岡崎次郎『マルクスに凭れて六十年 自嘲生涯記』を読んだ

 

 

ブクログに書いた感想をコピペ。

岩波文庫、大月書店の『資本論』翻訳者による暴露本的な自伝。法政大学出版局から出る予定だったが当大学の教授や学生を揶揄する箇所を書き直すよう言われて応じなかったため青土社からの出版になったといういわくつきの本。40年ぶりに増補改訂新版として航思社から復刊。新宿の模索舎で購入した。

 

戦中の満鉄調査部での麻雀・碁三昧のサラリーマン時代もひどいが戦後の大学教授やりながらのマルクス翻訳時代はもっとひどい。岩波文庫資本論翻訳は向坂逸郎との共訳との口約束だったが実際には下訳扱いで名義は向坂逸郎単独訳にされる。実際には著者の全訳なのだが。自分の方が相手より「下」だから文句を言えない。しかし下訳者のはずなのに岩波書店からの印税は折半。ということは岩波書店向坂逸郎訳として資本論を出しながら著者も共訳者として認めていたことになる。本書による暴露に関して岩波はダンマリ。著者はそんな舐めた扱いをされてなお向坂に歯向かえずこんな本を書いて暴露するしかないのが情けない。大月書店から新訳を出すとなったとき向坂と揉めて岩波文庫の権利を放棄しそれに向坂が「それでけっこう」とだけ返事して終わりなのには呆れるのを通り越して笑ってしまった。醜悪すぎる。金の亡者という言葉がふと浮かぶ。

 

驚くべきは一見被害者に見える著者が現在の金額に換算して3億円近い印税を受け取っていたこと。今では信じられないが半世紀前にはマルクス関連の書籍がそれほど売れたのだ。岡崎は印税に加えて河出書房から月100万円(現在の金額に換算)もの編集費を長期間受け取り続けさらに大学から給与も貰っていた。それほどの金がありながら、本書出版後の失踪直前には口座に400万円程度しか残っておらずそれが全財産だったという(印税は「一円も残っていない」「蓄財は皆無」と書いてある)。自宅は渋谷の賃貸マンション? 億を超える大金を一体何に使ったのか? 向坂逸郎は「御殿」と呼ばれる大邸宅を建てたが、著者は自分の金の使い道について詳しくは書いていない。これが資本論翻訳者たちの実際の姿。まったく、結構な話ではないか。解説では著者岡崎も本書もかなり手厳しく書かれているがむべなるかな。

 

本書の結びはこれから死へと赴く人の遺言のよう。79歳でマンションを引き払い、足の不自由な86歳の妻と二人、西の方へ旅に出ると言い残して失踪した。遺体は今日まで見つかっていない。それを「マルクス主義への殉死」だとか「老人の美しい死」だと思えるほど自分は繊細な感性を持っていない。マルクス主義に殉じる? しかし著者がマルクス主義者だったときがあっただろうか。「暢気な虚無主義者」、友人から貼られたレッテルがこの人の本質を言い当てているように思える。

 

岩波文庫資本論』翻訳の内幕を暴露したのち妻とともに失踪した人物──自分が岡崎次郎に関心を持ったのはその点から。学生時代の恋や友情の話、満鉄勤務時代のお気楽リーマン話には読んでも興味を覚えなかった。本書が面白くなるのは戦後。翻訳問題の顛末、法政大学の内情、受け取った金の話などが話題になる。岩波文庫資本論』翻訳に関して著者は被害者だが印税は当初の話し合いで決めたとおり折半だったし(大月書店から「改訳」を出す際に向坂と揉めて権利放棄)尊厳の問題はあるだろうが実は取っているので同情する気持ちは起きない。

 

当時の出版界の盛況ぶりは現在ではにわかに信じがたい。これほどまでにマルクス関連の本が売れ、出版社は翻訳者に多額の金を払えるほど余裕ある時代がかつてあったのだ。「翻訳はおろか学術書全般がもはや悲喜劇的に売れない*1」今ではあり得ない話。そしてもうこんな時代は二度とこない。

 

本書を読んで俺が思った以上のことが市田良彦さんによる解説に書かれている。その苛烈さは思わず苦笑してしまうほど*2。学術や思想といった営為、権威に泥を塗り失墜させるような内容ゆえその方面から批判されても仕方ないとは思う。でも書かれているのはすべて本当のことなのだ*3。登場人物は全員実名。それにしても不思議なのは岡崎は何億もの金を(向坂とは「蓄財の才にかなりの開きがあった」にせよ)一体何に費やしたのか、ということ。金の使い道についても書いてあれば本書はより楽しくなっただろうに。書けなかったのか、書かなかったのか。向坂に対して恨んでいないような調子で書いてはいるが権利放棄したあとで恨み言を連ねるのを読むに、本音では腹に据えかねていたんだろうと察する。

 

 

 

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財産を使い切ってこの世を去るのは今の俺にとっては理想的な死に方。

 

 

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マルクスに凭れて六十年』が復刊されたのなら訳者間でトラブルになって現在入手不可能な『ヘルメス文書』の復刊も可能性なくはないか? 俺は持っているし国会図書館のデジタルコレクションで閲覧もできるみたいだししなければしないでも不都合はないが。

 

*1:解説より

*2:仮想通貨の「億り人」の例えは腑に落ちなかったが

*3:著者はあえて露悪的または自虐的に書いていると感じる箇所あり