東日本大震災から10年目の日に

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上の写真は2011年1月14日に撮影した、東京スカイツリーの建設現場である。浅草にある藤本虎へヘアブラシを買いに行ったついでに寄った時のもの。別の写真では、同行者に撮影してもらった自分が当該店の紙袋をぶら下げている。このときの同行者とはもう十年の付き合いになる。十年。遠い過去のような、ついこの間のような、不思議な感覚。自分の人生の4分の1にあたる時間である。

 

2011年3月11日金曜日。自分はシフト勤務の休日だった。地震が起きたときは車を運転していた。歯医者へ行く途中だった。大きな道から脇へ折れたとき、違和感を覚えた。地震だとはわからなかったが、ハンドルがとられたような記憶がある。異常を感じて停車すると、立ち並ぶ住宅や店舗から何人かが出てきた。電柱が揺れているのを見て地震だとわかった。こんなに大きな揺れは初めてだった。そこからすぐの歯医者に到着して中へ入ると、待合のテレビで緊急ニュースが流れていた。自分が治療してもらっているときに大きい余震が来て、それでも先生が治療を続けようとするので、「ちょっとやめましょう」と止めて中断してもらった。他のスタッフはこちらを置いて医院の外へ避難していた。治療後、しばらく待合に留まってスタッフの方と一緒にテレビを見ていた。お台場の映像が流れていた。それとも千葉のコンビナートだったか?  ガラケーからメールを送ろうとしたが回線混雑で送れなかった。が、Twitterはすんなり繋がった。スマホ普及前でTwitterは今ほど利用者はいなかったからだと思われる。

 

その日は車検が終わった車を引き取りに行く日だった(ということは代車に乗って歯医者へ行ったのか? 忘れた)。歯医者からは少し距離があったマツダへ向かった…のだと思う。行きのことは覚えていない。ラジオもつけていたと思うのだが…。引き取りの際、マツダのスタッフから、どこだかの踏切が上がらなくて大渋滞になっているという話を聞いた。もう夜になっていて、帰りの橋の上が渋滞でなかなか進まない中、上記スカイツリー建設現場に同行した女の人から無事を告げるメールが来た。当時住んでいたアパートに帰宅して、それからどうしたのだったか。東北の被害の状況とか帰宅困難者のニュースとかを見たのだろうか。テレビを点けっぱなしにして、当時使っていたacerのラップトップで2chの関連スレッドを見ていたような気もする。この日は余震が怖くてテレビを点けたまま眠った。翌日の土曜日も休みだったか、出勤したのだったか。当時のシフトは木金休みと金土休みの時期があってどちらだったか。たしか出勤したような気がする。職場に被害はなかった。

 

埼玉県民である自分は直接的な被災をすることなく、東北地方に親戚がいるわけでもなく、被害はなかった。だが、この震災は自分にとって大きな意味を持った。日を追うにつれ地震津波による被害の実情が明らかになっていくのをテレビで目にし、何度も繰り返される津波の映像を見ながら——燃え盛る津波が家々を飲み込んでいく映像は言葉を失うほど恐ろしかったが、恐ろしいから見たくないのに、映像が流れると見入ってしまうのだった——次第に気が滅入っていった。そして原発事故。テレビやケータイから流れる緊急地震速報の不快な通知音、計画停電により消えた信号、給油のために夜明け前からスタンドに並ぶ車の列、それによる渋滞、ACしかCMが流れないテレビ。非日常、その非日常と、自分が震災以前と同じように仕事をして、家に帰り、飯を食って、眠って、起きたらまた仕事に行って——という日常のアンバランスに、おそらくは震災以前から、月平均80時間の残業で疲弊していた自分の精神は吹っ切れてしまった。いつ何が起きるかわからない世の中なのに、なぜ劣悪な職場(仕事のノルマはきつく、人間関係は悪く、給料は安い)で我慢しなくてはならないのか、そう思い、会社へ行くのが日増しに辛くなった。エア被災と当時揶揄されていたような記憶があるが、まさに自分がそれだった。被災された方たちとは比較にならないほど恵まれていながら、何もかもが嫌になり、貯金なんて50万くらいしかなかったのに発作的に退職届を提出し、震災から3ヶ月後の6月に退職した。その会社には3年程度しか勤めなかった。リーマンショックの余波と震災による不況でその後全然仕事が見つからず苦労したこと、そのせいでかなり情緒不安定になったことは今となっては思い返したくもない黒歴史である。すべて自業自得なのだが。2011年12月にやっと見つかった次の就職先も3ヶ月で辞めて、結局2012年11月まで約1年無職だった。その間50社くらいには履歴書を送ったと思うが、面接に進めたのはそのうちの1割くらい、受かったのは契約社員としての採用とかそんなのばかりで正社員での採用などとてもおぼつかない惨状だった。その間のニート時代、何をしていたかもいずれ備忘録として書くかもしれない。といっても何もしていないので書くことはあまりない。2011年の夏に母親が脳梗塞になったのは、家族にとっては大きな事件だった。2012年11月、今の会社に運よく入社でき、なんだかんだで辞めずに続き、今年で9年目になる。なんとかやっていけているのはありがたいが、今は偶然うまくいっているだけだと思っている。

 

今でもときどき自問する。震災がなかったら自分は今もあのブラックな会社に勤めていたのだろうかと。365日24時間稼働のため三交代制の、そして交代制なのにノルマがキツすぎるから皆が残業するのが常態化している、それはもうひでえ職場だった。人の出入りも激しかった。書けないような人間模様もあった。そういうのに心底うんざりしていたから、震災がなかったとしても遅かれ早かれ退職していただろうが、震災はそれを実行するきっかけになった、と今では思う。あの災害によって、一度きりの、何が起きるかわからない人生というものの恐ろしさを強く意識させられた。とまあそんなご立派なことを言っているが、退職後の無職期間、何か有意義なことをしたかと問われれば、何ひとつしていない。当時すでに持っていた『失われた時を求めて』を読むことすらしていない。やっぱり当時はメンタルが参っていたのだろう。少なくとも通常の精神状態ではなかった。ハロワへ失業保険の申請に行った以外は、タバコを吸って(とっくに禁煙した)、ネットをして、生活費の足しにマケプレで不要品を販売する、それだけしかしなかった。今振り返ると、貯えもないのに退職なんて無謀だったと呆れるが、よくやったと褒めてやりたい気持ちもある。その後、時間はかかったが、人生が少しは好転したから結果的には正しい選択をしたことになる。すぐ近くに実家があったから最悪甘えればいいと計算していた節もある。そしてそのまま今日まで居続けている。