約25年前、俺は世田谷区は祖師ヶ谷大蔵のアパートで一人暮らしをしていた。
時はバブル崩壊直後のこと。
当時すでにそう呼んでいたか、就職氷河期ど真ん中の世代である。
大学を除籍になり学生ではなくなったので労働する必要に迫られ、ある接客業に就いた。なぜ地元ではなく都内に就職したのかについては省略する。
会社は梅ヶ丘にあった。今だったら職場に近い梅ヶ丘で賃貸住宅を探しただろうが、なにぶん一人暮らし初心者である。溜まり場になったら嫌だとの陰キャ的発想から職場から少し離れた祖師ヶ谷大蔵に住むことにした(結局溜まり場にされるほどの親交を職場の誰とも結ぶことはなかった)。
職場はそこそこブラックだった。これも詳細は省く。嫌になって10ヶ月で退職した。というかバックれた。そのあと散々電話がかかってきたがすべてスルーした。二度ほど家まで社長と店長が来たが居留守を決め込んだ。1階だったので中に俺がいないか確認するために雨戸を開けたのには驚いた。雨戸がガタガタし始めたので慌てて押し入れに隠れて難を逃れた。敷地内への不法侵入だろう。今だったら退職代行を利用したかもしれない。
そのあと警備員のバイトについた。工事現場なんかで棒振るやつ。これは最初の仕事より続いた。1年以上。毎日のように就業場所が変わるのが億劫だったが、自転車を購入して真面目に勤務した。環七だったか環八だったか、当時大掛かりな工事をやっていてそこの夜勤が大人数でやれたので楽しかった。俺は接客業には向いていない。対人関係がなく自分の持ち場の仕事をやればいい、そういう仕事の方が向いている、と思った。給料も、夜勤があったから前職よりずっと稼げた。日勤で日当1万円くらいだったように記憶している。ただし社保はなかった。
警備員をやってるうちに2年が経ちアパートの更新時期がきた。もう都内に住み続ける理由はなかった。なので埼玉の実家へと「都落ち」した。そこから俺の数年にわたる引きこもり生活が始まるのだがその話はもう何度もこのブログに書いたのでここでは繰り返さない。
あれから四半世紀が経過した。
その間、小田急線に乗る機会は一度もなかった。都内へ出かけることは数えきれないほどあったが、小田急が走っている方面には用がなかった。箱根や江ノ島へは何度も出かけたが車でだった。
去年、藤子・F・不二雄ミュージアムがある登戸へ行くのに久々に小田急に乗った。
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帰路、途中通過する駅名の数々を見ていて、不意に、昔住んでいた土地を再訪したくなった。
かつて住んでいたアパートは俺が契約した当時すでに結構な築年数が経っていたが、検索すると今も健在だった。それを知るとなお気持ちは募った。
登戸へ行ってから半年が経ってしまったがこのたびようやく時間を見つけて小田急沿線のいくつかの土地を再訪することができた。本記事はその記録である。
千代田線で代々木上原まで出てそこから小田急に乗り換え。真っ先に祖師ヶ谷大蔵へ向かいたいところだが路線図的に梅ヶ丘から下っていくことにする。祖師ヶ谷大蔵から上らない理由は後述する。
約25年ぶり、職場のあった梅ヶ丘駅に到着。小田急の他の駅にも言えるのだが俺が利用していた当時はこんな屋根はなくて吹きさらしだった。エスカレーターもなかった。長い階段が南北出口それぞれにあってそこを上り下りしていた。
改札ももちろんこんなに広くなかった。再開発されて今時っぽくなっていたからびっくりした。今調べたらSuicaの利用が2001年に始まったらしいから俺は切符やカードの定期券を利用していたことになる。そういえばそうだったかもしれない。自動改札機はすでにあった。
改札出るとフラットになっていて南北出口どちらにもアクセスしやすい。すでに書いたけど俺が通っていた頃は反対側の出口へ行くのにいちいち階段で移動しなければならなかった。職場は南口にあったのでそちらへ出る。
いやはや、すっかり立派な駅になっていて見違えた。この歩行者スペースは当然なかった。奥のマクドナルドは当時からあった。たしか、できたばっかりじゃなかったか。
このセブンイレブンも当時からあった。何度もここで買い物した。
このケーキ屋も当時からあったような気がする…と思って調べたら、あった。買ったことはないが。繁盛しているようだった。
寿司の美登利。ここは当時もっと行列がやばかった。建物こんな形だったかな? この角の店舗はテイクアウト専門で、右奥の道を少し進んだところに食事できる店舗がある。そっちはさらに大勢並んでいた。
この蕎麦屋、バイトの人と知り合って、その関係で一度だけ食いにきたことがある。天ぷら蕎麦を注文した。
蕎麦屋の向かいがカルディ。俺の記憶ではこのあたりに奥行きのあるわりと大きめの本屋があったはずで、うろうろしたが見つからず、たぶんこのカルディが本屋の跡地なんじゃないかと推測。Xで検索してみたらどうも当たっているよう。本屋がなくなってすでに十年以上が経っているらしい。
この近くには個人経営の弁当屋があって、そこへほぼ毎日職場の人たちの昼飯を買いに行った。大盛りの、かなりコスパのいい弁当屋で、ドカ弁ってのをよく注文していた。何が入っていたかは忘れたがその強烈なネーミングと量は今も記憶に残っている。500円しなかったかなあ。職場の先輩に一人、鮭弁ばっか食う人がいた。一度ぼーっとしてて鮭弁をこの弁当屋で買わずセブンで買って帰ったらキレられたことがあった。周囲を探索したものの見つからず、諦めた。ネットで「梅ヶ丘 弁当屋」でちょっと検索もしてみたがそれらしい情報は得られず。
ここは当時珈琲館だった。
もっとも驚いたのはかつての職場が消滅していたこと。職場があったビルには今は別の会社がテナントに入っていた。何年か前に思い出して検索したときにはまだ存在していたんだが。当時の先輩方、現在ではみな50歳を過ぎている。どこでどうしているのやら。
梅ヶ丘では駅周辺と職場のあったエリアを少し探索して終わり。当時の俺は今以上に行動力のない人間だったのでほかに思い出のある場所はない。当時通った店は駅前のセブンとマック、見つからない弁当屋、それくらい。仕事が終わればまっすぐ帰宅。寄り道して帰るという選択肢はなかった。「自分だけの部屋」にさっさと帰って一人になりたかった。
電車に乗るのも味気ないので北口から歩いて豪徳寺、経堂を目指す。どちらも数回行ったことがある、という程度の土地だが。
途中で初めて見る自販機に遭遇。生搾りオレンジジュースらしい。写真だけ撮ってスルーしてしまったがこういうの見かけたらとりあえず買ってみる、という発想が出てこないことが俺の人生の貧しさの原因な気がする。陽キャなら「何これ、初めて見た。買ってみるか」ってなるんじゃないか。俺の陰キャたる所以よな。
サメと思ったがクジラか?
この日の日中気温、24℃超え。めちゃ暑かった。
豪徳寺駅前に到着。まったく覚えていないから感慨とくになく、通過。豪徳寺駅って改札出ると何段かの階段があったんだが現在はその面影はもうない。ほぼフラットに。
このアングル、『秒速5センチメートル』の「桜花抄」ですね。
シンメトリーが綺麗な世田谷線の線路。
経堂方面。桜と巨大マンション群。歩道が整備されており歩いていて気持ちよかった。
これも噂の排除ベンチの一種か? 座る分には問題なさそう。
経堂駅前の桜。
経堂駅前。めっちゃ栄えてる。いや、当時を覚えていないので比較しようがないが、当時はこんなじゃなかった気がする。パスタの五右衛門に行列ができていた。
こんな商業施設が。経堂コルティというらしい。中にはスーパーやレストランや無印良品や三省堂書店などが入っている。4Fには花壇がいくつもあって休憩できるベンチがたくさん。しかし屋根がないので日差しが直接当たる。
こんなに大きな建物作っちゃって。今回の再訪で一番時の流れを感じた場所がここ。施設の規模のわりに人の数に余裕があって窮屈な感じがしなかった。
経堂から小田急に再び乗車。といっても千歳船橋を通過するだけだったが。
かつて住んでいた思い出の地、祖師ヶ谷大蔵に到着。急行が止まらないから早く新宿方面へ出たいときは隣駅の成城学園前を利用していた。
何百回と見た景色のはずなんだがまったく覚えていない。
北口へ出るとウルトラマンがお出迎え。円谷英二の自宅が祖師ヶ谷にあったのと、円谷プロ本社が砧にあった縁で祖師ヶ谷大蔵はウルトラマン推しらしい。もちろん俺が住んでいた当時はこの像はなかったしこんな広場もなかった。
この花屋があったのは覚えていた。
この不動産屋でアパートを契約した。和室の1K、家賃5万弱だった気がする。
このパチ屋もあった。でもこんな洒落た外観ではなかった。リニューアルしたのか。
ウルトラマン商店街。途中にあった洋食屋に行列ができていた。
横に並んで記念撮影した。
ゾフィー?
砧図書館。ここにたびたび通った。中へ入ったら記憶にあるよりずっと小さい図書館だった。一番奥にテーブル席。大半は持ち帰って読んだがたまにそこへ腰掛けて借りる前の本を読んだりした。すぐそばの読売新聞販売店も当時からあった。
このあと路地を入って少し行ったところにあるアパートを再訪。今住んでいる方がいることだしブログに上げるのはやめておく。俺の写真フォルダの中には収めてある。ああ、ここに住んでたなあ、と部屋のドアの前に立って、しかし何の感慨も抱かなかった。ろくに外出せず、自炊せず、コンビニ飯ばかり食って、『ベルセルク』や太宰治をこの部屋で熱心に読んでいた。あれから四半世紀。あっという間だった、ここに住んでいたのがついこないだのようだ、とは思わない。その後いろいろなことがあった。時間はしっかり流れている。積み重なっている。実感としてそう思う。
南口にもちょっとだけ出た。渋谷へ行くときはここからバスで行っていた。電車だと下北沢での井の頭線乗り換えが面倒だったので。バスの車窓から景色を見ているのが好きだったのもある。所要時間は電車の方が早いだろうが。
ここいらでスマホのバッテリーが10%を切った。腹も減った。行きつけだった飲食店でもあればそこへ行くのだが当時の俺はコンビニ飯、スーパーの飯、牛丼のテイクアウトばかり食っていた。なので行く店のあてもない。南口側のバーガーキングへ入った。バーガーキング、コンセントないんだな。てっきりあるかと。
なのでセブンイレブンで初めてモバイルバッテリーレンタルを利用した。アプリ登録してレンタル、返却は他の店舗でも可。便利なサービス。1時間弱借りて60%まで回復。360円だった。今後もお世話になるかも。
北口に戻り商店街を北上する。この珈琲館は当時からあった。このあたりにかなり狭い本屋があったんだが見つけられなかった。そこで新潮文庫のカポーティを何冊か買ったことがある。
商店街、人の賑わいあり。
有名な自転車屋。俺が自転車を買ったのはここではなかった。
祖師ヶ谷住宅。かなり年季の入った住宅が並ぶ。上京したての頃、この前の通りで子供連れの女性に道を尋ねたら知らないと言われ「東京の人って冷たいな」と思った記憶がある。
桜がいい感じに散っていた。
住宅街に急に畑が出現するのが世田谷の面白いところか。
埼玉でも見ないようなレトロな駐車場精算機を発見。
ひたすら北へ歩くこと20分か30分。
最終目的地、世田谷文学館に到着。
今月末から開催の伊藤潤二展のチケットは初日分をすでに購入済み。場所の下見と、リーフレット貰うのと、常設展があれば見ていこうかと思って訪問。
残念ながら常設展はなし。リーフレットをもらって奥の喫茶店でレモネードで一服した。どんぐりという店名にはそぐわない重厚な喫茶店ながら良心的な価格で気に入った。
この文学館の館長は古典新訳文庫で精力的にドストエフスキーの翻訳を出している亀山郁夫先生とのこと。
リーフレット。伊藤潤二作品は『富江』と、あとはいくつかの短編くらいしか読んだことはないのでファンでは全然ないのだが興味があったので行くことに。展覧会、別に熱心なファンしか行ってはいけないというものではないだろう。ミーハーな関心から行ってみて、そこからはまる可能性だってあるわけだし。連休中の楽しみのひとつ。
行き、小田急で祖師ヶ谷大蔵から梅ヶ丘へのルートをたどらなかった理由は世田谷文学館に寄りたかったから。帰りは芦花公園から京王線で新宿へ出た。ブックファーストで本を買って帰路に就いた。
というわけで俺の小田急沿線再訪はこれにて終了。5時間ほどの行程だった。
約25年ぶりに訪れて、変わったところ、変わっていなかったところ、どちらもあった。再訪してみて、郷愁をそそられないことが意外だった。気持ちの上ですでに決別した過去ってことなのだろうか。記憶が薄れすぎて土地への思い入れがすでに失われてしまっていたのもあるかも。今後の人生で祖師ヶ谷大蔵や梅ヶ丘を訪れることは二度とないだろう。訪れる理由がもはやない。
2年を過ごしたにしては思い入れのある場所が少なすぎた。もっとあちこち遊びに出かけて思い出をたくさん作っておけばよかった、と今更ながら思った。せっかく東京に住んでいたのに。
そのとき楽しんだ経験が後から回想する楽しさに繋がる。その土地を去ってから、ああ近所にあんないい場所があったんだ、と気づくことが俺には多すぎる。抜けてるんだろうな。30代でした2回目の一人暮らしも、すぐ近所に大きい公園や低山があったことを退去してから知って、どうして住んでいたとき行かなかったのか、と後悔した。
今の暮らしも、平日はほぼ毎日会社と自宅の往復、たまにスーパーへ寄り道、それだけを反復していて、きっといろいろ取りこぼしているのだろう。プルーストの長編小説のように、後から回想するという楽しみのために今を積極的に生きる姿勢が人生において重要なのではないだろうか。後から振り返るに足る人生を、俺は今生きているか?
さて、十分に過去は振り返った。
明日からは、また前を向いて生きるか。