三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を読んだ

 

 

一般的な勤め人、週5日フルタイムで働いて、生活もしてってやってると、疲れちゃって読書する意欲がでないのはなぜか? という著者の実体験に基づく疑問からはじまる。読書はできないけどスマホSNS見たりとかはできる不思議。映画『花束みたいな恋をした』の主人公の、本を読んでも頭に入らない、パズドラしかやる気しない、という台詞も引用される。

 

実際俺も、朝起きて、飯食って、会社行って、人間関係に配慮しながらミスが出ないよう労働して、帰宅して、風呂入って、飯食って、何時までには寝ないと…と意識しつつ自由時間の息抜きに読書は最初の選択肢として挙がらない。本読まねえとなあ…と思いながらもスマホやパソコンでネットしたり、Switchでスレスパやったり、YouTubeで何度も見た動画を繰り返し見たりしているうちに寝る時間になり、もうこんな時間かと驚いて、枕元に積まれた読みかけの本(常時複数冊積んでいる)をぱらぱらとめくるも、ろくに読みもせぬまま消灯する…平日は大体こんなルーティンになりがちだ。

 

いや上記の他にも、スーパーやホムセンへの食料および日用品の買い出し、洗濯、散髪、通院、宅配の受け取り、洗車、部屋やトイレや風呂の掃除、壊れた家電の直し方を調べたり直したり買い替えたり、図書館や映画館へ行ったり、人と会ったり職場の付き合いがあったり、他にも挙げれば日常の用事にはキリがなく、常に時間は足りない。小さい子供がいる人は俺みたいな独身者とは比較にならないほどさらに時間がないだろう。うちには小さい子供はいないが小さい子供と大差ない認知症の母親がいて、世話が焼けるしストレスもある。子供は今日できないことが明日はできるようになる希望があるが認知症者は今日できたことが明日はできなくなる絶望しかないのでなかなか心理的に来るものがある。

 

だから著者のように時間が足りなくて、または疲れていて本が読めないのは現代において普遍的なことなのだ。そしてことは読書に限らない。本書における読書とは、別の人にとっては家族との団欒や音楽鑑賞やその他なんらかの趣味に置き換えることができる。要するに労働と生活以外の「人生にとって不可欠な文化」。その「文化」に充てるための時間を労働は奪っていないか?

労働と「文化」は両立させることが可能なのか?

本書で問われるのはそのような問いである。

 

著者は労働と読書の関係を明治以降の近代社会から探っていく。明治から大正にかけて、読書は階級格差の象徴的営みだった。大正時代に出現したエリート新中間層、すなわち都市部の大卒ホワイトカラーは自分たちが労働者階級とは異なることを顕示するために本を携えた。現代のわれわれが想像する「読書=教養」のイメージは大正から戦前のエリートサラリーマン層によって作られた。戦後、徐々に労働者階級にも教養を求める意識が広がっていくが、エリートは優越感から彼らを冷ややかに見ていた。

 つまり読書は常に、階級の差異を確認し、そして優越を示すための道具になりやすい。

SNSにオールタイムベストやら、買った・読んだ・見た・聴いたと小説や映画や音楽のタイトルを投稿するのが自分の趣味のよさのひけらかしになっている(ように見受けられる)人がいる。文化的なメディアには多かれ少なかれそういうアイデンティティ誇示の面があると思う。若いうちはいいけど中年過ぎたら他人の作った作品で自分を「表現」するような痛い人間にだけはならないようにしよう、と気をつけて生きているつもり、俺は。…と言いつつ、一人の本好きとして小説のオールタイムベスト、いつか記事にまとめたいなあ、と思っているのだけれど。内容よりそれに付随する個人的な思い入れを語る趣旨で。

 

70年代の政治の時代が終わり、80年代に女性にも教養が開かれ始め、90年代に労働環境が変化する。90年代以降の日本は、政治の時代から経済の時代になった。バブル経済の崩壊、長い不景気の始まり。新卒の採用者数削減。非正規雇用者の増大。80年代までの会社は滅私で尽くせば終身雇用で一生面倒を見てくれる家族のような存在だったが、その感覚は経済不況とともに消えていき、代わって自分のキャリアは自己責任で作っていくもの、との価値観が広まっていく。今となっては夢物語のような「一億総中流時代」が終わり、新自由主義的な価値観の時代が到来する。

 

自分が頑張れば日本が成長し社会が変わる──高度経済成長期にはそんな夢が信じられた。しかし90年代以降、そんな夢は消えた。経済も社会も自分たちの努力で変えられるものじゃない。目に見えない力によって大きな流れが生まれるもので、その流れにうまく乗るか乗れないかだけだ。それが勝ち組と負け組を分ける。そんな考え方が広く共有されるようになる。このような自己責任社会の風潮は90年代以降の自己啓発ブーム、スピリチュアルブームの背景でもあるだろう。

 

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何事も自己責任。自分が成長するための知識や教養は自分で獲得していかねばならない。少しでも多くを得るために効率性が重視される。映画は早送りで見るし、教養は情報として手軽に得たい。限られた可処分時間を無駄にしたくない。そう考える人たちが増えてくる。映画も教養もそれ自体としては必要としていない。コミュニケーションのため、あるいは人生の成功のためのツールとして求められる。コンテンツを楽しみとして「読む/見る」のではなく「知る」ことが目的になる。

 

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本書のタイトルにある問い。

なぜ働いていると本が読めなくなるのか。

その答えは二つある。

一つ。これは本は読めないのにネットはできる理由にもなるだろうが、読書は情報としてノイズ(不要な情報の混在)が多く情報摂取の手段として効率が悪い。一方でネットは欲しい情報にダイレクトにアクセスできる。ネットの方が効率がよくて楽だから本よりも気安く触れられる。結果、読書よりネットを優先してしまう。

 

俺はこの答えには違和感がある。ノイズ云々じゃなく労働で疲労している人間が手っ取り早くドーパミンを得たくてガチャ要素のあるスマホゲームをやったり、承認欲求を満たす「いいね」欲しさにSNSをやったりしているのではないだろうか。それらは読書では得られない中毒性のある快楽だ。つまり「読書できないのにスマホはいじれる問題」は情報摂取の観点ではなくスマホ中毒の観点で見るべき問題なのでは、と思った。俺がswitchでスレスパ(「買い切り型のパチンコ」)をやってしまうのも中毒なのだろう。

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もう一つ。新自由主義的な自己責任社会を生きるわれわれはつい「働き過ぎてしまう」。そのために疲労して文化のための時間を確保できない。

19〜20世紀つまり過去においては「企業や政府といった組織から押し付けられた規律や命令によって、人々が支配されてしまうこと」が問題とされていたが、現代の問題はそこにはないのである。

 21世紀を生きる私たちにとっての問題は、新自由主義社会の能力主義が植えつけた、「もっとできるという名の、自己に内面化した肯定によって、人々が疲労してしまうこと」なのだ。

新自由主義は競争を煽る。そして人は元来競争を好むようにデザインされている。また人には承認欲求がある。同僚や上司から認められたいという気持ち、または役立たずの烙印を押されたくないとの恐怖心もある。企業が社会状況を度外視して常に右肩上がりの成長を望むように、そこに所属する自身も右肩上がりに成長し続けねばならない──そんな価値観を内面化してしまうと人は自ら望んで働き続けてしまう。それが続けば…やがて燃え尽きる。鬱病になる。

 

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 日本のように、会社に強制されて長時間労働をしてしまう社会はもちろん問題だ。しかし諸外国の例が示しているとおり、新自由主義社会では会社に強制されなくとも、個人が長時間労働を望んでしまうような社会構造が生まれている。そもそも新自由主義社会は人々が「頑張りすぎてしまう」構造を生みやすく、それは会社が強制するかどうかの問題ではない。個人が「頑張りすぎたくなってしまう」ことが、今の社会の問題点なのである。本書の文脈に沿わせると、「働きながら本が読めなくなるくらい、全身全霊で働きたくなってしまう」ように個人が仕向けられているのが、現代社会なのだ。

 

 以前、作家の村上春樹エルサレム賞スピーチ(2009年)で「敵は壁にいて、小説は卵の側に立つ」と述べていた。「我々はみんな多かれ少なかれ、それぞれにひとつの卵なのだ」と村上は告げる。(略)しかし今、私たちは新しい局面を迎えている。私たちは卵=個人のなかで、自ら、壁=社会の競争意識の扇動を内面化しているのだ。つまり私たちは今、卵の内側に壁を抱えている。自分で自分を搾取してしまう。

 

読書論かと思わせて現代社会論に。この点は著者の言うとおりだと思う。現代は「手を抜く」ことがしにくい。俺のサボりが他の誰かの負担になってしまうと思えばとてもそんなことはできないし、俺ほどのボンクラであっても職場の人間から「できるやつ」と思われたい欲望はあるわけで。となると全力で働くしかない。会社から帰るとぐったりして飯も食えないほど疲れている日も月に何日かある。加齢とともに交代勤務制ブルーワークがしんどくなっている。テクノロジーの進歩と人手不足により現代のブルーワークは10年前定年退職した人たちがやっていた肉体労働メインな仕事ではもはやなくなっている。書類作成等の事務仕事や品質検査など生産以外の業務も多い。労働で体と頭と神経を酷使すれば定時にはぐったり、それを5日続けた金曜日には…早く帰ってベッドに横になりてえとしか頭に浮かばない。読書しようなんて…積んでいる『監獄の誕生』や『徴候・記憶・外傷』や『不安の書』を読もうなんて微塵も思わない。それをやる気力も体力ももう残っていない。

 

著者は現代のような全身全霊で働くことを求められる社会から「半身」で働ける社会にしていこうと提言する。半身で働き、もう半身を自分の大切な文化のためにとっておける社会に。その具体的な方法は各人に委ねられる。その意識が社会に広まれば半身社会は形作られるはずだと。

 半身で働こう。それが可能な社会にしよう。

 本書の結論は、ここにある。

これって会社での労働に限らない話だろう。子育てにせよ、親の介護にせよ、全身で打ち込む労働をしている人は、みな読書(自分の趣味)ができていないと思う。

 

 

俺自身の体感としても疲労が読書の機会を奪っているのは感じる。というのも仕事がある平日は読書する気が起きないが土日、とくに日曜は何時間もぶっ通しで読書できるから。だが疲労は労働によって生じるだけではない。加齢による部分も大きい、と考える。本書の最後に著者が働きながら本を読むコツをいくつか挙げているが、「自分と趣味の合う読書アカウントをSNSでフォローする」だの「iPadを買う」だの、違う、そうじゃない。いや、若い人ならそれでいいのかもしれないが中年本読みへのアドバイスにはなっていない。プロフィールを見ると30歳とまだまだ若いから中年の慢性的疲労状態が想像つかないのだろう。中年は常にだるくて読書に限らず何をするのも基本的に億劫なのだ。

 

俺は今年で47歳を迎えるが43歳が衰えの分岐点だった、と今振り返って思う。その頃、両肩が四十肩になって2年ものあいだ痛みに悩まされた。トイレが近くなり、眠りが浅くなり、目が見づらくなり、食欲も性欲も減退した。もう若くはないんだ、と自覚させられた。体力、記憶力、集中力も落ちた。本を読んでいるとだんだん目がしょぼしょぼしてくるし、ハードカバーは持ってると腕がだるくなってくるし、前読んだところを忘れて戻ることが増えるし、人物や地名や世界設定などを覚えるのが面倒になってくる。最後のは、若い頃はそういうのが知らない世界に入っていくという楽しさしかなかったのを思い出すと寂しくなる。映画やアニメでも第一話の序盤、覚えることが多い導入部分で乗れないと視聴をやめることが多い。

 

こんな俺でも20代から30代の頃は年間80冊から100冊ほど、海外の文芸をメインに本を読めていた。今と違って当時はブラック寄りな企業に勤務していたがダンテもセルバンテスラブレーも社会人になってから読んだ。フォークナーの長編やムージル『特性のない男』さえも。後者は一切内容を覚えていないが。俺が本を読めなくなったのは40代に入ってからだ。4年前に、いつか読もうと思いつつ先延ばしになっていた『失われた時を求めて』を長年の積読の末ようやく読了したが、読むのに丸一年を費やしてしまった。30代ならもっと早く読めたはず。

 

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だから人は加齢でも本が読めなくなる。たぶん働いていなくてもおっさんは本が読めない(自分で言ってて悲しくなるぜ)。身体というハードが劣化して本を読むだけの体力、気力が衰えるから。

 

結局、インドア趣味であろうと最後にものを言うのは体力なのだ。

読書のために運動しよう。