ジョナサン・マレシック『なぜ私たちは燃え尽きてしまうのか』を読んで我が身を振り返る

 

 

ある日突然仕事に価値を認められなくなる燃え尽き症候群──バーンアウト文化について考察する。

 

少し前に会社で面白くないことがあったのが読んだきっかけ。

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問題解決のヒントがあるかもと期待して手に取った。先に結論から言ってしまうと知見は得られたが己の問題解決にはいたらなかった。糸口が掴めたかも…くらいな感じ。本文は読みやすいし考察の数々は面白かったので二晩ほどで読了した。

 

前半はバーンアウトについての考察、後半はバーンアウトへの対処方法。対処は難しそうと読む前からわかっていたが実際対処方法は弱い。即効性もない。読み応えあったのは前半部分。

 

バーンアウトは肉体的または精神的な疲労や、自尊心の低下および無力感の増大や、仕事の理想と現実のギャップなどから生じる。

 

かつて仕事は今日を生き延びるための手段でしかなかった。現在は違う。現代人は自分の尊厳やアイデンティティを仕事と結びつけて考えるようになっている。やりがいや充実感を求め、仕事を通じて自尊心が満たされたり人格の成長までも望むようになった。現代人は仕事に対して報酬に加えてそれ以上のものも得たいと期待するようになってしまったのだ。

 

そうなったのは長い時間をかけてプロテスタンティズム精神に則った勤勉さが少しずつ人々に浸透していった面もあるだろうし、資本主義社会で優位に立つために個人が労働に明け暮れるようになった面もあるだろうし、経営者にとって都合のいい勤勉な労働者を作り上げるべくメディアが「仕事に熱心に打ち込めば幸せになれる」と信じ込ませてきた面もあるだろう。人間は元来競争を好む。他者に勝つために熱心に働き、それで富を手に入れる隣人の姿を見たら、自分だってと思う。そのメンタリティは資本主義と相性がよかった。だから発展した。

 

だが働き過ぎれば、成果を挙げられなければ、他者から一切評価されなければ、いつまでも暮らしが楽にならなければ、対人業務で感情をすり減らし過ぎれば、いつか人はバーンアウトする。これ以上は働けない、と体が悲鳴をあげる。バーンアウトは誰もがなりうる点で鬱と似ている。実際、バーンアウトと鬱はなりやすい人の性格類型に親和性があるという。辛さを感じつつなんとか出勤していたのにある朝とうとうベッドから出られなくなる。本書の著者は学生時代から夢見ていた大学教授の職に就き、しかも終身在職権まで得ていながら、多すぎる事務作業や上司からの低評価や学生たちの無反応に長年耐えたすえ遂にバーンアウトしてしまう。理想と思えた職業だったからこそ、その職に就いたとき理想と現実のギャップに打ちのめされた。他人の挙動は要するに「お前はお前が思っているほど重要人物じゃない」と彼らが思っているのを示していて、それが自尊心を傷つけた。こちらが努力しようと相手が応じてくれない無力感。そんなのが毎日積み重なっていつか閾値を超えて決壊する。教師のみならず医療関係者やサービス業など人間相手の仕事いわゆる感情労働は、接する相手の中にはモンスターもいるだろうし(モンスターカスタマーモンスターペアレントモンスターペイシェント)、精神的に疲弊するだろうことは容易に察せられる。俺も今でこそ機械相手のブルーワーカーだが以前は接客業に短期間ながら就いていた時期があった。とにかく時間が長く感じられるし給料低いし休日少ないし変な客でもぞんざいに扱えないしでやっててメンタル的にきつかった。体力的には負担があるが今のブルーワークの方が俺の性格には合っている。

 

バーンアウトしてしまった著者。彼にとって素晴らしい仕事は大学教授ではなく学生時代にバイトでやっていた駐車場の係員だという。やりがいや成長といった高邁な理想など求めず、ただ家賃を払うための手段でしかない、仕事に没頭することなど考えたこともない、そんな仕事こそが理想的な仕事だとは。

 つまり逆説的ではあるが、仕事に没頭することがなかったからこそ、駐車場で働いていたころの私はあんなに幸せだったのだ。あの仕事は、仕事に倫理的あるいは精神的意義を持たせようとする考え方を徹底的に拒絶していた。仕事をすれば、尊厳や人格の成長、あるいは目的意識が得られるという約束もなく、良い人生の可能性がちらつかされることもなかった。駐車場の仕事で充実感を得ることができなかった私は、仕事以外の場所でそれを探さざるをえなかった。そして、文章を書くことや友情、恋愛に充実感を見いだしたのだ。

加えて、報酬が妥当だったこと、一緒に働く仲間たちと信頼し合ってうまくやれていたことも大きかったという。非番の日でも近くを通りかかったら同僚の様子を見に行くことを自然とやれるような恵まれた人間関係と労働環境。大学教授と駐車場係員の仕事を比較して著者はこう述べる。「私たちが仕事に持ち込んだ文化的理想が、私たちのバーンアウトに大きく影響しているのだ」。

だからといって著者はまた駐車場の係員をやろうとはしない。バーンアウトして大学教授を辞めたあと、今は別の大学で非常勤講師をしているとのこと。また駐車場の係員に戻って、空いた時間に執筆活動してるっていうなら徹底していて説得力あったんだが。なんかスッキリしない。

 

バーンアウトに対処方法はあるのか。著者は俗世の仕事をしながら制限を課す修道院、趣味を生きがいにする人々、障害者アーティストなどを訪ねてそれを探る。十分な余暇の確保、コミュニティの形成、労働しなくてもただ居るだけで人には尊厳があることの周知などが提言されるがどれも実行して効果を挙げるには時間がかかりそう。それは社会全体の価値観を仕事中心から人間中心に刷新することだから。いや、もちろんそうなったら素晴らしいだろうなとは思うが。

 

障害者アーティストが語る、病いとは資本主義的な概念だとの指摘が興味深い。

「<健康>な人とは仕事に行ける人」、<病気>の人とはそれができない人」を指すのだという。その結果、資本主義社会は病いを通常の人間の一部ではなく、異常ととらえる。ゆえに慢性病を患うということは、正常からの永遠の逸脱を意味し、社会から敬意を受ける資格がないことになるのだ。

なるほど。そうかも。こういう資本主義的メンタリティを現代人は内面化しすぎているのかもしれない。

 

仕事はあくまで仕事でしかない。過度な理想化は禁物。バーンアウトするのを防ぐには、仕事へ抱く期待値を下げ、同時に相手がしてくれる仕事への期待値も下げること。人格を仕事に委ねすぎないこと。そして人間の尊厳と仕事は無関係だと理解すること。などが必要になる。

労働は喜びだが、それは稼ぐ必要がある分だけ働くという労働だ。どのような仕事でもやりすぎれば悪影響は避けられず、それは良い仕事であっても変わらない。

 

「人間の豊かな暮らしに必要なのはコミュニティと、仕事を制限し、人々が互いの尊厳に配慮する機会をつくる定期的な余暇である」

 

現在働いている人なら誰もが、自分の仕事の理想と現実にギャップを感じる可能性がある。現在の労働環境ならすべての人にバーンアウトのリスクはあるのだ。それもまた労働者が連帯するきっかけになるはずで、現在の労働環境や私たちが仕事に期待するものを変える原動力になるだろう。私たちは、社会がつくった理想によって生じた問題を、ただ漫然と見ているわけにはいかない。私たちこそが社会なのだから、私たちならその理想を変えることができるはずだ。

現在の労働観でやってるうちはバーンアウトはつきまとう。それと決別して新たな労働観を常識にできたときバーンアウトをなくせる。著者は新たな労働観の形成にAIが寄与する可能性を示唆している。

 

 

…ここで自分の問題に立ち返る。

俺はバーンアウトはしていないが、日曜日の午後に「明日仕事に行きたくねえ」と強く思い、不安を鎮めようと本が入った紙袋をぶら下げて川沿いの土手を歩き出すというのは、その萌芽(とても小さい萌芽)くらいには考えてもいいかもしれない。幸いにもあまり物事を引きずらない性格なので月曜日出勤して1時間も経過した頃には普段のメンタルに復していたが。

 

上のエントリでこう書いた。

俺は、労働はクソだ、とは言わない。

労働は人生のいい暇つぶしになる。創意工夫を発揮する機会にもなる。それなくしては人生は長過ぎて退屈だろう。

だが、労働につきものの人間関係、これはクソだ。明らかにそうだ。

人間関係、とりわけ人間による人間の評価、これがクソすぎる。

気が滅入ったから歩いた - 生存記録

要するに自分ではやってるつもりなのに上司から思わぬ低評価されたことで自尊心を脅かされたわけだ。で、むかついたと。この状況が続くと無力感が募ってバーンアウトの危険性が高まるのだろう。自尊心だけじゃない。昇進しなかったり給与がいつまでも増えなかったりすれば自分にも自分がやってる仕事にも価値を見出すのが難しくなる。自信がなくなる。モチベーションも下がる。この労働観も刷新しなくちゃ根本的な解決にはならないんだろうが。

 

仕事は仕事と割り切っている。人格の成長や充実感を求めるほど過大視してはいない。でもどうせやるならいい仕事しよう、いい製品作ろうと思って毎日やっている。意識の高さからそうしてるんじゃない。どうせやるんだったら真剣にやった方がやりがいがあるからそうしているだけ。適当でいいや、なんてメンタリティでやってたら仕事に限らず何だって面白くならないだろう。それは愉快じゃないし俺の望みでもない。

 

俺のむかつき解消はどうしたらいいのやら。仕事は無理しない範囲でお茶を濁して趣味に邁進する? でもその趣味をやる金は仕事で得るんだから仕事で成果出す方が趣味のためにもいいだろう。上司と俺の相性がよくない可能性はあるかもしれない。環境が変わればまた別の評価になることは往々にしてある。だからとりあえず当面は穏便に凌ぎ時間を稼ぐ。状況は永遠じゃない、常に変化する。思わぬ展開がいずれ起きないとも限らない。そうなれば以前にはなかった道が開けたりもする。それに期待するしかない。無理せず真面目にやって状況が変わるのを待つ。

 

超消極的だが今出せる俺のとりあえずの対処方法はこんなところ。あと何日かで年末年始休暇。そこでリフレッシュして気分転換を図ろう。

 バーンアウトした大学教授が自分のバーンアウトを学生のせいにするのは簡単だし、教員の仕事量のせいにするのも簡単、教員の仕事を評価する管理職のせいにするのはもっと簡単だ。確かに、彼らのせいに見えないこともない。しかし私が教職でバーンアウトしていたとき、じつは管理職者たちもバーンアウトしていたのではないだろうか。管理職が私や同僚に対して、私がふさわしいと思う評価をしなかったのは、私が学生たちに相応の注意を払えなかったのと同様、彼らも相応の評価ができなかったのかもしれない。

こういう視点を持つことも大事かもな。