松浦晋也『母さん、ごめん。2  50代独身男の介護奮闘記 グループホーム編』を読んだ

 

前作、要介護の母親と同居する独身中年として共感しながら読んだ。

前作は著者が自宅介護の限界を悟り母親をグループホームに入居させるまで。本書はそこから始まる。

前作も一気読みだったが本書も二日ほどで読み終えた。

 

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

前作では50代だった著者も本書の終わり近くでは還暦に、母親は88歳になっている。

 

うろ覚えだけれど介護離職するなと何かの記事で呼びかけていたのはたしか著者だったと思う。

むろん家族なのだからやるべきことはやる。が同時に役所や施設職員など他者(であると同時に専門家)の支援を積極的に受け一人で背負い込まないようにしないといけない。そうでないと介護する側、される側、ともに倒れてしまう。

もっとも要介護者が人間ゆえ(そして老人になると本来の性格を先鋭化させる傾向があるゆえ)なかなか折り合えず難しいことが頻繁に起きるが。

介護とは、作戦(オペレーション)なのだ。母を介護し、看取り、葬儀を出し、相続から納骨に至る諸事を片付け、その後、健康な状態で自分が介護以前と同じ日常生活に戻るまでが、ひとつながりの作戦なのだ。

人、金、制度をいかにうまく使うか、戦略を練らねばならない。

「介護で人生を終わらせてたまるか」という強い気持ちで。

 

我が家の場合、今はまだ自宅介護できているのでグループホームに関する知識自体が乏しい。本書の「はじめに」を読むと、普段意識していないから気づかないだけでグループホームは驚くくらい身近に立地しているというが中がどうなのかは外からは窺えない未知の領域だ。

 

要介護の家族がいる身としては読んでいてどうしても内容に実用性を期待してしまう。

以下、本書でとくにためになった箇所をいくつか。

 

グループホームに入居していても治療のため入院となったら「介護の主体はホームから家族に戻る」

グループホーム介護保険で運用されているが、何らかの病気や怪我で入院となった場合健康保険の適用対象となるのでホームのサービス対象から外れてしまう。主体が家族に戻るといっても入院だと基本的には病院側が世話をしてくるわけだが、これは意外と知られていないのではないだろうか。少なくとも自分は本書で初めて知った。

 

認知症の根底には不安がある」

認知症の方の症状は多様だ。それぞれ固有の認知症の現れ方を抱えている。と、同時にその奥底には共通して、「不安」と、不安からの脱出手段としての「帰る」が渦巻いているのである。

 

認知症の人の内面には、不安が渦巻いている。記憶が続かなくなり、性格が変化していくことが主観的には「自分が変化している」ではなく、「周囲がおかしくなっている」と感じられるのだろう。だから、自分が元いた安心できる場所に帰りたいと主張する。

 しかし、不安は認知症に起因するものなので、帰ったところで不安は解消しない。不安が消えないから、こんどは別のところに帰ろうとする。「やっぱり戻る」というのは、消えない不安に対する反応なのだろう。

 

どこかに帰ろうとしての徘徊には、一緒に住んでいたいまは亡き配偶者とか両親や兄弟に会いたいという、切ない心の動きがあったりする。

あるいは自分の子供時代に帰ろうとしているのかもしれない。

子供時代の記憶は最近の記憶より鮮明に残されているものだと中井久夫さんが何かで指摘していたが(認知症者が現在の首相の名前は言えなくなっても小学校時代の担任の先生の名前はよく覚えている)指摘されるまでもなくそういうもので、それが人生の最後に見える世界なのかも。おぼろな視界に煙のように漂う子供時代の風景。

「じゃあ魔法の国へ来る?」

「今はもういい」私は首を振った。「知らないところは疲れるようになっちゃった」

「知ってるところなら行きたい? 知ってるところでもう行けないとこ」判らないまま頷いていた。彼女は帽子を脱ぎ、私の手を引きその中へ誘った。「さあこっちへ」

 

矢部嵩『魔女の子供はやってこない』

 

後期高齢者の健康について

「やっぱり食事です。食べるってとても大切なことなんです。認知症が進んでも、食べている間は、人間は生きていけます。食べなくなったら、一般にそこからは早いです」

 

口腔衛生が悪化すると口内で雑菌が繁殖する。その雑菌が誤嚥 で気管に入れば誤嚥性肺炎を起こす。高齢者が肺炎で亡くなる場合、多くは誤嚥性肺炎だ。高齢者にとって、オーラルケアは生死に関わるのだ。

高齢者に限らず口腔衛生は大事。関節炎との関連についての研究報告もあった。

natgeo.nikkeibp.co.jp

 

俺自身もオーラルケアにはかなり気を配っている。

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

 

ホーム職員とのコミュニケーションの重要性

常日頃からホームとコミュニケーションをとって、スタッフとの円滑な関係を作っておいたほうががトータルで見た家族の負荷は下がる。できればホームのスタッフは、ホーム長以下、全員の顔と名前が一致するようにしておきたい。

 家族がホームに通うのは、入居する親の顔を見ることが目的ではある。が、それは半分だ。残る半分は、ホームのスタッフと話をして、客観的な親の状態に関する情報を仕入れると同時に、スタッフとの人間関係を構築して、入院などの緊急時に備えるということなのだ。平常運転のときからお互いに遠慮することなく、本音で話し合えるようにしておくと、緊急事態時の対応はスムーズになる。

当然といえば当然の話ではある。

今は必要ないけれどいずれホームにお世話になるかもしれないので覚えておきたい知識。

ただ、アタリのホームが近所にあってそれを引けるか、というガチャ的要素の方がより重要な気もするが…。

 

著者の母親は本書ラストでも健在。

うちの母親も著者の母親よりはだいぶ若いけれども健在。元気。ただ足が悪いので歩けなくなってきている。野生動物なら歩けなくなったら終わりだが人間は社会が生かしてくれる。ありがたいことである。

 

前作に介護問題に関連して社会の分断を批判的に見る箇所があったが、本書にも自己責任論への反論や老人の安楽死への反対がある。自己責任論については自分的には「親ガチャ」なんて言葉も出てきたしそろそろ潮目が変わるんじゃないかなと思っている。

安楽死は──そもそも誰にとっての安楽なんだよという思いが前提としてあるが──まだ日本に導入するのは早すぎる、それを受容できるほど社会が成熟していない、と自分は見ている。著者が述べているように「自分なら迷惑を掛ける前に死ぬ」というのは「空論」だよな。「それは「自分はいつまでも老いない」という錯誤と表裏のうぬぼれに過ぎない」。