便利でつまらなくなったインターネットについて

 

わかってるわかってる。おっさんは自分が歳食ったせいで楽しめなくなっただけなのに「〜は終わった」「〜は死んだ」「もうあの頃の〜は帰ってこない」って言いたがるよな。よくわかってる。そんなん言ったって何も変わらないし周りの人を不快な気持ちにさせるだけだしなんなら終わってるのは俺の方かもしれないんだから、そう思ったなら黙って立ち去るのが老兵(兵?)のあるべき姿だよな。

 

宴会は終わった…未練がましくいつまでも店に残ってんじゃねえよ…終電なくなる前にさっさと帰れよ…なに期待してんだよ…。

いや、でもやっぱり言っておきたい。

インターネット、昔よりつまらなくなってねえか?

 

俺が言う昔ってのは大体「電車男」あたりから東日本大震災前後の、2000年代前半から2010年代前半くらいまで。で、俺が言うインターネットは個人ブログとか2ちゃんねるとかニコニコ動画とかそのへん。その当時は個人によるいろんな言論()があったり、たびたび炎上もあったけどバズ狙いのそれじゃなかったり、ニコニコ動画のノリは今ならきっつくてそっ閉じするだろうが当時は笑ってた。今じゃステマがひどくて見る気がしない個人の「買ってよかったもの*1」も結構参考にしていた。Amazonリストマニアってサービスも世界を広げてくれた。俺が利用していた範囲のインターネットはコミュニケーション含め(俺は昔も今も滅多に他人と絡まないが)比較的平和でまったりしていて何より信用できた。

 

つまらなくなった理由はなんとなくわかってる。俺の加齢=感性の衰えは別にして、スマホが普及してマス層の流入があり、人が増えたことでビジネスになると見込んだ人や企業によって市場化され、SNSは自己顕示欲と承認欲求の発散やエコーチェンバーの場となり、PV数に応じた広告収入システムがバズ狙いであえてする煽り・炎上を誘導した。コロナ禍がSNSでの陰謀論やフェイク情報の拡散を加速させた。読むに堪えない中傷やビジネスへの誘導を行うアカウントの増加。何を見ても広告大杉。Google検索がクソ化して個人サイトがヒットしづらくなった*2ステマが多すぎてネットの情報が信用できなくなった。昔はテレビや雑誌よりネットにこそ真実(リアルな声)があると思われたものだったが今のインターネットにあるのはカネと怒りばかり。

 

ビジネスの場になってしまったのが一番大きい変化だろう。俺にとって、ネットはかつて現実とは別の自分でいられる別の場所、現実からのアジールだった。でも今は違う。今やネットは「現実の上にかぶさっているもうひとつのレイヤー」であり、巨大な市場である。広告ビジネスはPV数に依存するため検索表示に影響を与えてくる。結果、欲しい情報へのアクセスしづらさが発生する。

 

…以上が、自分の体感をもとにしたネットがつまらなくなった理由の分析。あくまで俺にとってつまらなくなった理由。俺が個人サイトにこだわるのはインターネットは多数の参加による自由な表現・発言を可能にする場である、というweb2.0的なイメージから脱却できていないせいかもしれない。当時新鮮だったんだよな、普通の人が自分の日常や趣味について自分の言葉で語っているのを読むのが。最初に受けたその印象が強すぎて20年が経とうとする今でもその幻を追い続けている。もっとも、今では見知らぬ他人の日常にはほとんど関心を惹かれなくなっているのだけれど。それでも興味の対象としての他人というのは残り続ける。「みんなはどんなふうに生きているのだろう?」

 

ネットがつまらなくなった反面便利になったのは間違いない。公共サービスの申請や金融口座の管理も家にいながら(スマホならどこでも)可能になったし、店舗でのスマホ決済が普及したおかげで現金を持ち歩かなくても済むようになったし、イベントチケットの予約もできるようになったし、不用品をフリマアプリで気軽に売り買いできるようになった*3。ネットがインフラと化したことによる利便性の恩恵は俺自身も受けている。

 

便利になった。でもつまらなくなった。

というのが今の俺のインターネットに対するお気持ち。

 

なのでネットに費やす時間は減りつつあり、代わりにこれまで読む習慣がなかった雑誌を今年はいろいろと読んだ。素性の知れないアカウントによる、大袈裟・奇抜なだけで信憑性の乏しい投稿文の洪水に嫌気が差し、プロの書き手によって書かれプロの編集者の手が入っている記事への信頼性が増した。俺の中でのオールドメディアの復権。「コンテンツの摂取とは、食事によく似ている」との今年読んだ『ネット右翼になった父』の一節が身に沁みる。

hayasinonakanozou.hatenablog.com

 

 

で、先日たまたまこの本を読んだ。

とても面白かった。80年代から2010年代までのインターネットについての言説史──技術的な発展に伴い人々がどのようにインターネットを利用し、どのように捉え語ってきたかの歴史についての対談。断っておくが著者お二人はインターネットがつまらなくなったとは一言も語っていない。しかし俺はこの本から、俺が感じていた「つまらなさ」の原因を探ることができた。そしてそれは上で述べてきたことと大筋で同じだった。

 

80年代、ゲームとパソコン通信がメインだったコンピュータ文化がインターネットへと発展していった背景には西海岸思想*4があった。西海岸思想のルーツには60年代のカウンターカルチャーにおけるヒッピーの思想がある。それが日本に輸入された際にはなぜか欠落してコンピュータ文化はSF的なサブカルチャーとして趣味の文化、同人文化と融合する。

 

90年代、日本のインターネットはアングラ・サブカル文化の一部として受容される。当時、インターネットは「現実にとって代わるオルタナティブなもの」だという考えが強かった。カウンターカルチャー的なものがサブカルチャーとして消費され、やがてカルチャーの内容よりもそれをきっかけに起こるコミュニケーションが優位になっていく。楽天ができたのが1997年で90年代後半からインターネットをビジネスに活用しようとする風潮が出始める(当時eコマースと呼ばれた)。アメリカの場合だとビジネスとカルチャーが一体化しているのに対して、日本ではカルチャーとビジネスを切り離そうとする風潮が強かった。「嫌儲的なノリは本当に根深いですもんね」「結局、日本のインターネット観というのは、「等しく貧しい場所としてのインターネット」だったんじゃないでしょうか」。

 

00年代、インターネットの商業化が加速する。日本のインターネットが求めていた最高のコミュニケーションの場としての2ちゃんねる。匿名で好き放題悪口が言える居心地のいい場所。モブから顕名化への流れ。その象徴としての「電車男」。「ネットの群衆が作ったものを吸い取ってお金を儲ける枠組み」の走り。掲示板のログを転載しただけの本がベストセラーとなり映画やドラマにまでなる(版元は新潮社)。今だったらヤラセとして話題にもならないだろう。インターネットの広告ビジネス化に伴いPV数を稼ぐためのコンテンツの増加。悪質なサイトであっても広告収入が入るからGoogleは対策しない。クローズドなmixiの流行。「インターネットでは立場とか関係なしにみんなが意見を自由に交換できると思っていたけど、実は全然そんなことなかったし、むしろみんな内輪のコミュニティを重視するようになっていった」「今ではインターネットは現実の上にかぶさっているもうひとつのレイヤーくらいに考えられていて、「こちら側/あちら側」という区分は成立しにくくなっています」「いまのインターネットは現実と本当に変わらない」。

 

10年代、ネットの商業性が強まるにつれユーザーの遵法意識が高まる=炎上の多発。「人々がどんどん倫理観をなくしていきつつも、なぜか規範意識だけは高まるという、謎の現象が起きている」「もうインターネットは「いろんな意見がある人がつながるメディア」ではなくなっている。これを使って動員し、多様な考え方を排除していこう、PV数を稼ぐとそれが力になる、という時代なんですよね」「そしてPV数を稼ぐためならコンテンツは嘘でもなんでもいい、という逆転現象が起きたりしてる」「広告モデルを背景にしたPV至上主義がネットの価値観をすべて決定するようになっていることがまずいですよね。それが極端なポピュリズムや炎上などの無意味な動員を煽っていくんだけど」。

 

本書の刊行は2017年。本書中で提出される「ネットは広告モデルからいかに脱却するか」の問題に関しては2023年の現在でもまったく進展がないどころかむしろ増悪しているとすら思える。ビジネス誘導アカウント、ステマサイト増え過ぎ。PVが収入に直結するから注目されるためなら炎上も辞さない。ネット黎明期の「フリー」という言葉は「無料」と「自由」のダブルミーニングで、本来は「貧富の差なく平等にみんなに分け与えられる」ものという対権力的な文脈で使用されたが、現実は「無料サービスは低レベルなユーザーを引き寄せる」だけだった。スマホの普及により誰もが簡単に全世界への発信者となったことで軽い気持ちで投稿した悪戯がバッシングの対象になる(そして日本のメディアは強い組織には媚びへつらい、後ろ盾のない弱い個人を徹底的に叩きたがる)。ネットに人が増えたことそれ自体は喜ばしい。だが人が増えれば金儲けに利用できると考える人が出てくるのは必然で、それに倣う人が続発するのもまた必然なのだ。コンテンツに個性もエンタメ性も要らない、PV数が稼げれば(儲かるから)いい、そんなんが今以上に増殖したら──AIが今以上に身近になったらさらに加速するのだろうか──マジでグッバイインターネットするしかなくなりそう。

 

…と、ここまで散々ネットが昔よりつまらなくなったと述べてきたけれども、それはマス層の流入やビジネス化だけでなく、俺自身の変化も多分に影響していると思う。昔はある動画に感動すればそれを何度もリピート視聴したものだが今はそういうことはほぼない。何かを見て心が動かされるような体験はネットだけでなく旅行でも食事でも映画でも読書でも音楽でも減りつつある。知っているものの方が知らないものより楽しい。何をするのも億劫で、酒飲みながら自分が撮った過去の写真フォルダ見てあれこれ回想しているのがいちばん楽で楽しい。昨夜は12年前に死んだ飼い犬の動画を見て懐かしんだ。これが老化なのだろう。

 

文句言いながら居続ける人間が周囲から煙たがられるのは理解している。しょうもない繰言ばかりの鬱陶しい老人になる前に自らインターネットから立ち去ろう。ネットがなくても俺にはたくさんの本がある。目の前にあるiMacで音楽も映画も視聴できる。ネットを手放しても俺には「文化」がある。それを独り楽しめばいい。

 

 

*1:当ブログの「買ってよかったもの」エントリにステマはありません!

*2:「ググれ」はもはや死語だろう

*3:そのせいで転売が増えたのでプラマイ0か?

*4:「ひらたく言えば、個人の自由が何よりも大事で、国家の役割は最小限でいい、いっそ国家はなくてもいい、くらいに考えている自由至上主義リバタリアニズム)のこと。アナーキー個人主義、そしてコンピュータ・テクノロジーと自由市場への信頼をもとにした、アメリカ西海岸発祥のユートピア思想のようなものです」