レジー『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』を読んだ

 

 

ここ数年、ビジネス書には教養のタイトルが使われるものが増えているという。

小説、映画、美術、音楽等の教養を手っ取り早く身につけ、それをビジネスで活かし、成功して金を稼ごう──主旨として大体そんなことが書かれているらしい。

 

教養とは、教育や勉強によって得られた能力や知識、文化全般に関する知識、必ずしも成功や金儲けにはつながらないかもしれないが人生を豊かにしてくれるもの。

夏目漱石三島由紀夫の小説を読む、黒澤明小津安二郎の映画を見る、バッハやモーツァルトの音楽を聴く、レンブラントフェルメールの絵を鑑賞する──それらをすることの楽しさはその行為自体にある。それらを楽しめるようになるには教育や勉強が必要で、学習を通じて知識を得るともに人格を高めていく。教養を得る過程に金銭的な損得勘定が介在する余地はない。教養とは金額に換算できない価値である。

…というのが俺が抱く教養のイメージ。大方の意見も似たようなものでないだろうか。中島らもは、教養とは「一人で時間をつぶせる技術」だと書いていた。『今夜、すべてのバーで』は名作である。

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(余談になるが、教育によって教養を得る=人格を陶冶するなんて啓蒙的な考えは、ナチの強制収容所の高官たちが当時最高の教育を受けていて、ゲーテやバッハを嗜み、自宅ではよき家庭人だった、と知らされたあとでは疑わしいものと思える。)

 

上で俺が述べたような教養はいわば古き良き教養のイメージ。現代では変わりつつある。

「楽しいから」「気分転換できるから」ではなく「ビジネスに役立てられるから(つまり、お金儲けに役立つから)」という動機でいろいろな文化に触れる。その際自分自身がそれを好きかどうかは大事ではないし、だからこそ何かに深く没入するよりは大雑把に「全体」を知ればよい。そうやって手広い知識を持ってビジネスシーンをうまく渡り歩く人こそ、「現代における教養あるビジネスパーソン」である。着実に勢力を広げつつあるそんな考え方を、筆者は「ファスト教養」という言葉で定義する。

 

本の内容を知るのに要約本を読んだり、映画を見る代わり要約動画を見たり、名作を列挙したリストを穴埋め的に利用したり。ビジネスに使えるネタとして教養を仕入れてうまく立ち回ろう、ファスト教養を求める人のメンタリティは概ねそんな感じであるという。映画を、友人とのコミュニケーションツールと見做す若者たちの話と通じる部分がある。

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なぜファスト教養なるものが広まってきたのか。

背景には自己責任論の蔓延がある。公助は期待できない。稼げるようになるのも稼げなくなるのもその人の自己責任。そういう考え方が世の中に広まると人は当然転落しないようスキルアップしようとする。ビジネススキルを向上させて稼げる人となり競争社会を勝ち抜きたい。技術の発達によりスキルアップ情報は無限にある。けれども時間は有限だからなるべく効率的にやりたい。コスパ、タイパ意識の目覚め。コスパ、タイパ意識が高まると効率性や生産性こそ正義だと考えるようになる。手っ取り早く知識が得られるファスト教養の需要が増す。そういうニーズを満たすためにしょうもない本を量産するメディアにも問題はあるだろう。資本主義が強すぎるのだ。金儲けとは本来縁遠かった分野まで餌食にされてしまう。

 

効率性・生産性至上主義を社会全体に敷衍すれば社会にとって有用な人(稼げる人)ほど価値があり、そうでない人は不要な存在との価値観が生まれる。ファスト教養を牽引する一人である、あるインフルエンサーは、自分の払った税金を生活保護の人に使ってほしくないと発言して炎上した。2019年には台風通過に際して野宿者が避難所に受け入れ拒否されるという事案があったが、それに対して「ホームレスなんだから(税金を払っていないのだから)自己責任」といった意味の書き込みがネットに多数あったという。一部の人たちにとっては税金支払い能力の有無、納税額の多寡がその人の尊厳を計る重要な要素らしい。

 

自己責任社会を生き延びるためファスト教養で競争相手と差別化して自身の市場価値を高めたい。SNSによって他人の人生が手元のスマホで簡単に見られる現代では常に他者との比較が生じる。いいことしか投稿されないSNSを見続けていれば自分以外はみな成功しているように思われ焦りが募る。キラキラしている(ように装っている)他人の姿を見るにつけ、惨めな自分は生きている価値なんてない存在のように思われてくる。

 

こうした一連の流れを見ていると、自己責任社会を土壌にしてそびえるスキルアップ自己啓発という一本の幹からファスト教養とは別の枝も伸びているのではないか、と自分には思われてくる。スピリチュアリティという枝が。

 

いくらファストなものとはいえ教養を得るための努力は容易じゃない。興味関心がないものであるならやってて楽しくないから気が進まないだろう。しかもモチベーションが競争社会から転落したくないという恐怖心に依拠しているせいでポジティブになれない。精神科医中井久夫曰く「安全を求め、死から遠ざかろうとする行動は真の喜びを与えない」。恐怖回避行動は楽しくなりようがない。で、努力したくない、考えたくない、けれども自己啓発はしたい、という層がハマるのがスピリチュアリティではないか、というのが俺の見立て。神社にお参りしたりパワースポットを巡ったりすれば努力なんて面倒なことはせずともご利益を得られるのではないかと願って。長財布を持てば金持ちになれる、みたいな期待。自己啓発としてのスピリチュアリティについては全然整理できてないので言いっ放しになってしまうが(支離滅裂だと人に笑われるかもしれないけど)今後も考えていきたいと思っている。俺にとって他人事では決してないので。

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ファストだろうと教養ならばないよりマシじゃないのと考える一方で、俺の好きな作家や作品を金儲けツールと見てんじゃねえよと反発する思いもある。若い頃から今まで(歳とって読むのがだんだん面倒になってきているが)文芸は自分に多様な世界や価値観があることを示してくれ、それによって時に救われてきた。映画の中の夢のような映像はしばしば現実を忘れさせてくれた。俺にとって教養とは、現実生活に役立てるものではなく、現実とは別の場所に束の間であれ精神を遊ばせるものだった。これまでの人生で微々たる量とはいえ読書や映画鑑賞をしてきて、稼げるようになったり人格を向上させたりはできなかったけれど(もちろん俺は自身を教養ある人間だなんて思っていない。その逆だ)、生きる助けになったと思っている。

 

ただ、こう言っちゃなんだが、本当に教養が──たとえば世界文学の最高峰とされるドストエフスキープルーストを読むことが──ビジネスに、金儲けに、役立つのかね。出口治明シェイクスピアを話題にできたことでビジネスに繋がったと述懐しているが。「教養がビジネスに役立つ」というムーブを作ることがインフルエンサーや識者()にとっても出版社にとっても都合がいいから、そういう体にしてマッチポンプしているのではないか、との疑念はある。病人みたいな人物ばっかり出てくるドストエフスキーの小説や、細部にとことんこだわって長いセンテンスを連続させるプルーストの小説がビジネスとどう繋がるのか、俺には見当もつかない。

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本書に、教養とは「運命として与えられた生まれ育ちから自身を解放するもの」「私達を自由にするもの」という読書猿による定義が引用されている。金儲けのツールとしてよりも、俺はこちらに賛同したい。教養とは何かのための手段でなく、それを学ぶこと自体に楽しみがあるもの。その結果として自由が得られるもの。そうであってほしい。なんでもかんでもビジネス、金儲けじゃあまりにも世知辛くて味気ない。インターネットも商業主義がはびこってつまらなくなった。

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本書ではファスト教養への対抗策として、古き良き教養的な知識とビジネスで競争力を持つための知識の両輪を回すことが「ポストファスト教養の哲学」と結論される。折衷的で、妥当かもしれないがこの結論にはあまり魅力がない。本書のよさはファスト教養が勢力を増していく社会の風潮の分析にある。結論はおまけのようなもの。面白かった。