江川紹子『「カルト」はすぐ隣に  オウムに引き寄せられた若者たち』を読んだ

 

カルトによるマインドコントロールについてオウム真理教を例に検証・分析する。1章では教祖麻原の生い立ちとオウム真理教の成り立ちを、2章ではオウム真理教が生まれた80年代末から90年代初頭にかけての日本社会の風潮を、3章では地下鉄サリン事件に関わった元信者の手記を、4章ではごく普通の若者がオウムに引き寄せられた複数のケースを、5章ではカルトから身を守る術を述べる。2章と3章が本書中の白眉と見る。

 

オウムが勢力を増していった時期はバブル期とシンクロする。経済的な豊かさを享受した人たちがこの世の春とばかりに躁的に騒げば騒ぐほど、反作用的に、物質的ではない真の豊かさや幸福を求めて精神世界に関心を持つ人の数も増えていった。バブル期はオカルトブームの時代でもあった。ノストラダムスの予言、スプーン曲げ、心霊写真、霊能力と霊能者、UFO、ネッシーや雪男といったUMAこっくりさん臨死体験…それらが当時娯楽の王様だったテレビで連日放映されていた時代。映画では『日本沈没』『ノストラダムスの大予言』が大ヒット。『大霊界』なんてのもあった。当時のオカルトブームはいわばバブルの陰画と言っていい。狂騒と終末感の併存。当時はオカルトが普通に受け入れられていた時代であり、ゆえにカルトは容易に信者を集めることができた。バブル景気とオカルトブーム、この時代背景なくしてオウム真理教は成立しえなかっただろう。

 

オウムに引き寄せられていった若者たちのメンタリティには共通点がある。豊かさや幸福を精神世界に希求する超越的な傾向。現実生活での不満をスピリチュアルなもので埋め合わせようとする傾向。そこにオウムはつけ込んだ。勧誘されて修行場へ行けば教祖は絶対と洗脳される。ドラッグによる偽の覚醒体験を本物の体験と思い込む。一般社会から隔離された空間で同質の人間と一緒に過ごすうちに自己の判断力が弱まり、次第に組織に絡め取られて組織の論理で動くロボットと化してしまう。本書中で複数の元信者が「自分の頭で考えることを放棄してしまっていた」と入信していた当時を振り返る。教えや指示に違和感を感じるときもあったのに、自分の感情に蓋をして目を瞑ってしまったこともあったと。自分たちが製造している物が銃だと薄々気づいていながら彼らは自分たちの作業を止めようとしなかった。そこには教祖や組織に異を唱えれば殺されるかもしれないからとの恐怖心もあっただろうが。一人ひとりが同じように思考を放棄し自分の感覚を殺した結果、地下鉄サリン事件をはじめとする多くの犯罪が行われ、多くの人が命を落とすことになった。

 

本書に登場する元信者たちはごく一般的な(むしろ家庭環境や境遇はどちらかと言えば恵まれている方かもしれない)人たちばかりで、彼らが自分だったとしてもおかしくなかった。カルトから身を守る術として著者は「自分の頭で考えること、疑問を持ち続けること」を挙げているが、一旦内部に取り込まれてしまえば思考しようが違和感を持とうが表明が死を招くかもしれないのは元信者たちの証言から明白なわけで、となるとそもそもカルトに近づかない、近づかせないというのが唯一の解となる。あとは取り返しがつかなくなる前に周囲の人に相談するとか。部外者へ口外するなと口止めするのはカルトの常套手段だが、彼らが正しい教えを説いているのなら秘密にせずどんどん公表して万人を救うのが正道なので、口止めされた時点で信じるに値しない。とにかく、近づかない。これがカルトから身を守る最大の手段である。

 

オウム事件以後世の中の新興宗教に対する見方は厳しくなった。法整備も進みカルト教団はやりづらくなっただろう。現在では宗教ではなくオンラインなんちゃらを名乗る新手のビジネスがカルト的手法を採っているように見えるときがある。カルトは形を変えながらいつの時代にもあり続ける。昨今、コロナ禍によって他人と触れ合う機会が減り、そのために孤独や不安を感じやすくなっている人は多いだろう。経済的な困窮に陥っている人も増えている。こういう時こそ心せねばならぬ。自分を強く保ってカルトがつけいる隙を絶対に作ってはならない。杉作J太郎はすでに11年前にこう述べている。

何かが大きく変わる時期にはインチキ臭い人が必ず現れて痛い目にあう人が出るんです。そういう目にあわないためにも、いくら回りが変わっても、自分自身の根本的なものの考え方、感じ方をしっかり持ってさえいれば迷うことはないです!

 

杉作J太郎が考えたこと』

 

 

名著である。

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U-NEXTで。とても面白かった。

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