『原理運動の研究』『週刊ダイヤモンド 巨大宗教「連鎖没落」』を読んだ

 

統一教会研究の古典であるという。品切れだったがちくま文庫で復刊。刊行が1977年なので情報としてはかなり古い。が、1980年代から90年代にかけての新興宗教全盛時代へ向かって右肩上がりに勢力を伸ばしていく当該団体の状況報告は当時の生々しさを伝えてくれる。

 

原理運動の問題が表面化するのは1967年。学業を家出同然に放棄して「理想社会を作るため」の活動に身を投じる学生が急増する。運動の内実は強引な勧誘と教団への献金のための経済活動(モグリの募金、花売り、人参茶販売、廃品回収など)。本人たちは理想に燃えて活動しているがただ教団上層部に搾取されているだけ。親たちが被害者父母の会を結成したことで社会問題化する。

 

彼らが信奉する統一原理とはいかなるものか(著者は教会を協会と表記している)。

 統一協会のパンフレットによると「統一原理とは文鮮明先生が二十年間苦難と闘って、ついに聖書の真理とキリスト教の背後に流れる宇宙創造の根本原則を解明したもの」とある。

 教義は「創造」「堕落」「メシア再臨」「復活」「復帰」などがあって、(略)メシアの再臨である文鮮明氏が結婚の仲立ちをすることによって、この血の汚れが浄められるのだとされ、合同結婚式の論理も、つまるところそこから発しているといわれる。

 

 この教義はさらに発展して、統一教を信ずる者と信じない者を、神の圏とサタン圏に分ける。エバによる人類の原罪を浄められた者が彼らの神の圏、そうでない者をサタン圏とする。そこでは血肉の関係も”圏”によって分類され、政治的には共産圏がサタン圏となる。「勝共統一」をスローガンに、彼らの政治結社がその名も勝共連合として反共運動をおこなうのはこのためである。

絵に描いたような善悪二元論。教祖の祝福なしの結婚で生まれた子供は罪の子、祝福された結婚で生まれた子は神の子、この神の子を増やして世界平和を目指すのだったか。反共主義を宗教と絡めたのが斬新に見えるがこれは組織運営の必要から生まれた教義だった。

 

統一教が日本に最初に上陸したのは1958年。文鮮明の命を受けた宣教師が密入国し、立正佼成会会長秘書と接触して彼を入信させて日本統一教会会長として日本布教の足がかりにした。以後はこの会長を中心に、主として大学生を対象にした原理活動を基軸にして伸びていく。しかし学生の親たちが被害者父母の会を結成したことにより原理運動が社会問題化してしまうと勢いが衰える。1972年、来日した文鮮明は、勝共運動をやれば教勢が伸びると会長に勧め右翼指導者たちとの会議が開かれた。旧統一教会による反共運動は行き詰まった原理運動の活路を開くための選択だった。原理運動の若者たちが街頭で「共産主義は間違っている」と叫び始めるのは1972年の文鮮明来日以後。反共組織であることが政府与党には都合よく、『週刊ダイヤモンド』で鈴木エイト氏は「旧統一教会を母体とする「国際勝共連合」の創設に岸元首相が深く関わった結果、自民党安倍派(清和政策研究会)を中心に多くの政治家たちを取り込むことに成功」したと述べている。東西冷戦の終結以後は「いかにして自分たちが政治家に必要とされるかを模索した結果、反共産主義からLGBTへの理解増進や男女共同参画夫婦別姓の推進は全て共産主義、教団の言う「文化共産主義」なのだとする主張を始め、冷戦後の保守派の政治家にうまく擦り寄るようになった」。本書の著者茶本氏は「反共であればなんでもいいという政府与党の態度は野合というよりは犯罪的である。私はそこに限りなく腐敗した自民党の病根を見る思いがする」とあとがきで述べている。

 

原理運動を行なっていた学生は「大善を生かすのに小善は殺してもかまわない」が運動の主義だったと語っている。70年安保前夜の1969年には殺傷能力のあるエアライフルを猟銃の名目で大量に輸入していたという。何の意図だったのか。この輸入に関わっていたのは旧統一教会の関連企業で、鈴木エイト氏は統一教会の実態について「政治団体、経済団体、関連企業の一大コングロマリット」と述べている。関連企業の側は統一教会との関係を否定しているようだが。

 

原理研の学生たちは修養所で一種の洗脳教育をされていた。状況の詳細は述べられていないけれどもヤマギシ会の洗脳教育と本質的には大差ないだろう。ろくに眠らせず、朦朧とした頭にひたすら教義を叩き込む。すると人は離人症の症状を呈するようになる。過負荷により脳がぶっ壊れただけだがそれを悟りと勘違いしてしまうことで悲劇が生じる。米本和広『洗脳の楽園』は洗脳体験のレポート。興味深い内容だがめちゃくちゃ怖い。

 

 

 昭和五〇年四月二七日、原理運動被害者父母の会は、はじめての全国大会を開いた。この大会で廃人化した子弟や自殺者の問題が討議され、父母たちは、社会問題としてこれを訴えた。五一年、日弁連人権擁護委がこれをとりあげて調査に着手、さらに五二年二月七日、衆議院予算委員会社会党石橋政嗣書記長が政府を追求、福田赳夫首相が「調査する」と回答、事態はようやく政治レベルにのぼった。

と『原理運動の研究』にある。この「調査」の結末はどうなったのだろう。教団はその後も存続して自民党議員を支援し続けた。自分が初めてこの教団の名を知ったのは1992年の合同結婚式(有名な芸能人が参加していて連日ワイドショーで報道された)によって。当時中学生だった。その後旧統一教会自民党の癒着についてマスコミが報道することは一切なかったように記憶している。2022年に安倍元首相が銃撃されるまでその病根の深さを自分も(たぶん世間の多くも)知らなかったのではないだろうか。被告が語る動機は衝撃的だった。億を超える献金、教会と政治家の癒着。旧統一教会を日本に引き入れた岸信介の孫が宗教二世に襲われるという運命の皮肉。事件当時のマスコミの消極的な報道姿勢(当該教団名をなかなか報道しなかった)は不気味なほど不自然で、その不自然さ(忖度としか思えなかった)が却って被告の供述が事実であるのを裏付けているようでもあった。本書の解説で有田芳生氏は、1992年の合同結婚式から安倍元首相が銃撃されるまでの期間を「空白の30年」と表現している*1

 

現在、文部科学省が旧統一教会への解散命令を東京地方裁判所に請求する最終調整に入り、その時期は10月中とみられている。『週刊ダイヤモンド』で窪田順生氏は「政府が解散命令を請求しても裁判所がそれを認めるまで数年はかかる」と述べ、その間に被害者救済にあてられるべき財産は韓国本部へ移動される可能性を指摘している。鈴木エイト氏は、銃撃事件後、旧統一教会信者の結束力は以前より強まっており、自主解散して「地下化」することで監視の目を逃れる可能性を指摘している*2

 

銃撃事件の被告の裁判は事件から1年以上経過した今もまだ開かれない。解散命令請求のタイミングと何か関係あるのだろうか。

 

 

週刊ダイヤモンド』の特集「巨大宗教「連鎖没落」」。山崎元さんがXで言及していたのに興味を惹かれ、Kindleでだけど週刊ダイヤモンドを初めて購入した。創価学会、旧統一教会神社本庁をはじめとする宗教団体を取り上げている。

 

現在、かつては巨大な勢力を誇った新興宗教団体のほぼすべてが少子化や情報化により信者数減少→活動の鈍化→集金力の低下という「負の連鎖」に陥っている。昔の家庭ならサラリーマンの夫は毎日残業、専業主婦の妻は孤独に子育て、寂しさを埋めたく、勧誘されて主婦の集まりに行ってみたら実態は宗教だった…みたいなモデルが有効だったと思われるが、現代は非婚、共働き、少子化、貧困化で成り立たないだろう。孤独を紛らしたければ宗教に頼らずともSNSが代わりを担ってくれる*3。宗教二世は悩みを一人で抱え込まずSNS等で同じ境遇の人と繋がれる。新興宗教の旧来のビジネルモデルはもはや有効性を失った。また1995年に起きた地下鉄サリン事件は日本人の宗教離れ、宗教嫌悪に大きな影響を与えただろう。

 

宗教が人類にとって都合がよかったのは大きな物語を共有することが共同体の結束を強める効果を持っていたから。しかし社会が情報化・個人化していく過程で大きな物語はその効力を失っていった。情報化が進むにつれ、われわれの社会は大勢で集まって一つの価値観を共有して「信仰」するのではなく、各人が好きなものを個人で「愛でる」「推す」社会に変わってきてはいないだろうか。…俺の妄想に過ぎないが。

 

あるいは現代は宗教よりスピリチュアリティの時代か。

大きな物語が信じられなくなりあらゆる価値観は高速で変化していく時代。人は寄るべなさに不安を覚える。困ったときに頼れるような人間関係は希薄で*4、問題が起きれば自分一人で対処しなくてはならない。社会が「自己責任化」してきているのもある。セルフヘルプの手段として注目されるのが自己啓発だ。自己啓発はマネー至上主義時代においてビジネスとも相性がいい。スピリチュアリティとも親和性がある。宗教のような集団での堅苦しい教義の学習も実践もなく、自分に都合よく、占い、ヨガ、ヒーリング、パワースポット巡りなどをつまみ食いできるインスタントで感覚的なスピリチュアリティは現代人のメンタリティに合っているように思われる。実際、新興宗教で唯一信者数を伸ばしている真如苑の信仰モデルはスピリチュアルな自己啓発と通じるものがあるという。

 

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俺は特定の宗教を信じていない。

スピリチュアリティの実践もしていない。

が話のテーマとしてスピリチュアリティには関心がある。理由はスピリチュアリティ自己啓発に繋がっているから。その自己啓発は自己責任社会と繋がっている。そしてこの自己責任という概念は氷河期世代(俺は1977年生まれ)の人間を社会が(というと大袈裟か。政府が、か)切り捨てる際の名目だったように記憶している。上の記事で言及している『闇の自己啓発』は、一般的な自己啓発を「人を社会に都合のよい「人形」に変えていくプロセス」と批判している。一理ある。さらにいえば困難に対して自己啓発で(いわば小手先に)対処することは、場合によっては社会を変えるチャンスの放棄にもなりかねない。そして実際、世の中はバブル崩壊以降いい方に変わらなかった。

自己責任─自己啓発スピリチュアリティのラインは氷河期世代としての来し方を理解するために避けられないように思う。

 

 

 

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*1:文鮮明の経歴や、彼と岸信介金丸信の関係が述べられているなどこの解説は短いながら読みごたえがある

*2:窪田順生氏によると「宗教法人でなくなるということは、都道県知事と文化庁から管理されなくなることを意味する。これまで義務付けられていた役員名簿や財産目録、収支計算書の提出も必要ないし、文化庁が調査権を行使することもない」「つまり解散命令により旧統一教会の活動は「ブラックボックス化」される」

*3:SNSSNSで依存症問題があるが

*4:他人を助けたくとも助ける余裕がないケースも多いだろう