蒐集──これも生きる者のサガか… とみさわ昭仁『無限の本棚』を読んだ

 

著者の開店した古書店について(現在は閉店している)、自身の蒐集家としての来歴、そして蒐集という行為についての考察、大体そんなことが書いてある。俺ももう30年近く本を買い集めてきた蒐集家の端くれである(はず)なので蒐集行為について──何が人を蒐集に駆り立てるのか──という問いかけに関心を持って読んだ。

 

と言っても大体自分の中では答えは出ていて、それは著者も本書で述べているし、鹿島茂先生もどこかで書いていたように思うのだが、混沌を自分なりに秩序づける快楽がおそらく原動力になっている。世界を自分なりに整理したいという欲望、と言ってもいい。物は無限に世界に溢れている。その中からこれはという物を発見し、自分なりのルールに従って集めていく。おのずと限界がある。対象物の範囲、経済力、入手可能性等々。それらの縛りの中で時間をかけて、時に運に助けられながら、ハンティングによって対象を入手し、自分だけの世界を少しずつ構築していく喜び。本書では、人が蒐集家になるきっかけとして切手と鉄道のパターンが多いという。この説にどれほど妥当性があるかはわからないが、少なくとも自分の場合は当てはまっている。小学生の頃、ほんの1年か2年程度だが切手収集にハマっていた時期があった。その頃は本を集めてはいなかったが藤子不二雄(当時)のコミックスはそれなりの数が本棚に並んでいた、ように記憶している。第何巻、というのは、この続く数字というやつは、蒐集したい、揃えたい、と人に思わせる魔力があるように思われる。

 

本書の著者はさまざまな物を蒐集してきた来歴を持つが、俺が一風変わっているな、と思ったのは、何かを集め始めるとそのジャンルで日本一のコレクターになりたくなる、という部分で、俺には理解できなかった。蒐集していてそんな大それたこと考えるか? また、ジッポライターを集めていたとき、ジッポライターはレア物が定番化していて自分の蒐集も他人の蒐集もだんだん似てくるから冷めて売ってしまったというくだりがある。これらには界隈での自分の位置を確認しようとする客観的な意識がある。俺なんかは主観的に、ただ自分が欲しいと思うものを集めればそれが他人と比較してしょぼかろうが、他人と被っていようが全然気にならない。大事なのは己の満足感だけだから。そう、俺の場合、基本的に自分がいいと思うものだけを揃えられれば満足なのだ。本でもたとえばなんとか全集全何巻のうち関心ある巻だけ持っていれば事足りる。むしろ欲しくもない巻まで買って物が増えることに耐えられない。1から順に数字を揃えることには興味がなくて*1自分にとっての一軍だけを棚に並べたい──すでに棚に入り切らず床積みになっているが──という気持ちが強い。それにしても、子供の頃、いや学生の頃までは確実に、「すぐ読む本」だけを、すなわち買うときは本を一冊ずつ買っていたはずなのに、いつから「いつか読む本」を、つまり複数冊の本を買うようになったのだろう。今では本屋をハシゴして一日3冊5冊買う日も珍しくない。まったく記憶にないが、「すぐには読まないがとりあえず買う」ことを初めてした日、積読するようになった日、それが分岐点だったように思う。交際している女性はほとんど本を読まないので俺のこういう行動が理解できないらしく、今ではもう慣れたが最初は変な奴だと思ったという。どうして買ったのに読まないのか? 当然の疑問である、本なんだから。その理由を(本に限らず)蒐集家ではない人に説明するのは困難である。

 

 純粋な蒐集の快楽だけを求める行為。それは景品のないビンゴを延々とやり続けるようなものだ。あるいは、七つ揃えても神龍が出てこないドラゴンボールを集めるようなものかもしれない。(略)純粋な蒐集の快楽とは「混沌とした状態に秩序を取り戻すこと」だ。バラバラに散ったものを一ヶ所に集めたい。集めて番号順に並び替えたい。それは物欲にも勝ることがある。

 ぼくは物を集めることへの衝動を病的なまでに追求してきて、ようやくその正体を捕まえた。

 コレクションとは「物欲」と「整理欲」のふたつから成り立っていたのだ。

著者曰く、物欲派は物それ自体に執着する。撮影結果がそれぞれ異なるカメラをいくつも揃えたり、聞きたい音楽があるからレコードを集めたり。一方で整理欲派は数字に執着する。あるカメラの型番すべてを集めたり、あるレーベルのレコードを聴きたくもないのに全部集めたり。

 どちらが主でどちらが従ということではない。どちらかの欲望しかない人もいるだろうし、両方を備えている人もいる。

 

 物欲派、整理欲派、どちらもコレクターであることには変わりない。だが、その根っこにあるのは、まったく異なる精神性なのである。

 

この基準だと俺は物欲派。整理欲はあまりない。というか、どの口がという話なんだが、蒐集する一方で物を多く持ちたくないという気持ちもあって、所有物を増やしたくないから自分にとっての一軍だけを揃えるようにしているのかもしれない。実際、俺の部屋は本以外には物は少ない。洋服も(私服を制服化しているので)数は多くない*2。本を消してしまえばわりとミニマリストっぽくなる。本だけがなあ…。といってもあるのはせいぜい400冊くらい*3だから蔵書家の方々と比較したら無きに等しいようなものだろうが。嵩張るし、埃っぽくなるし、管理に気を使うし(乾燥しすぎると歪む、直射日光に当てると焼ける)紙の本はいっそ片付けたい、というか過去に何度か大幅な蔵書整理をしたことがあって、当座はせいせいするんだがだんだん本の無い部屋が落ち着かなくなって買うようになり徐々にまた増えていってしまう*4電子書籍が身近になってからは漫画や一回読めばいいような本やセール対象の本はそっちで買うようにして、物体として所有する喜びを与えてくれるような本は紙で買うようにはしているんだが、そのへんのルールも結構曖昧になってしまっている。もう45歳、そろそろ終活も視野に入れていかねばならぬ身ゆえ積極的に手放すようにはしているのだが。

 

なぜ腕時計でもカメラのレンズでもスニーカーでもフィギュアでもなくて本なんだろう? 俺自身に何かコンプレックスがあってそれを埋めるために知的な物を集めようとしたがるのだろうか*5? 学生運動の時代に読みもしないマルクスをファッションアイテムとして持ち歩いた学生のように? …どうだろう、ないわけでもないだろうが、俺、そんな知的な本ばかり買ってるわけでもないしなあ…。子供の頃から本は読んだが熱心な読書家でもなかった。本より漫画、文字より絵の方が好きだった。両親のうち母親は割と読む方だったが父は新聞とたまに雑誌くらいのものだった。俺が育ったのはだから読書に関してはごく一般的な家庭だったといっていいだろう。弟はアウトドア派。なぜ俺だけが読むように、さらには集めるようになったのか。謎だ。

 

自分の好きなものに囲まれた巣で暮らしたい、という願望はあるように思う。居心地のいい空間を作りたい、という*6。そしてそのために本は必須であると俺には思われる。理想の部屋、理想の家、というワードで空想すると本棚は当然のようにあるものとして連想される。他には観葉植物があって、ガレージがあって…。紙と植物によって部屋を森に見立てられないかと考えたこともあった。

hayasinonakanozou.hatenablog.com

自分だけの森。一人でいたい願望があり、けれども一人きりでは寂しいから、その寂しさを紛らす助けとして本を求めるのかもしれない。あと、単純に装丁のいい本は所有するといい気分になれるというのもある。

イメージの所有しかり積読しかり、テクストの繙読だけが読書の快楽ではないということは、実のところ誰もが知り日常的におこなっていることではなかったか。ある本の存在を知る愉しみ、探索する愉しみに買う愉しみ、所有の愉しみ、眺め触る愉しみ、書架に並べ整理する愉しみ、そしてページを繰る愉しみ斜め読みをする愉しみ……読書をめぐる書物の快楽には実際かように多面的な側面がある。

 

山中剛史「書物としての奇書/オブジェとしての書物」『ユリイカ 2023年7月 特集奇書の世界』所収

 

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

 

ブルース・フッド『人はなぜ物を欲しがるのか』では、物への情緒的依存は所有物が所有者のアイデンティティの一部を形成するために生じる、とウィリアム・ジェイムズの自己観を引用しながら指摘している。所有物とはその人が「私のもの」と名指せるもの全般を指す。物だけではなく、「妻子も、祖先も友人も、名声も仕事も、所有する土地も、ヨットや銀行口座にいたるまで、あらゆるものの総和が自己となる」。サルトルは人は所有物によって自己意識を強化すると説いた。

フランスの哲学者ジャン=ポール・サルトルは、人間が所有したがる唯一の理由は自己意識を強化するためであり、人間は──あたかも、所有物を通して自己を外在化せずにはいられない存在であるかのように──自分の所有物を観察するという方法によってのみ、自分が何者かを知りうるのだとした。(略)私たちは所有物を通して自己のシグナルを他者に発信しているが、所有物はまた、自分は何者かというシグナルを私たち自身に発信し返すものでもあるのである。

自己規定の手段としての所有物。では俺は俺の本を通じて、俺はこういう本を読む人間である、というシグナルを自分に発信しているわけか。俺なりに本の趣味に良し悪しの判断基準はあって、趣味のいい読者、エレガントな蒐集家でありたい、という気持ちはある。それが俺のアイデンティティの一部でもあるのだろう。

 

 

 

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

*1:一部例外もあるが

*2:似たような服ばかり持っている

*3:プラス電子書的が200冊くらい

*4:だから俺には子供の頃からの蔵書はない。途中で断ち切られてまた最初からの蒐集を何度か繰り返している。もし次に蔵書整理することがあればそれが最後になるだろう。また一から蒐集するには年齢的に人生の残り時間が少なすぎる。つまり今ある蔵書が最後の蔵書である。

*5:俺は大学除籍者である

*6:だからインテリアはそれなりに配慮しているつもりだし掃除もする方だと思う。