小島美羽『時が止まった部屋 遺品整理人がミニチュアで伝える孤独死のはなし』を読んだ

 

 

著者は遺品整理・特殊清掃で働く専門家。実際の現場を再現したミニチュアの製作も行っている。それを紹介しながら孤独死現場での体験とそれに基づいた意見を述べる。

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孤独死と聞くと壮絶な現場がイメージされる。

死後相当時間が経過してから発見された遺体。蛆がわき、体液が布団や床に染み込み、猛烈な異臭が室内に充満する。

人間は誰もが死ぬときは一人(心中だろうが死の体験は個人的なものだ)だが、交友があったり会社に勤務していれば比較的早く周囲が異変に気づいてくれるだろう。親族を含め人間関係が希薄だと異変に気づかれにくく、遺体は放置され、上記のような壮絶なものになる*1

そう、孤独死とは孤独な生の結末なのだ。

 

 独身で実家での一人暮らし。両親は他界。無職。部屋には馬券などギャンブルのはずれ券や新聞が大量に散乱。飲みかけの一升瓶や大量のカップ酒の容器、山となったコンビニ弁当の空き容器……。

 

 五、六十代男性。

 発見されるのは、死後三〜六か月。

 発見者は、害虫の増加や異臭などの異変に気づいたアパートの大家さんや、水道メーター検針員、新聞配達員。

 これが、わたしが訪れた孤独死の現場で、最も多いケースだ。

これは…将来の自分じゃないのか。

独身中年。今はまだ両親は生きているが十年後は俺一人になる可能性が高い(なりたくないが…)。無職ではない。当座の生活費もある。だが十年後はどうなっているかわからない。馬券や新聞はないが(前者はネットで購入、後者は父親がいなくなったら購読をやめる)代わりに本が多い。今のところ晩酌はやめているので空缶空瓶はない。だがまた飲むようになるかもしれない。コンビニ弁当の代わりにスーパーの弁当や惣菜の容器は溜まっていそうではある。

 

死んだときに会社勤めしていれば無断欠勤で電話がくるだろうし、それで連絡がつかなければ手を打ってくれるだろうからあまり心配はしていない。そして自分は体が動いて会社が認めてくれるなら65歳まで今の会社で働くつもりでいる。でも先のことなんてどうなるかわからない。会社を辞めてしまえば友人のいない自分は社会との接点がなくなる。65歳まで働く理由は金が欲しいというより社会との関わりを失いたくないからだ。人は孤独になると狂う。自分は狂いたくない。

定年までに趣味の集まりみたいなのに参加できていればそっちでの交友関係が築けるかもしれないが、ずっと地元で暮らしていながら学校時代の友人と疎遠になるほどのコミュ障にそんなことが可能なのか?

 

本書では著者が制作したミニチュアとともにさまざまな孤独死現場が紹介される。

ゴミ屋敷での死、トイレでの死、浴槽内での死(自動追い焚き機能付き)、複数頭のペットを残しての死、壁に「ゴメン」の文字を残しての死。

経済的に困窮していたと思しき人たちがいれば経済的に裕福だったと思しき人もいる。貧乏人も金持ちもいつか必ず死ぬ。芸能人とて孤独死するのだ。高級マンションでの孤独死は部屋の気密度が高いため異臭が漏れにくく却って発見が遅れる場合があるという。

生き方が人さまざまであるように死に方もまた人さまざまだ。

 

自分が付箋を貼った箇所の一部を引用する。

 何十年もかけてごみ屋敷化していくこともあるが、たった二、三年で部屋を覆い尽くすほどの量に達することもある。特に女性の場合は、それまで何の問題もなく部屋をきれいにしていたのに、ちょっとしたきっかけや切実な事情からごみを溜めこんでしまうことがある。

 

 まず、職業上の理由によるもの。特に接客業や激務をこなす人に多く、わたしが依頼されたなかで具体的にあげると、弁護士、水商売、看護師、芸能関係が多い。客や患者、仕事仲間に神経を遣い、激務をこなして家に帰る頃にはすべてのエネルギーを使い果たしてしまい、家のことや自分のことは後回しになってしまうのだ。

 (略)

 つぎに、ストーカーの被害者。こうした女性のほとんどがごみを外に出せずに苦しんでいる。実際、わたしが依頼を受けたタレントの女性もそうだった。とても深刻な状況で、ストーカーが真向かいに住んでいて常に監視されているため、外出時についてきたり、引っ越しをしても必ず同じ建物にストーカーも引っ越してくると頭を抱えていた。洗濯物を外に干すこともできず、ごみ袋を漁られるのが怖くて外に出すこともできない。

ストーカーは警察案件だろ…と思うが、ハードな感情労働の現場で精神的に疲弊して私生活が破綻する、みたいな話はよく聞く。体力はHP、精神力はMP。感情労働はこの両方を消耗する。

 

 冬場になると、トイレやお風呂、廊下でヒートショックを起こして孤独死する人が多くなる。

 ヒートショックは暖かい場所から急に寒いところに行くなど、極端な温度差による血圧変動があると起こる現象だが、トイレでいきんだときに血圧が上昇し、排便後、急に低下するためヒートショックが起こりやすくなるそうだ。

冬場は便座やトイレ、風呂場を温めておくのが対策になる。便器と体液、バスタブから溢れる体液、どちらのミニチュアもインパクトがある。

 

 わたしが訪れた現場では、自分が死んだあとで他人に迷惑をかけないようにと入念に準備をしていた人が多い。床にブルーシートを敷いて、体液などで床が汚れないようにしていたり、部屋の退去時に荷物が多いと人に面倒をかけるので自ら持ち物や家具を処分しておいたりと、さまざまな準備がされている。

 けれど、実際に清掃作業にあたってきたわたしから見ると、どんなに準備したとしても万全ということはない。

「多い」とあるこれは自殺の現場の話。ブルーシートで体液の浸出は食い止められても腐敗臭や害虫の発生は防げない。集合住宅なら最悪フルリフォームになるかもしれない。

それにしても…なぜ室内で、なのだろう? 他人に迷惑をかけなくないと考えるような真面目な人なら、屋外、たとえば林の中や崖のほうがよほど後始末は楽だと考えそうなものだが。やはり外で一人で、は勇気が要るのだろうか。

 

別に死んだあとのことなんかどうでもいいじゃん、どうせ自分はすでに死んでいるんだから。後は野となれ山となれ。そう思っていた時期が俺にもありました。というか本書を読むまではその考えでいた。

だが火事場泥棒の話に己の見識の浅さを思い知らされた。

 みなさんは孤独死の現場というと、どういうイメージを抱いているだろうか。もしかしたら「孤独」という言葉から、静まり返った場所を想像するかもしれない。

 しかし、現実は真逆だ。

 意外に思われるかもしれないが、騒然としている。

 なぜなら、「故人の友人」と名乗る人たちが次々に現れるからだ。

 

 わたしが依頼人である遺族と作業の段取りをしているときや、特殊清掃をしている最中に、彼らは住居の前を何回も通りすがり、室内の様子をうかがいはじめる。そして勝手にずかずか部屋にあがり込んでくるのである。その「友人」は、けっしてお悔やみを言いに来たわけではない。遺品整理を手伝いに来たわけでもない。

 目的は何か?

 換金できそうな物や、自分が使いたい物を持ち出すためだ。

この「友人」たちは遺族のいる前で平然と「貰う約束をしていた」と言い張って高価な釣り竿を三十本も持ち去ったり、グループで上がり込んできて「売れば100万になるぜ〜」と嬉々としながら故人が収集していたフィギュアを持ち去ったりする*2

故人と疎遠だった遺族は彼らが本当に友人だったかどうかわからない。だから制止できず、あるいは図々しさに気圧されて彼らの好きにさせてしまう。著者が請け負ってきた孤独死の現場の八割近くにこうした「友人」たちが現れるという。

 

趣味のためのアイテム、好きで集めた収集品、それらならまだ泥棒されても我慢できなくはない(いや、できないが)。しかし大事な思い出の品──たとえば親からプレゼントされた万年筆だとか、形見の腕時計だとか、恋人に貰ったアクセサリーやバッグだとか…そういう思い出の品物を火事場泥棒されるのは想像しただけで怒りがこみ上げてくる。心底からの嫌悪感が湧いてくる。

死んでるからどうでもいい? とんでもない。大切な品物は自分の一部といえるものであり、それらを卑しい他人に勝手に持ち去られるのは死んだあとで体の一部を奪われるのに等しい。

 この仕事をしていて辛いと思うのは、汚物でも激臭でも、虫でもない。

 こんなふうに人間の「裏の顔」が垣間見える瞬間だ。

胸糞悪い話。

火事場泥棒に奪われるくらいならそれが好きで欲しいと思っている人に生きているうちに譲りたい*3。本も。カメラやレンズも。車も。

金は…残っていたとしたら寄付か?

 

いや、ぶっちゃけ死んだあとなら捨てられようが燃やされようがいいのだ。ただ、知らない奴の欲望の犠牲者になりたくないだけで。

死んだあとなら体に悪戯されたって構わないと考える人がいるだろうか。その延長線上としての考え。

もちろん、生前から家族や親族に囲まれたのちの死ならば火事場泥棒の入る隙はない(はず)。社会と疎遠・無縁だからこそつけ入られる。

 

孤独死という言葉が人口に膾炙するようになって久しい。超高齢化社会ゆえの問題だろう。

死という自分の意志で左右できない問題*4であるからか、不安や恐怖を煽る文脈での紹介が多いような気がする。結婚しないと、子供がいないと、社会から孤立すると、待っているのは孤独死だよ、とでも言わんばかりの問題提起の仕方が。そんな中、本書はフラットに孤独死について書かれていていい本だと思った。結婚していても子供がいても孤独死するときはするのだという現実を教えてくれる。実際に現場を見てきた人だからこその説得力。

 

孤独死は社会問題か? なくなることが望ましいのか?

わからない。どのみちなくせないし。

思うに、孤独死を問題視する場合、死そのものより発見されないまま腐乱死体になって周囲に迷惑をかける、そこにフォーカスしている部分はないだろうか。いわば「一人で死ね」の延長線上の問題として。

しかし現在では、人はもはやなんとしても生きよとも、勝手に死ぬなとも言われない。騒ぎを起こさず静かに人生から退場してくれ、とだけ言われる。あなたたちを養う余裕はもうないのですよ。「社会」が個人の死を凝視している。優しく、かつ残酷に。

 

市田良彦「死が作品になりえたころ」

岡崎次郎マルクスに凭れて六十年』解説

 

社会との接点を保ちつつ、生きているあいだは自分の身の丈で人生を楽しみ、後を濁さずこの世に別れを告げたいが、さて、俺は一体どんなふうに死ぬんだろう。

 

 

 

 

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岡崎次郎の死に方はある意味で理想的な死に方のように思えてしまう。

 

 

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*1:二年間発見されなかったケースが本書で言及されている

*2:彼らは「換金できる物だけを持ち出して、故人との思い出も、お悔やみの言葉を口にすることもないまま帰っていった。」

*3:貰い手がいるいないはまた別の問題

*4:自殺は違うが