『現代思想2023年10月号 特集スピリチュアリティの現在』を読んだ

 

 

今年は例年になくよく雑誌を読んでいる。この『現代思想』も、『本の雑誌』『スペクテイター』『SFマガジン』『ユリイカ』『週刊ダイヤモンド』も全部今年初めて買った。もう何十年も雑誌を読む習慣がなかった。買うようになった理由は、雑誌の方が書籍より即時性があるぶん今を考えるのに有用と思えたのと、これまで暇潰しに時間を費やしてきたネットがつまらなくなってプロの書くものの方が面白くてためになるように思えたから。たぶん来年以降もこのムーブは続きそうな気がする。

 

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現代思想』は『ユリイカ』と同じ青土社の雑誌。『ユリイカ』は掲載された論考の大半が学術的でハイブロウだったが『現代思想』も同じ感じ。なので無理せず、関心あるもの、読めるものだけ読んだ。

 

前のエントリで(あくまで俺の偏見としてだが)巷に流布する自己啓発ムーブメントは自己責任社会を背景にしており、スピリチュアリティをも方法論として包含している、というようなことを述べた。

俺は特定の宗教を信じていない。

スピリチュアリティの実践もしていない。

が話のテーマとしてスピリチュアリティには関心がある。理由はスピリチュアリティ自己啓発に繋がっているから。その自己啓発は自己責任社会と繋がっている。そしてこの自己責任という概念は氷河期世代(俺は1977年生まれ)の人間を社会が(というと大袈裟か。政府が、か)切り捨てる際の名目だったように記憶している。上の記事で言及している『闇の自己啓発』は、一般的な自己啓発を「人を社会に都合のよい「人形」に変えていくプロセス」と批判している。一理ある。さらにいえば困難に対して自己啓発で(いわば小手先に)対処することは、場合によっては社会を変えるチャンスの放棄にもなりかねない。そして実際、世の中はバブル崩壊以降いい方に変わらなかった。

自己責任─自己啓発スピリチュアリティのラインは氷河期世代としての来し方を理解するために避けられないように思う。

 

『原理運動の研究』『週刊ダイヤモンド 巨大宗教「連鎖没落」』を読んだ - 生存記録

氷河期世代としての来し方」はあまり関係ないし大仰すぎる、と冷静になった今は思う。ただ現代の一側面としてあるよ、というほどのものだろう。

 

島薗進スピリチュアリティの未来に向けて」がスピリチュアリティの興隆から現代におけるブームの見取り図が得られるとても有用な論考だったので以下にまとめる。

 

・教祖・宗派の教えにのっとり既存の枠組みに従う宗教に代わって自己変容を追求するスピリチュアリティの興隆は米国では一九七〇年頃から、日本ではおよそ一〇年後に注目されるようになった。

・日本の場合、一九七〇年代の後半に「精神世界の本」という言葉が登場した時期が新しいスピリチュアリティの興隆の一つの起点であり、この種のブックフェアを最初にしかけたのが東京新宿の紀伊国屋書店だった。

・八〇年代は気功が急速に発展し、ユング心理学の人気が高まり、科学とスピリチュアリティが支え合う「ニューサイエンス」の隆盛期でもあった。

自己啓発セミナーは臨床心理学と関わりが深い。一九九〇年前後、河合隼雄が大いに人気を集め、スピリチュアルな側面が色濃いユング心理学への関心が高まった。

・新しいスピリチュアリティの興隆はアジアの宗教文化への関心の高まりとも軌を一にしている。ビートルズのメンバーの中にはインドのグルの瞑想に共鳴した者も複数いる*1

・同時期、日本文化論が盛んだったが、そこでは「森の文化」やアニミズムシャーマニズムが人気を集めた。キリスト教や仏教やイスラームのような都市文明と結びついた伝統宗教が広まる以前の宗教性が日本には保持されており、縄文文化を受けついた古神道、あるいは沖縄やアイヌの文化こそ日本の宗教の古層をなしていると論じられた。

・二〇一〇年代には「無宗教型スピリチュアル層」(SBNR)という言葉が広まった。「自分はスピリチュアルではあるが宗教的ではない」(spiritual but not religious)という自己認識をもつ人を指す。人々がそのなかで宗教性を経験するシステムとしての宗教に対して、個々人がそれぞれに宗教性、あるいは宗教に通じるような何かを経験する方法としてのスピリチュアリティに関心が移ってきている。

・その特徴は前向きさ。自分がよりよき状態に変わっていくことを目指す自己変容のスピリチュアリティ。その良い例が「ポジティブ心理学」である。

・既存の集団的な宗教に対する違和感、距離感が強まったこと。科学や合理主義ではカバーすることのできない領域が明らかになりつつあること。それらを背景に「宗教でも科学でもない」スピリチュアリティが新たな知として期待されるようになった。

 

 

社会の個人化がスピリチュアリティの隆盛に一役買っているのは間違いない。既存の宗教団体は信者個人だけでなく家族や子孫も信者になって世代を超えた信仰を求める。しかし個人的な文化であるスピリチュアリティには継承すべき信仰はない。感覚的な文化でもある。だから教義を学ばなくてもいい。「瞑想やヨガをつまみ食い」し、「旅行のついでにパワースポット巡り」をする、そんな軽いノリで実践できる。

 そして、旅行のついでにパワースポットも巡る。あくまで「ついで」である。無数のパワースポット・リストを博捜し、古文書を読み解き、もっとも霊験あらたかなパワースポットに百度参りする人はいない。そうした高関与な参拝者にとって、そこはパワースポットではなく、唯一無二の聖地や霊場である。一方、パワースポット巡りをする人々にとっては、湧き水の写真を撮ったり、ご神木に手かざししたりすることにどのような意味や効果があり、自分がいったい何のパワーをどこから受け取っているかはそれほど問題ではない。旅先で何となくよい気分になれれば、それで十分なのである。

(略)

まずは今日一日、自分が心地よく過ごすことが大切なのだ。精神世界よりもさらに低関与になることで、スピリチュアル文化は日常に溶け込んできたのである。

 

岡本亮輔「考えるな、感じろ」 

 

現代がスピリチュアリティの時代だと言えるのは、どこの本屋へ行っても必ずと言っていいほど占いや運勢を扱う本のコーナーがあることから明らかだろう。実際驚く。モールに入っている、本屋なのに本より文具や雑貨に力を入れているようなチェーン書店でさえ(だからこそ?)しょうもないビジネス本、マネー本、タレント本などと並んでスピ系本のコーナーは必ずある。そんなもんよりちくま(学芸)文庫、河出文庫平凡社ライブラリー置こうぜ…と思うのだが、それらを読む人より上記の本を読む人の方が世間では圧倒的多数なのだ。

 

初期のオウム真理教がヨガ団体だったのは知られている。人生の意味を真剣に求めて入会してくる若者たちが多かったという。80年代に起きた「自分探し」ブームの影響もあっただろう。「自由な生き方」みたいな謳い文句でフリーターを肯定的に捉えていた時代だった(俺は1977年生まれなので当事者ではない)。バブル期は公務員を低賃金でダサい職業と見做していたのに、バブルが崩壊すると叩く対象、憧れの職業へと一変したのは奇異だった。バブル崩壊山一証券の破綻、その頃新卒で就職することになった自分たちが最初の氷河期世代だった。俺もまあまあ就職・就労に苦労した。45歳の今も独身・実家暮らしなのは俺の不甲斐なさもあるだろうが社会の影響も多少はある…はず。バブル崩壊で世の中に放り出され、派遣法改正、リーマンショック東日本大震災とまあ色々あった。その間政治は助けてくれなかった。助けるどころか切り捨てた。紆余曲折を経て(引きこもりも無職での一人暮らしも経験した)10年前、大企業に拾われた。俺のスペックが高いから採用されたのだ…と言いたいところだが、悲しいかな、実際は運でしかない。スペック関係ない。周囲の同級生を見ると、自分の家族を持って家を建てたのもいれば、今も実家暮らしで非正規雇用を続けているのもいる。そして彼らの人生に必ずしも学歴は、ましてや「努力」は、ほとんど影響していない…ように俺には見える。人生のすべて、とまでは言わないにせよ、大部分が運に左右された結果としか見えない。そんなの氷河期世代に限った話じゃねえだろ、と指摘されればそのとおりである。ただ、それがこの世代はとくに顕著に思える。前例がなかったぶん、無防備だったからかな。

 

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俺はスピも宗教もカルトも好まない。常識はあるつもりだが信心はない。特定の宗教に帰依もしていない。我が家は神道なので坊さんとの接点もない人生だった。子供の頃から、芸能人やスポーツ選手に憧れを抱くこともなかった*2。キラキラして見える人間にも必ずどろどろした裏の顔があってそれを知れば嫌いになるに決まっている…と理解できるほどには冷めた子供だった。だからジャニーズや坂道などのアイドルにハマる人の気持ちがぜんぜん理解できないし、ハマれてすげえ…という感嘆の念がある。

 

なんでこんなことを言うのかというと、本誌の石井ゆかり「上昇と下降、今を生きるための神殿」に自分が常々思っていることがそのものズバリ書いてあって、それに触発されたからだ。本誌屈指の論考で、これが読めただけでも買った意味があった。

 私が避けているのはおそらく「スピ」ではなく、上昇と下降のシステムなのである。

 善く生きれば幸福になれる。あるルールやしきたりを守ることによって、現世や来世でご利益がある。上昇できる。感謝が足りず、悪を行えば、下降して、不幸になる。

 こうした、善悪と幸不幸の取引、上昇と下降の条件付け的な世界観に、私は距離を置きたかった。

 なぜなら、自分のまわりの狭い世界の中で、幾人かの人の生き死にを見てきた。友達、家族、親族、知人が生きて、死んだ。色々な生き方と死に方があった。だれにも幸運と不運があり、喜びと悲しみがあった。(略)善いこともしたし、悪いこともした。それらに因果関係があるとは、どうしても思えなかった。(略)彼らの不幸は、絶望は、悲しみは、彼らの悪事の結果などでは、断じてなかった。善い人が善く生きていても、悲しみはあるし、絶望もある。

 

 私は日々生きていて、目の前のことをなんとかしようとしている。ニュースを見ては理不尽に憤り、ケガや病気をして痛みにうめき、〆切や雨漏りに悩み、できれば善い人でありたいと願い、でもなかなかままならず、過去の傲慢を後悔し、今の自分の弱さを嘆き、人に盛大に迷惑をかけながら、もがきまわっている。もがき、泣き叫び、人生はそういうものだよと言って、同じ時代に生まれた者同士、背中をなであって生きて死ぬだけでは、足りないのだろうか。

 多分、人間はそれでは、足りないのである。

 

いつも思っている。

願いは叶わないし、気持ちは通じないし、出会った人とは別れるか疎遠になるし、恋は必ず終わるし、欲しいものは手に入らないし、一所懸命頑張っても報われないし、何より人は必ず死ぬ。そして死ねば無になる。それが人生において変更不可能な初期設定だ。それが当たり前なのだ。そうといってそれが何かを願い行動するのを拒否する理由にはなり得ないし、だからこそ気持ちが通じたり、努力が報われることは僥倖であり、奇跡であり、尊いのだ。俺がポジティブなスピリチュアルや心理学を好きになれない理由がここにある。前向きにしていれば──努力すれば──善をなせば──報われる? 幸福になれる? とんでもない嘘だ。見返りを求めるからこそ叶わなくて病む。自分で自分の首を絞めている。願いは叶わないし、気持ちは通じないし、出会った人とは別れるか疎遠になるし、恋は必ず終わるし、欲しいものは手に入らないし、一所懸命頑張っても報われないし、何より人は必ず死ぬ。そして死ねば無になる。それを受け入れ肝に銘じた上で、にも関わらず、社会生活を円滑に行うための方便として、日々機嫌よく、人には親切に、努力を惜しまず、善行は必ず報われる「かのように」ふるまって生きていこうぜ。…というのが今の俺の生きる上でのスタンス。

 

 

 

*1:アメリカの「形而上学」とは今も昔も基本的に白人中産階級のものであり、アジア人はその担い手ではなく、むしろニューエイジ的な眼差しによって消費される側にいる」──柳澤田実「感情が「現実」を作る時代」

*2:俺が若い頃は女性芸能人は宮沢りえ観月ありさ牧瀬里穂の3人が人気だったように記憶している