SNSの問題点について──戸谷洋志『SNSの哲学 リアルとオンラインのあいだ』を読んだ

 

SNS(主にInstagramとX)から承認欲求、時間、炎上、アルゴリズム、連帯について考える。タイトルに哲学とあるようにこれらの問題を考えるのにヘーゲルハイデガーウィトゲンシュタインベルクソンアーレントが参照される。哲学的な観点からSNSについて考えるのがテーマでありSNS利用の是非を問う内容ではない。

 

承認欲求について。

これについてはもう散々語られているので今更…との感あり。SNSに必ずついて回る話題。人間が他者からの承認を求めるのは、他者に評価され、価値を認めてもらうことで集団内での地位を確保できる(=生存に有利になる)からだとされている*1。本能に近い欲求だろう。SNSにおける承認は「いいね!」の数や閲覧数などによって可視化されるのでわかりやすい。承認を求める人はだから「いいね!」が多く貰えそうな投稿を意識してするようになる。しかしそれが必ずしもうまくいくとは限らない。ごく少数のインフルエンサーを除けばバズるのは稀だ。頑張ったのに注目されないこともあれば何気なくつぶやいたことがバズることもあり、他者からの承認は予測もコントロールもできない。空振りすれば次こそはと考え、バズれば次もまたと期待する。バズるというアタリを引くために繰り返される投稿をスロットマシンにたとえたのはカル・ニューポート『デジタル・ミニマリスト』だった。

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自分では結果をコントロールできないから他者への依存が生じる。たまたまバズることができても一度の承認で満たされるわけではない。いや、ひとたび承認の甘い味を知ってしまえばさらにそれを求めてしまう。承認を求める心は不安定だ。承認を求めるあまりウケを狙ってキラキラした自分、他人から羨望されるような自分を無理してでも演じることもある。演じる自分と素の自分との乖離。「いいね!」を貰えたのは演じた自分であり本当の自分ではないのではないか、という疑念。この葛藤によって自分自身が何者であるかを見失う「疎外」が生じる。これら依存・不安・疎外が一体となったとき「SNS疲れ」と呼ばれる現象が発生する──と著者は述べる。

 

自分としては、そういう面もあるかもしれないがちょっと哲学的すぎるというか(そういう本だから当然なのだが)、実際の「SNS疲れ」はもっとどろどろした生臭いものと考えている。キラキラ眩しい(と見える)他人の姿に嫉妬し、絶えず劣等感を刺激され続けるせいではないかと。

 フェイスブックやインスタグラムといった現代のソーシャルメディアが絶大な人気と影響力を集めたことで、私たちの承認への依存はさらに深まった。自分の成功を他人の成功と比べる社会的比較を行うと、自己不全感が刺激されやすい。作家ゴア・ヴィダルの警句を引けば、「友人が成功するたびに私は少し死ぬ」のである。他人は自分よりうまくやり、自分よりずっと充実した人生を送っているように見え、私たちはそのことを絶えず思い知らされる。(略)偽預言者が信奉者を必要とするように、私たちも自尊心を正当化したいがために必死にフォロワーを増やそうとする。まるでミーアキャット人間だ。つねに辺りをキョロキョロ見回しているが、集団を守るために潜在的な脅威を見つけようとしているのではなく、認められようとする努力の一環として、社会的な見せびらかし行為を行なっているにすぎない。承認欲求を満たすために必死の行動である。だが社会的比較をし続ける快楽のランニングマシンは、止まることのない永久運動機関だ。いくらお世辞を聞いても心満たされることはない。

 

ブルース・フッド『人はなぜ物を欲しがるのか』

 

競争を好むようデザインされた人間は比較することを止められない。苦しくなるとわかっているのに自分より充実しているSNS上の他者を延々と見続けてしまうのは一種の精神的な自傷行為に思える。

 

…というと、そんなに苦しいなら(依存してしまうなら)SNSなんてやめればいいじゃん、と思ってしまいそうになるが、著者は、それは「現実の人間関係がSNSと接続していない人の考え」であると退ける。要するに年寄りの考えだと。デジタルネイティブ世代にとってはSNSなくして人間関係はありえない。この指摘は旧世代の人間として、そういうものか、との新鮮な学びがあった。

 

また、著者は承認欲求を悪いものと見ることに対して否定的で、人間は他者からの承認によって自律性を獲得していくと見ている。同意だ。若い頃に他者に褒められたり認められたりした分野をさらに伸ばしてやがてそれが自分の個性になる、ということは往々にしてある。承認欲求が集団内での生存を有利にするために必要であるのならそれを放棄することは──程度にもよるが──あえて自分を窮地に追い込むことにも繋がりかねない。その場(家や学校や職場)からの逃走手段が限定的な若いうちはとくに放棄すべきでない、と自分は思う。どうせ中年になれば自分にも他人にも世の中にも期待しなく(できなく)なって楽になれるんだから*2

 

時間について。

インターネット上には時間は流れていない。インターネットは疑似空間として語られがちだけれども(サイバースペースなど)実際には疑似的に時間を形成しているのが特徴である、とは先日読んだ『僕たちのインターネット史』の一節。

さやわか 前章でも少し触れましたが、ニコニコ動画はみんなが一緒になってコミュニケーションしながらコンテンツを消費しているようでいて、実際はバラバラの時間に書き込んだコメントを事後的に同時生成しているように見せているにすぎない。(略) 

 人々は同じものなんか見ていないわけで、同時に見ているというのも錯覚です。Twitterのタイムラインも自分で選択して生成しているものにすぎません。でも、なぜかみんな同じものをいままさに見ているんだという「気分」にさせてくれるのがインターネットの機能なんですよ。群衆がコンテンツを作り出すと言う話にもそういう錯覚が働いていて、ある種の「擬似同期」性を利用して、盛り上がっている感覚を生み出すものなんですよね。

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本書もインターネット上の時間の停滞について述べている。デジタル情報は過去のものであっても現在のものとして錯覚されがちである。それがキャンセルカルチャーや黒歴史として発掘され炎上の燃料とされるケースがある。

 このことから考えると、SNSの「タイムライン」と呼ばれているものが、実際には「タイム=時間」ではないことがわかります。なぜなら、SNSの世界はデジタル情報だけでできているからです。デジタル情報は物質ではないのだから、「タイム=時間」を持つことはできません。タイムラインを眺めているとき、私たちはまるでそこに時間が流れているかのように感じます。ですが、実はそれはまったくの虚構なのです。そこにあるのは投稿された順番にすぎないのです。

 そしてさらに、SNSのタイムラインはさまざまな意図によって操作されています。たとえば多くの人が閲覧しているコンテンツや、広告を伴うコンテンツは、タイムライン上で優先的に、最新のものであるかのように表示されます。しかしその投稿は、実際には、ずっと以前に投稿されたものかもしれないのです。

 そうだとすると、ここから驚きの事実が明らかになります。すなわち、タイムラインには時間が流れていないのです。

ここから論旨は時間の存在しないSNSに時間を作り出す手段としてのストーリーズ、同じ時間の共有体験、ハイデガーの時熟…と展開していくのだがちょっと牽強付会の感がなくもなく。それよりも時間のないネット上に擬似的な時間を作り出しているものの正体、すなわちSNSを提供するテック企業による営利目的のアルゴリズムの存在が意識される。

 

炎上について。

ここは主にX(本書ではTwitterと表記)の話題。ツイートってつぶやき(独り言)なのに他者がそれにリプしてきたりするから他者=社会を意識せざるを得ず、それもうつぶやきじゃないよね、という話から始まる。

何気ない短文の投稿にも見当違いの罵倒や揚げ足取りをしてくるクソリプの不快さが何に由来するかというと、

自分の「つぶやき」を「つぶやき」のままにしておいてくれないこと、ひとりごとのままにしておいてくれないことに対する不快感なのではないでしょうか。

このあたり、承認欲求の話との矛盾もある気がするが。

もう現在のXは気軽に自由に好きなことを発言できる場ではない。「いつ炎上が起こるかわからない殺伐とした空間」である。

本当そのとおりだと思う。過去の発言であってもデジタル情報は現在として錯覚されるから事故る可能性は常にある。迂闊なことは発言できない。

ここからウィトゲンシュタイン言語ゲームの概念を用いて炎上の発生を考察していくのだが…ここも微妙。言語ゲームだと独り言(部屋に一人きりでいた時にタンスの角に足をぶつけて思わず「痛え!」と叫んだ場合とか)はどう解釈されるんだろう、と気になった。

 

アルゴリズムについて。

自分が見たいものだけを見、

自分が知りたいことだけを

知ろうとする限り、

私たちの視野は

どんどん狭くなっていきます。

しかも、アルゴリズムは、

私たちが「見たい」とか

「知りたい」とか意思する前に

「私」にその情報を届けてしまうのです。

章扉ページのこの言葉がアルゴリズムの怖さについて端的に述べている。上で、「時間のないネット上に擬似的な時間を作り出しているものの正体、すなわちSNSを提供するテック企業による営利目的のアルゴリズムの存在」と書いた。SNSで作動している最適化のアルゴリズムとは、Instagramであるユーザーをフォローすればそのユーザーと同じジャンルに属する別のユーザーの投稿が優先的に表示される、Xでは「いいね!」が多いユーザーの投稿、多くの人から閲覧されている投稿が優先的に表示される、そういうもの。

 こうしたアルゴリズムは、総じて、「私」がいま好きなもの、関心を寄せているものを「私」に近づけ、「私」が嫌いなもの、関心のないものを「私」から遠ざけるようなシステムである、と考えることができます。それによってタイムラインに表示される情報を「私」にとって価値のあるものにして、その結果としてSNSへのアクセス頻度や閲覧時間を増やすことが、運営会社の狙っていることなのかもしれません。それは企業の戦略としては合理的であると言えます。

 

自分用に最適化された情報ばかりを摂取しているとどうなるか。

 自分が見たいものだけを見、自分が知りたいことだけを知ろうとする限り、私たちの視野はどんどん狭くなっていきます。しかも、アルゴリズムは、私たちが「見たい」とか「知りたい」とか意思する前に、「私」にその情報を届けてしまうのです。

 

 アルゴリズムに従って情報に接しているとき、その情報が「私」を大きく変えることはほぼありません。「私」は、自分がもとから関心のあること、好きなこと、知りたいと思っていることにだけ、出会うことになるからです。そうではない情報は、「私」にとって「ハズレ」となるリスクがあり、時間とお金の無駄と感じられるかもしれません。そうした無駄を回避したい、という欲求に、アルゴリズムによる最適化は応えようとしているのです。

この指摘は、昨今のコスパあるいはタイパ至上主義的な嗜好と重なる。失敗をしたくない、金や時間を無駄にしたくない、効率よく情報を得たい。食事の味や見た目はどうでもよくてただ栄養と安さだけを求めるような味気なさ*3

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また、自分が今年はSNSに費やす時間を雑誌を読むことに向けた理由の一端にもなっているように思われる。上映中の映画がどんな評判かとXで検索すると、大喜利のようにうまいことを言ったり、強引な解釈で奇抜なことを言ったりして、とにかく目立とう=PVを稼ごうとの思惑が透けて見えるようなアカウントがトップに表示されることが多くまったく参考にならない。よく知らないがXはPVを稼ぐほど収益が増す仕様になったんだっけか。そのシステムに「最適化」したアカウントたちなのだろう。役に立たないからもうXで検索はしなくなった。BRUTUSのホラー特集は様々なジャンルのホラー作品を採点するという主旨で、当時公開していた(終わっていたかもしれないが覚えていない)『MEG2』や『フォール』がやたらと高得点だったから、「これらが『コンジアム』や『哭声』より上はありえねーだろ」と思いつつ、商業誌だからビジネス大事だもんな…と納得した上で読めたが、SNS上のアカウントは正体がわからないから(プロフ見ればわかるのかもしれないが面倒臭くてそこまでしない)意図が見えない分気味が悪い。あと、単純にプロの作家やプロの編集者の方が、どこぞの馬の骨ともわからないSNSアカウントの発言より情報として信頼できると思うようになったのもある。俺の中でオールドメディアが復権しつつある。昔はネットにこそ真実の声がある、と無邪気に思えたものだったが…。今のネットは商業主義に染まりすぎ。

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アルゴリズムは最適化を図ってくれるけれども人間の趣味嗜好は時間経過とともに変わっていく。偶然性の排除は可能性の排除につながっているのではないか? としてベルクソンの創造的進化が参照される。本屋で、映画館で、ラジオやテレビで、あるいは街を歩いていて、偶然知った何かにハマり、それが人生を豊かにしてくれる──そういう体験はアルゴリズムからは生じない。もちろんハズレを引く可能性はある。いや、ハズレる方が多いだろう。だからアルゴリズムの外に身を置くとは賭けである。賭けとは結果が予測できないもの。だから楽しいことが起きる──それをストレスに思う人もいるようなので一概には言えないが(タイパ重視の若者の中には映画を見ていて予想外の展開になるとストレスだからあらかじめ筋を知ってから見たいという人もいるという)──のではないだろうか。

 

連帯について。

SNSで連帯は可能か? ここではアーレントの公共性の概念が参照されるが、このテーマには興味なかったので斜め読み。アーレントに関しては以前関連書籍を読んだ。

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本書の内容については以上。

 

SNSの特性、その問題点についての哲学的な考察というのは面白い試みで、本書から、紹介されている哲学者の思想に関心を持ってもらいたいとの著者の思いが汲み取れた(本書は10代の若者を意識して書かれているよう)。俺としては哲学とか思想にはあまり関心がない(文章が難解で読むのが苦痛なのと、もう人生の折り返し地点を過ぎており今更哲学や思想でもないだろうとの思いがある)ので単純にSNSへの問題提起の書として読んだ。SNS、ことにXの言論空間について章を割いているのにフェイクニュース拡散に関しては触れられていないのは物足りなさあり。

 

俺が今アカウントを持っているSNSはXのみ。今年の7月以降投稿していないし、少し前からは鍵をかけている。もう投稿する気はないのでアカウントを削除したいのだが、現在のXの仕様だとアカウントがないとXが見られず、俺が求めている情報(新刊情報、映画の公開情報、出先の混雑状況など)が閲覧できなくなってしまう。Xに頼らず「巡回」できなくはないんだがXの効率性に慣れてしまった今では億劫だ。なので仕方なく残している。他人の生活に関してはほとんど覗いていない。欲しい情報を収集するためだけの利用。SNSで公開されている他人の姿はすべてフィクションだから信じない。短文を応酬して揉めているのを見るとその不毛さに他人事ながらげんなりする。

 

 

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*1:ブルース・フッド『人はなぜ物を欲しがるのか』

*2:そうなれない憐れな中年も世の中には大勢いるようだが

*3:「コンテンツの摂取とは食事によく似ている」との『ネット右翼になった父』の一節がアイロニーをもって連想される