中年本の一冊として。中年本というよりはもう少し先の初老本あるいは老齢本といった方が適切な内容だった。むろん知ったのは荻原魚雷『中年の本棚』による。
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中年期についての記述として印象的だったのは以下。
色気も仕事への野心もみたされないまま残っていて、肉体の衰えは一年ごとに感じながら、それを認めたくないのです。自然、無理をして、病気になる率も多いわけで、知人の例を見ても、大概、この時分に何か大病をして、それが生涯の転機になっているようです。
人間にとって一番納得がいかないのは自分の人生がこれほど速やかにすぎ去るということで、これは十八歳で世を去らねばならなくとも、八十歳まで生きのびても、同じであろうと思いますが、中年期の終りには、この未練が特に集中した形で現れるのかも知れません。
著者は精神の健康を保つには肉体の健康を保つのがまず大事と考え、70歳を過ぎてマラソンと縄跳びを習慣とした。しかしやがて体の不調によりそれらの習慣は自然消滅してしまう。
七十歳というと人生を生きてしまった齢のひとのことと思っていたし、今は自分がそう思われているに違いないのですが、実感から言えば、たしかに自分の人生は終りかけている。しかし自分はまだほんの少ししか生きていない。殆ど生きていない、と言ってもよいくらいだというのが偽らぬところでしょう。
別段、人にくらべて不遇であったとも、単調な暮しを強いられてきたとも思わないのに、齢とともに自分が「生きて」こなかったという気持が強くなるのは不思議なくらいで、ここに老年期の主要な迷いがあるのではないかと思われます。
過ぎてしまえば70年もの月日もあっという間なのだろう。あれをしよう、これもしようと予定を立ててもその予定の多くを実行することなくこの世に別れを告げる。
この本、はじめのうちは老いてなお生きる意欲を見せる著者の姿に元気づけられるのだが、だんだんと歳を重ねるにつれ昨日できたことが今日はできない老いの残酷さにより少しずつ諦念の度が増していくので、読み進めるうちに切なく、悲しくなる。75歳になった最後の方では長い昼寝が習慣になったといい、すでに亡くなった旧友たちと夢の中で会話することにささやかな慰めを得ている。 著者は77歳で亡くなっている。
自身の老化についてのエッセイの合間に、若い頃の回想や文学論も挿入されている。若い頃から住んでいる鎌倉についての、ことに海にふれた文章はよかった。かつて鎌倉の海岸は砂が白くて綺麗で、海の水も透き通っていたというくだりはにわかには信じがたい。大正の話である。由比ヶ浜の水が濁ったのは昭和の初めに稲村ヶ崎の山を崩して長谷に埋立地を造ってからとのこと。もう何年も鎌倉も江ノ島も行っていないけれど(何年か前に紫陽花のシーズンに行ったら江ノ電が激混みだったので人混み嫌さに行かなくなった。圏央道がつながって埼玉からのアクセスがよくなったのを嬉しく思っていた矢先だった)自分の知っている由比ヶ浜や七里ヶ浜とは隔世の感がある。
電車で立っていたら前に座っている若者に席を譲られた時、著者は初めて自分が老人であることを意識したという。本人は自覚なくとも周囲からはそう見られている。自分もいつかそういう日が来るのだろう。本書の内容は頭ではわかるしきっとそうなんだろうと想像もつくのだが、まだ実感するほどではない。本棚にしまっておき、十年後(その時は54歳か)にでも読み返してみたらそのときはより切実に読めるようになっているかも知れない。エッセイのほかに短編小説が三編収録されているがこちらはあまり感銘を受けなかった。
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