映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版』感想

 

途中からネタバレあり。 

3月12日金曜日。有給をとって朝一8:30の4DXにて鑑賞。エヴァをアトラクション的に体感したかったわけではなく、むしろ初見4DXだと体感の方に気を取られて内容についていくのが疎かになるかもと思ったのにあえて選択したのには理由がある。通常シアターに比べて収容人数が少ないこと。前後の座席の感覚が空いていて後ろから蹴られる心配がないこと。揺れるので飲食する人が少ないこと。鑑賞料金は割増になるが、ユナイテッド・シネマは金曜日サービスデーなのでよしとする。平日朝一の回に来るのは熱心なファンだろうからマナーはいいと思うが、横でポップコーン咀嚼音聞かされたり、後ろから蹴られるのは避けたかったので。自分は他人の挙動が気になるケチな人間です。

 

普段はメガネ着用だが、マスクで曇ると思ったのでコンタクトにした。特別な日だし、身なりはちゃんとしておこうと、髭を剃り、コロナ禍以来初めてかもしれない久しぶりにワックスで髪を整え、CK1を付けて、ジャケットを羽織って映画館へ向かった。

 

映画の感想の前に、自分とエヴァについて少しだけ書いておく。リアルタイム世代だが自分はリアルタイムでは見ていない。テレビ放映当時か終了後だったか、高校の友達か同級生かがタイトルを口にしているのは聞いたことがあったが興味なかった。アスカ・ラングレーというヒロインの名前が、昔父親が乗っていた車と同じだったので記憶に残った。その後しばらく経ってからテレビ版のVHSをレンタル屋で借りた。なぜ見ようと思ったのかはもはや覚えていない。4巻くらい借りたところで飽きて見るのを止めてしまった。使徒と呼ばれる敵が出てきて、なんだかんだあって撃退する。そのパターンが単調に感じられた。全話を視聴し、劇場版の「終劇」を見届けたのはもう何年か経ってからだった。見終わったのにわからないことだらけだった。専門用語もさることながら、テレビ版の「おめでとう」と旧劇の「気持ち悪い」が全然意味がわからなかった。当時の自分は、あれが、現実に戻れ、というメッセージだと理解すらできなかったのだ。その頃はWindows Meの頃だったか(違うかもしれない)、疑問点をネットで検索して個人HPとかで読んでみたがわかるようでわからなかった。結局自分事ではなかったのだ。旧劇で描かれた夥しい死の描写がもっとも強く印象に残った。

 

…というように自分は熱心なエヴァンゲリオンのファンではない。呪縛されているものではない。でも新劇場版は『序』から『Q』まで劇場に足を運んだ。もしかしたら『破』でようやくエヴァンゲリオンを面白いと感じ、好きになったかもしれない。ユーモアありアクションあり、エピソード中もっとも盛り上がるゼルエル戦はテレビ版以上に熱い展開で、2号機の裏コードなんてサービスもあり、楽しく鑑賞した。確か劇場で三回は見た。同じ映画を複数回見たのは、『破』が初めてだったかもしれない。その後東日本大震災があり、自分は会社を辞め、一年近く無職期間を過ごしたのち現在の会社に就職した。『Q』はちょうど再就職してすぐの公開だった。公開日が土曜日で、初日に行った。多くの人がそうだったように、見て戸惑い、暗い展開と暗い色調に気が滅入った。内容が意味不明で、アクションシーンはつまらなく、あんだけ待たせてこれかよ、そしてまた勿体ぶった意味ありげな用語の多用と投げっぱなしの展開かよ、と落胆した。一部の、これでこそエヴァだ、みたいな声には、これがエヴァならやっぱ自分はついていけねーわ、と思った。それでももう二回劇場で見た。三回見て、やっぱつまんねーわ、と結論した。完結編を待つ間にBSプレミアムでテレビ版と劇場版二篇が放映されたので録画して、もう一度最初から最後まで見て、挫折せず最後まで見られるくらいには面白いし、映像的にかっこいい作品だとは思うけれど、呪縛されるほどにははまれない、というのがエヴァに対しての自分の評価だった。

 

自分にとっては、「あの」エヴァが遂に終わる、ということより『Q』の時は入社したばかりだった会社に今も在籍し続けて、こうしてその続編を見に行ける境遇にいる、ということへの感慨の方が強かった。9年も同じ会社にいる、というのは人生で初めての経験である。その労いとしての鑑賞、そんな気持ちゆえの当日朝の高揚だった。もちろん作品自体も、『Q』からどうやって終わらせるのかを楽しみにしていたから、公開日の月曜からずっと映画に関する一切の情報を見ないよう気を付けて、何の知識もないまっさらな状態で当日に臨んだ。アマプラで冒頭の12分が期間限定公開されていることも知らなかった。知っていたらそれくらいは見て行っただろう。

 

で、話を戻す。開館間もない映画館のロビーに入ると、客は50人くらいいた。発券機に15人くらいの列、カウンターに30人くらい、コンセに5人くらい。『Q』公開時のようなお祭り感はなかったのは、平日なのと、コロナウイルスによる緊急事態宣言中であるためだろう。『Q』の公開初日はスタッフがコスプレしていた。もぎりに並ぶと、自分の前の待ちきれない客が、前の客がまだ検温・チケット確認をしているのに、ディスタンスの足型表示を無視してすぐ真後ろに並んでいた。落ち着け。気持ちはわかるがルールは守ろう。シアターに入れば、別の待ちきれない客が手すりと手すりの狭い隙間をショートカットして自席へ向かおうとした。落ち着け。映画は逃げやしない。自分の横には誰も来ず、安堵。中央ブロックの最前列中央を予約していたのでどのくらい席が埋まっていたかはよくわからないが、たぶん客の入りは半分くらいだった。

 

以下、ネタバレあり。

見終わって感じたのは、まずは無事『エヴァンゲリオン』という巨大な作品が完結したこと、それを見届けられたことの嬉しさだった。改めて、新劇場版が「リビルド」であることを意識させる映画だった。『Q』にはなかったユーモアが随所に見られ、庵野監督の余裕が感じられた。饒舌に意図や内心を説明・吐露する人物たちを見ていて、ああ本当に終わるんだな、と思った。自分は序盤の農村シーンが最も見ていて楽しかった。消息不明だった同級生たちの登場は嬉しかった。彼らは立派に大人になり、親になり、共同体の中で居場所を見つけている。なのにシンジは14歳のまま、カヲルの喪失や自分の無力を嘆き、拗ねている。でも旧劇の「もっと優しくしてよ」という他責は、「なんでみんなこんなに優しいんだよ」という自責に変化していた。泣きながらレーションを食うシーンに、TVドラマ『カルテット』の、「泣きながらご飯を食べたことがある人は、生きていけます」というセリフを想起した。黒波はぽか波のような可愛いキャラになり、それゆえ彼女の喪失は悲痛だったけれども、それを乗り越え、自ら志願して戦いに赴くシンジからはメンタルの成長が感じられた。ミサトさんの、「行きなさいシンジくん」→「あなたはもう何もしないで」も動機が説明された。最後に髪型を戻したのはサービスだろう。終盤の、マイナス宇宙(精神世界?)のあたりからは展開が難しくて、楽屋裏のバトルとか、綾波の巨顔とか、失笑してしまったシーン以外はもはや忘れている。セルバンテスは、自作『ドン・キホーテ』が人気を博して贋作が作られるのに嫌気が差し、続編が作られないよう主人公を死なせて終わりにしたが、本作も同じように、もはや続編はないことを示すように全てのエヴァが廃棄される。全てのエヴァといっても、その七割くらいがポッと出の知らない機体なので感動はなかったが。旧劇をポジティブなトーンでなぞっている印象。「あの頃はあんたのことが好きだったんだと思う」というアスカの台詞は、時の経過を感じさせた。我々だって、かつて恋愛感情を抱いた人にいつまでも焦がれているわけじゃない、時間が経つうちに、気持ちは褪せ、別の人を好きになっていく。それが自然の道理だ。このあたりの機微は、新海誠監督の『秒速五センチメートル』と比較すると、ちょっと面白い。

 

結局、現実に帰れ、あるいは現実を生きろ、そういう話だったのだろうか。ラストには驚いた。スーツにネクタイ姿のシンジがマリと一緒に駆け出して終わり。そんなことを鑑賞前の自分に言っても絶対信じなかっただろうに、見てしまうと、まあそれはそれでありかな、という気がしてくるのが、現実の強さ、凄さだろうか。しかし…なんでマリなのかな。新しい世界への出発を象徴するのに、新劇場版から加わった新しいキャラがふさわしいと判断したのか、それとも他の理由があるのか。二人が親しくなっていく過程の描写なんてなかったので唐突すぎて違和感がすごい。これはドラクエ5で、公式が、ビアンカでもフローラでもなくデボラを選んだようなものだろう。いっそ最後に手を差し伸べるのはカヲルでよかったのでは、と思えてくる。シンジが心の中のカヲルと会話するシーン、自閉的かもしれないが、自分はいいと思った。 

 

全編を通じて説明過多なのは、わかりやすかったので好印象。でも、アクションシーンがことごとく何をやっているのか見づらいのはマイナス印象。これは自分が前に座り過ぎたせいかもしれないが。左右の端に人が映る構図が何度かあったが見づらかったので、もう少し後ろの席にすればよかった。もう一度、今度はIMAXで見ようとは思っているが…。エヴァの機体も敵も、みなデザインがイマイチだった。アスカの邪眼解放コード999は霊体化して大暴れするのかと一瞬ワクワクしたが全然そんなことはなくがっかり。ただの噛ませじゃないか。最後にかっこよく立ち回る初号機が見られなかったのも残念。シンクロ率無限大という熱血設定があったのだからゼルエル戦以上の男の戦いが見たかった。ラスボスたるゲンドウには、しょーもねえなあ、という感想しかない。アスカやシンジが自分の過去の恋愛感情にきっちりケリをつけたのに対して、いつまでも死んだ妻に執着し続けているのは対照的で、しかもそれが28歳の息子がいるほどのいい歳のおっさんだというのは滑稽。「大人になれ、シンジ」とか言っていたゲンドウが、実は一番ガキだったのではないか。「大人になったな、シンジ」じゃねーだろ。お前こそ大人になれや。過去を振り返らず前を見てしっかり生きろや。本作を見て、ゲンドウは自分の中でこれまで以上にしょーもないダメ男キャラとして更新された。アディショナル・インパクトとか、連発されるそういうエヴァ用語も、途中から厨二的な恥ずかしさなしには聞いていられなかった。一方で、リツコさんは印象がいい方に一変した。問答無用でゲンドウに発砲したの最高。旧劇ではダメな男に引っかかってヒステリー起こしているみたいなキャラだったからあまりよく思っていなかったが、本作ではメンタルが強く、最初から最後まで頼もしかった。冒頭のパリ攻防戦、陽電子砲の直撃を恐れない仁王立ちの貫禄。冬月もよかった。チートキャラ。

 

『スカイウォーカーの夜明け』を見たとき、監督はとにかくシリーズを終わらせることだけを考えて作っているように見受けられ、大変そう、と思ったものだが、本作でも似たような印象を受けた。しかし、とにかく、終わったのだ。あのエヴァンゲリオンが、とうとう。それはやはりめでたいことだし、監督はじめスタッフの方々には感謝と労いの気持ちしかない。本当にお疲れ様でした。本当にありがとうございました。エヴァンゲリオンは完結したけれど、自分の人生はこれからも続く。『Q』から『シン』までの9年間が続いてきたように、『シン』の後もまだ。

 

 

 

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