへの興味関心が読書の原動力としてある、ように思う。怪奇小説だったり犯罪ノンフィクションだったり。自分が幼い頃、母親は精神的に失調しており(何年も通院・服薬していた)たびたび暴力を振るわれるせいで彼女の挙動に常に怯えていた。程度で言えば軽いものだっただろうが、そんな自分の生い立ちが不気味な他者/世界を恐れながら惹かれる、みたいな感覚の源泉としてあるように思う。

 

こんな時代だから同じような人が多数いるだろうが自分も今の時代に生きづらさを感じている。生きづらいから独身中年なのか、独身中年だから生きづらいのか。とにかく、このたび本書を読んで、直接日常生活に関係するわけではない進化論や脳科学の話がその生きづらさと対峙するいいヒントになりそうに思った。なのでいずれ読んでみたい。本書を読まなければ知り得なかった、読もうと思わなかったジャンルだから収穫だった。面白そうと思ったタイトルは30冊以上になる。これらを読みたい本としてAmazonのリストに登録した。硬軟のバランスがよく、選書に選者の人物が反映していて楽しく、ブックガイドとしては2021年に読んだ荻原魚雷『中年の本棚』と同じくらい充実の内容だった。

 

 読書によって自分の人生が大きく変わった、とは思う。だけど、読書によって自分自身が大きく変わったか、と言われると、そうでもない気がする。

 読書は「自分を変えてくれた」というよりも、「自分をより自分らしくしてくれた」というほうが近い。

 まったく自分とかけ離れている本は、読んでも面白くない。

 本を読んで面白いと感じるときは、その本の中に自分と重なり合う部分があったときだ。

 読書というのは、自分の中を覗き込む行為なのだ。

 

 

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なぜそんなに激しく暴力的なのか──映画『ノースマン』を見た

9世紀の北欧が舞台の復讐劇。少年だった王子は目の前で父を叔父に殺され、自らは命からがら逃げ延びる。数年後、生きながらえ成長した彼は仇が今は王位を追われ、妃である母や一族とともにアイスランドで農場を営んでいると知り素性を隠して復讐に赴く。

 

王の血縁者による殺害、母と王位の簒奪。王子アムレートの物語はシェイクスピアの『ハムレット』と重なるがアムレート物語が種本らしい。その「原作」をロバート・エガース監督が映画化したのが本作。どういう映画かろくに調べず見に行ったので、終盤での王子と母親のやりとりを聞くまで気づかなかった。母の告白を聞いて「あ、ハムレットじゃんこれ」と。ただしハムレットが父王の亡霊から真実を聞かされて以降復讐すべきか否かでおおいに葛藤するのに対してアムレートの方は直情的で一旦決意したら迷いがない。勇猛にして残虐なバイキングによる数々の復讐の凄惨さは見ごたえがある。殺しただけでは飽き足らず死者を嬲りものにする。血腥い。

 

以前『ニーベルンゲンの歌』を読んだとき、あれはドイツの叙事詩だが元となったジークフリート伝説は北欧に遡るといい、後編の、夫を暗殺された妻クリームヒルトの復讐心の凄まじさに呆然としたものだった。『ノースマン』にはほんの少しだけだがワルキューレが登場する。彼女の雄叫びのシーンはその迫力に戦慄するほど。北欧神話では立派に戦って死ねばヴァルハラに迎えられるといい、それを男たちは最上の名誉と考えている。病いに倒れるのではなく戦場で死ぬことこそ誉れ。ノリ的には『300』に通じるものがある、本作の方がずっとシリアスだが。『300』といえば高橋ヨシキさんが『悪魔が憐れむ歌 暗黒映画入門』でその「政治的正しさのなさ」について熱く言及していたが、同じことがこの映画にも言えそう。徹頭徹尾男の映画であり、女性の扱いに関してはこの時代にそれかよ? というようなものだが、それが映画をとてもわかりやすいものにしている。殺された父の復讐、そしてのちには妻と子供たちを守るための戦い。そういう時代がかつてあったのだし、それを否定して今の価値観に沿った政治的な正しさを追求してしまったら(主人公と同じくらい活躍するヒロインや白人男性以外の人々、子供や動物は決して傷つかない等)映画としては白けたものになってしまっただろう。監督はこの映画を政治的に正しくするより優先すべきことがあるとの意図で臨んだのではないだろうか。そしてこの映画はとてもいい映画だった、と自分は思う。

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舞台は集落とも呼べないほど小規模だからストーリーに壮大さはないし、夜のシーンが多いので画面が暗くて見づらいし、序盤から中盤あたりはなかなか進展せず退屈だし、妙に遠回りする主人公に苛々するし、映画としての欠点は少なくない。が、クライマックスの炎のシーン、そして火山での決闘のシーンは迫力満点で、並の映画ならエンドロールで立ち上がってさっさと劇場を出ていくのだが、圧倒されてしまい終わってからも立ち上がれなかった。最後の決闘シーンの絵は凄かった。音楽もよかった。絵と音に酩酊した。

 

運命に導かれ死んでいく人間たち。まるで荘厳な神話を見たような感動がある。エンドロールのキャスト名を見ていて、え、ビョーク出てたっけ? と帰宅してから公式サイトで確認したらたしかに出ていた。全然気づかないような役で。ウィレム・デフォーもわからなかった。

 

日曜日のレイトショーで観客は5人くらいだった。いい映画なのに客入り寂しい。でも(大きなお世話だが)カップルで見る映画ではない、とは思う。エガース監督は『ウィッチ』がとてもよかったがこの映画はそれ以上。『ライトハウス』も見てみよう。

 

ウィッチ(字幕版)

ウィッチ(字幕版)

  • アニヤ・テイラー=ジョイ
Amazon

 

 

『本の雑誌2023年2月号』の特集「本を買う」を読んだ

 

 

特集の前文「本は読むためだけにあるのではない。買うためにあるのだ!」がいい。中野善夫さんの寄せた「本を買え。天に届くまで積み上げろ。」は手元に本を置いておけばいつでも(それが遠い未来でも)読むことができる、読書とは最初から最後までの通読を指すのみならず拾い読みや流し読みなども範疇に含んでおり「読んだ本」「読んでいない本」と単純に二分化できるものではない、金を出して買った自分の本であるから書き込みをしたり付箋を貼ったりできる、自分で選んで買った本が本棚に並べられることで本同士にネットワークが生じそのネットワークは自分にしか生み出せない関係性である、蔵書を増やすとは生活に新しい刺激を加えること、など本を買うことの意義が説かれる。今日明日読む本を買っていては駄目だ、いつか読む本を買えとの指摘が斬新で、すぐには読みもせず積むとわかっているのに本を買うというどうかすれば退廃的とも思える行為が、実は自分の未来へ期待する/賭ける前向きな気持ちの表れでもあるように思えて元気が出てくる。実際、読んでいようが読むまいがどうでもいいのだ。買いはしたもののろくに読んでいなくても──10分かそこらパラパラめくってはまた閉じるということを10年以上繰り返しているだけの本であっても──本棚にその本がある、そのことが自分にとっての杖になる、護符になる、本とはそういうものなのだ。

 

数年前に禁煙したときインセンティブとして年間のタバコ代で買えるネルヴァル全集6巻を筑摩書房のサイトから直接購入した。その6冊は未だほとんど開かれることもなく本棚の一番下に並んでいる。日々それを眺めながらしかし読もうという気にならない。そして毎日のように背表紙を眺め、気まぐれに一年のうち何度か手に取って拾い読みする、そんなことを繰り返しているうちに読んでいないのに書かれている内容について知っていく、知識が増していく、ということが起こり得る。おそらくはそれについて書かれた本*1や別の本の中で言及されているのを読むことで「間接的に」読んでいるのだろう。本は星座のように互いに関連し合って存在している。だからその本そのものは読んでいなくてもその内容については読んでいる、ということが起こり得る。その不思議さを実感するには本は手元になくてはいけない。

 

中野さんはこんまりさんの、未読の本を読むための<いつか>は永遠に来ない(だから手放せ)、との主張に、いや永遠とはそんなに短い時間ではない、40年後に読む本というのもある、あなたは若いからご存知ないだけだ、と真っ向から反論する。40年後となると未知の領域だが自分もプルーストの『失われた時を求めて』は買って10年積んだのち1年を費やして読んだ。読むきっかけは親の病いにより人生には限りがあると身近に知ったから。読み始めれば1冊を2日で読み終えることもあれば2ヶ月以上かけても読み終わらないこともあった。ふとしたきっかけで読み始める、自分のペースで好きに読み進める、それらができたのはこの13冊が自分の物として本棚にあったから。図書館で借りたのではこうはいかなかっただろう。この13冊は10年もの間ずっと手に取られる日を待っていてくれたし、自分も10年間、いつかそのうち読むのだろうとぼんやり思っていた。無意識にせよ視界に入るたびその呼び声を聞き心の中でそれに返事をしていた。所有していないと本とこういう付き合いはできない。

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難解さゆえ読まない(読めない)まま何年も本棚に並んでいた本をふと手に取る。歯が立たないと思っていたのに不思議と読める。関心も向く。まるで子供の頃突然自転車に乗れるようになったあの瞬間のようだ、と自分でも驚きながら読んでいく。しかし進むうちに飽きるか歯が立たない箇所にぶつかる。そうなったらそこで流し読みしながら進んでもいいし、またいつか、と閉じてもいい。本はそこにあるのだから慌てる必要はない。これも手元に本があるからこその選択肢だ。時間は有限? 死ぬまでに読みたい本? 人間はいつか必ず死ぬし、それがいつかもわからないし、何をしようと「途中」で斃れるのだ。強迫観念に憑かれるな、もっと悠然と構えろ、読めないまま終わってもいいという気持ちで本棚を眺めろ。時間は有限だというなら本なんぞ読むより自然を眺めたり、旅行したり、親しい人と過ごしたり、自分の住んでいる町を散歩したりするほうがよほど有意義ではないか。にも関わらず本を読んでいる。

 

本を持つことの大切さは未読の本に限らず既読の本にもあてはまる。すでに読んでいる本が本棚にあればふとした気まぐれに取り出すことができる。あそこちょっと読み返してみよう、あるいは、何か今必要なことが書いてあった気がする──そんな軽い気持ちで読み返して、ああやっぱりいいな、と感心することもあれば、こんなだったか、と落胆することもある。本は変わらないのに読むこちらが変わることで同じ文章が全然違う意味を帯びる。時間の経過や自分の変化を本を通じて自覚する。藤岡みなみさんはイアン・マクドナルドの『時ありて』の書評の冒頭にこう書いている。

 時間はいつも強引に、一方的に流れ続ける。本はその影響を受けない聖域であり、永遠の待ち合わせ場所だ。

その待ち合わせ場所で出会うのは他者とは限らない。過去の自分ということもある。プルーストの語り手のようにある本を開くことでその本を読んでいた遠い少年時代のある一日──午後の木漏れ日、遠くで鳴る鐘の音、自分を呼ぶ誰かの声──を想起することもある。過去を召喚しつかの間再び生きる。普段は忘却されている記憶という隠し扉を開く鍵としての本。鍵ならば常に手元に置かれていなくてはならない。

 

 

 

 

 

*1:たとえば野崎歓さんの『異邦の香り』

飯能ハイク 天覧山~多峯主山

起床8時過ぎ。せっかくの平日休みのなのでどこかへ行くか、しかし時間的に遠出は無理。俺が休日に出かける定番スポットといえば本屋古本屋か映画館しかない*1がそれらは土日でも行ける、できれば平日の人が少ないだろうメリットを活かせる場所を…と考え運動になるし久々の山歩きへ。選んだのは初心者向けの低山、天覧山。飯能ならさほど遠くない。軽く朝飯を食べたのち出発。ウォーキングは頻繁にしているが山歩きは去年の7月の高尾山以来。せっかくギアを買ったのに結局去年は3回しか山へ行かなかった。今年はもう少し頑張りたい。着ていったのは上はユニクロのドライTとフリース、下はノースフェイスのアルパインパンツ(タイツなし)、上着パタゴニアトレントシェル、あとキャップ。手ぶら。

 

飯能中央公園駐車場は広くて無料、天覧山登山口に近い、トイレもある、といいことずくめ。駐車場で靴下と靴を履き替えYAMAPを起動して出発。横断歩道を渡ってまずは能仁寺へ。広い境内にほかに人がおらず静寂の中お参り。すがすがしい気分に。この時点で億劫がらず出てきてよかったという気持ちに。

 

天覧山登山口への案内表示が境内にあったのでそれに従う。少し行くと出た。地元の高校生らしき若者たちがトレイルランしていたが体育の授業か。登山口周辺こそ舗装されているがすぐに道は土になる。ちょっと歩くと中段に出るのでそこからさらに上を目指す。十六羅漢を過ぎた先が山頂。20分弱で到着。

ヤマノススメの聖地。眺望よく遠くに雪をかぶった富士山が見えた。あっけないほどすぐ着いてしまった。少し休んでから多峯主山へ向かう。

 

多峯主山へ行くには一旦下る。かなり下る。こういう道になると山の中を歩いている感が強くなって気分がのってくる。

 

下りきるとだだっ広い野原。え、こんな広いスペースあるの? と意外に。案内表示に従って進む。途中「マムシに注意」の看板あり。

 

このあと長い見返り坂を登ると多峯主山山頂。スタートからここまで50分弱くらい。

 

風がびゅうびゅう吹いていて休憩するどころじゃない。飛ばされないようキャップの上からフードをかぶる。天覧山の方へ戻るのも芸がないし歩き足りないので雨乞池、御嶽八幡神社の方を回って下山することに。

 

途中にあったバイオトイレ。利用しなかったが。

 

雨乞池。

 

御嶽八幡神社お参り。日めくりカレンダーちゃんとめくられていた。

 

小石を積んだ。

 

地主様の土地。

 

山の中の鳥居に「和」を感じる。

 

下山するとまたしても荒涼たる原っぱに出る。

 

少し行くと脇にある幼稚園からピアノの音色が聞こえてきた。住宅が見え、前の道路を自動車が走っている。山歩きはここで終了。鳥居を出たら右へ。もう少し歩いて入間川の方へ向かう。

 

道路を渡りセイムスの横の道を入り住宅街を抜けて吾妻峡へ。セイムスの自販機でポカリを買って水分補給。汗はあまりかいていないようだが(歩いていても寒かった)喉が渇いていた。

 

吾妻峡。広くて、誰もいなくて、水は澄んでいる。今は禁止されているようだがBBQもできるのかな。とてもいいところ。水辺はいい。


入間川に沿って行くルートがマップに記載されていたがスマホの充電が20%切りそうだったので兎石まで歩いて引き返した。兎石…遠くから見れば兎に見えるが近づきすぎると見えなくなる。

 

で駐車場まで。ルート的にはこんな感じ。

 

運動記録はこんな感じ。800キロカロリー消費は盛っている気もするが…。

 

喉は渇いていたが空腹は感じなかった。駐車場からすぐ近くに瀟酒な飯能市立図書館があるので帰り道に寄った。ガラス張りだと本が焼ける心配をしてしまうが陽射しにはロールスクリーンで対応している様子。外観のみならず内装もとてもきれい。ソファに座ってスマホを少しいじって休憩。トイレを借りたらタンクレスでこちらもとてもきれいだった。ヤマノススメのポスターも貼ってあった。祝日明け火曜日でも開館しているのは図書館としては珍しいのでは。

 

帰りは消費したカロリーを補給すべくステーキのどんで肉を食った。

 

天覧山から多峯主山ルート、ちょっと舐めていたけれどかなりよかった。まずアクセスがいい。行くまでの道幅が広いのもいい。登山口に近い駐車場が無料なのもいい。天覧山だけでもちょっとした運動にはなるし、歩き足りなければ多峯主山まで足を延ばせば本格的な山歩きにもなる。寺社や池もあって道中のアクセントになっている。

 

山のほかにも今回は寄らなかったが飯能には丸善もあるし宮沢湖の方へ行けば温泉もある。道中にあったラーメン屋で食べてから宮沢湖温泉に寄るルートなんてよさそう。そうすればよかった。次はそうするか。

 

これを書いている今は19時半。少し足が痛くなってきたが今日は充実したいい休日を過ごせた。

 

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*1:以前はスパ銭もだったがコロナ禍以降行かなくなってしまった

松本創『軌道』を読んだ

 

 

以下、ブクログの感想からコピペ。

2005年4月に発生、107人もの死者を出したJR福知山線脱線事故のノンフィクション。この事故の原因は、収益向上のために安全性を軽視してまで過密ダイヤを編成しながらいざトラブルが起きると運転士個人に責任を押し付けるJR西日本の企業風土にあった。硬直した官僚主義、徹底した上意下達、被害者への謝罪より組織防衛を優先する姿勢、教育と言いながら実際にはミスした運転士への懲罰的な日勤教育などが取材を進めるうち明らかになっていく。

本書は主に三つの視点から読むことができる。
一つめは遺族のある男性が事故発生の原因究明とその改善を粘り強くJR西日本に働きかけ硬直化したこの組織のメンタリティを変えていった、いわば「プロジェクトX」的な視点。
二つめは国鉄時代に遡るJR西日本の歴史。「JR西の天皇」とまで呼ばれ恐れられた元会長の存在と、彼の「誤った人間観、歪んだ安全思想」や利益追求の精神がこの組織全体にいかに影響を及ぼしたかの考察。
三つめは失敗学というかリスクアセスメントというか、事故に対する科学的な視点。人間は必ずミスを犯す、それを懲罰によって更生しようとすれば隠蔽が蔓延する。大事なのはヒューマンエラーが起きなくするようなハード面での改良。そのための設備投資の重要性。福知山線の事故のほかにも信楽高原鐵道事故などが例として紹介される。この部分はブルーカラーの自分の日常業務と重なるところもあり勉強になった。が、やや専門的かつ冗長にも感じられたので一部読み飛ばした。

組織的、構造的問題まで踏み込む「原因究明」より個人の責任を追求して罰する「犯人探し」「処罰主義」の方が日本人の思想に合うのだろう、という本書の指摘に昨今の自己責任論の蔓延を連想して頷ける部分があった。

(コピペここまで)

 

事故は制限速度70キロの現場カーブへ運転士が110キロ以上の速度で進入したために起きた。遠心力で車両が傾き脱線、そのままカーブの先にあったマンションへ衝突。事故直後に撮影された写真、マンションの外壁に巻きつくような形になっていたのは二両目で、一両目は地下駐車場へ突っ込んでおり地上からは見えなかった。乗客106人と運転士1人が死亡、562人が重軽傷を負った日本の鉄道史上最悪の事故である。

 

運転士は直前の停車駅でオーバーランするミスをしており、遅れを取り戻そうと高速で運転したのと、ミスについての指令と車掌との無線のやりとりに気をとられてブレーキを使用するのが遅くなったのが直接の事故原因とされている*1。その背景には、停車時の余裕時間がない過密ダイヤ、ミスを犯した運転士への懲罰・見せしめ的な日勤教育の存在があった。そして取材報道されていく中でJR西日本がいかなる企業風土の組織であるかも明らかになっていく。「非常に硬直した、官僚主義の、表面上の言葉とは裏腹に、本質的な部分では自分たちの責任や誤りを決して認めず、絶対に譲歩しない、そんな組織」。被害者や遺族に頭を下げながら自分たちの誤りは断固として認めず組織を守ることを第一に優先する。説明会や裁判におけるJR西日本の態度に遺族や被害者は何度も失望し憤ることになる。

 

事故を起こした運転士はまだ20代前半で運転士になって1年にも満たなかった。何よりも安全運行を第一にせねばならない鉄道において若く経験不足の運転士でもそうできるようにするにはハードへの投資が必要だろう。しかしそうされていなかった。現場となったカーブはATS(自動列車停止装置)を設置する予定の箇所だったが安全より利益を追求する本社の方針により設置工事がスケジュールより遅れていた。これが設置されていれば事故が防げていた可能性は高い。一方で制限速度70キロのカーブに110キロ以上で進入するなどという事態を会社は考慮していなかったという言い分も頷ける部分はある。

 

阪急、阪神との競争に勝つためJR西は過密ダイヤを組み運行本数を増やした。結果利益は大幅に増加したが停車時間に余裕がないため列車の遅れは日常的に起きていた。列車が遅れたりオーバーランしたりすれば日勤教育が待っている。日勤教育は社訓を何度も書かせたり大声で叱責したりトイレへ行くのもいちいち断らねばならないなどおよそ運転士の安全意識向上や再発防止に効果的な内容ではない。同じく現場仕事をしている身として思うのは、人間は必ずミスをする、ということ。意図せず起きたミスに対して組織が懲罰で報いれば人は隠蔽しようとする。その結果、予兆であったかもしれない事象が見過ごされたり情報共有されなかったりして重大事故につながる。重要なのはハード面での対策だ。誤った操作をしてしまうのならその操作ができないようロックすればいい。作業者の安全意識向上や指差喚呼もたしかに大切だが、経験として、やらかした後になってもなんで自分はあんなことやってしまったんだろう? と魔が差したとしか思えないミスというのも起こり得る。

 

JR西日本がなぜこういう企業風土の組織になっていったのかについては民営化の歴史、「JR西日本天皇」と呼ばれた元社長の存在が関係している。会社と組合の闘争の歴史の部分は読み応えがあった。この元社長が悪の根源のような報道も当時されていたようだが、本書でその意見を読むかぎりでは一分の理はあるように思えた。とはいえ安全に関する認識は前時代的で、ある人物が評するように、優れた経営者ではあるかもしれないが公共輸送を担う鉄道事業者には不適格な人物だったのだろう、と自分も見た。

 

作家の柳田邦男による指摘が印象的だった。

 組織的・構造的問題まで踏み込む「原因究明」よりも、個人の責任を追求して罰する「犯人探し」が優先されてきた歴史が日本にはあると、柳田は私の取材に語っている。

 

「(略)

 処罰主義というものが日本人の思想に合うのでしょう、事故においても刑事訴訟法に基づく刑罰主義に傾いてしまう。行政処分にしても、やはり罰を与える発想に近い。それが世論にも、マスコミにも、行政内部でも納得を得やすいからです」

日本人の思想。

この箇所を読んで、脈絡なく、パトレイバーの内海さんの「強きをけなし 弱きをわらう」が日本人の快感原則だ、という台詞をふと連想した。事故後、JR西や国の機関と闘う「物言う遺族」の姿が報道されるにつれ、彼らに対する中傷が匿名のネット掲示板に書かれるようになり悪意ある噂が囁かれるようになっていった。「そんな心構えだから子供が事故に遭うんだ」「あの家は補償金を釣り上げるためにゴネている」「車を買い替え、家も建て替えるらしい」など。

 何が彼らを駆り立てるのかはわからない。家族の喪失と不在を埋められるはずもない「補償金」がそんなに妬ましいのか。遺族が「遺族らしく」悲しみに打ちひしがれ、泣き暮らしていないのが気に入らないのか。JR西のような大企業や国交省などの”お上”に楯突くのが生意気だと思うのか。それとも、たいした理由もなく、日頃の鬱憤晴らしに目についた人間を叩いているだけなのか。

こういうのって日本人のメンタリティなのか。それとも同調圧力の強いストレス社会だからなのか。ちょっと気が滅入った。

 

JR西日本の公式サイトのトップページには今もこの事故についての記述が一番上に掲載されている。この事故をきっかけにJR西日本は安全を第一に優先する鉄道会社になりました…と結べれば素晴らしいのだろうが、補章を読むと現実は厳しいようだ。点検していても設備トラブルは常に起きる。経年劣化もあれば思いもよらぬ原因もある。それが起きたときいかに予断を持たず楽観視せず対処できるかが問われている…とは自分の身にも当てはまること。俺も偉そうなことが言える立場では全然ない。人命を預かるほど重大ではないものの俺の仕事とて下手すれば人が死ぬ。大怪我する。今でも思い出すと胃が締めつけられるような、大声出して記憶を紛らせたくなるような怖い体験をしたことは一度や二度じゃない。忘れてえ。でも忘れちゃ駄目なんだ。

 

 

*1:やりとりをメモしようとしたのか、運転席には支給品の鉛筆が落ちていたという